わたしたちは「たましい」として、それぞれの「身体」に乗り込み、その身体に備わった「心」というアプリを通じて身体体験を得ながら、「たましいとしての自己の意図の具現化」を心身にさせています。

しかし、わたしたちが暮らしている文化では、そもそも自分たちがそのようなしくみで生きているということなど関係なく「生きる」という体験ができてしまうからか、わたしと心身の関係や、心身の扱い方に関して、本当に闇雲に生きているような状況になっています。

わたしたちは、それぞれの身体に乗り込む前は、わたしを感知できます。
ところが、一度乗り込んでしまうと、わたしを感知できません。

それぞれの身体に乗り込んだ後、わたしが感知できるのは、それぞれが乗り込んだ心身に生じている情報だけなのです。


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今わたしは、無人で仕事をするタクシーに乗り込んでいるとイメージしてみてください。

そのタクシーには人工知能が備わっていて、その人工知能はわたしの意図を汲んで、目的地までの経路をプランし、道路状況に合わせて車体を操作して、目的地にわたしを運んでくれる。

実は、わたしたちがそれぞれの身体に乗り込んでいる状況も、これとほぼ同じです。

ただひとつだけ違うのは、この世界で無人タクシーに乗車する時は、明確に

「この無人タクシーと乗客である私は別物だ」

と自覚できますが、たましいとしてそれぞれの身体に乗り込んだ場合、うっかりすると、自分が乗客として乗り込んだタクシーそのものになったような感覚になってしまうということです。

自分が乗客として乗り込んだタクシーに生じていることが、まるで、自分自身に生じているかのような感覚になってしまうのです。

だけれども、ほんとは乗客として乗り込んでいるのが事実です。

今の文化で、わたしたちが「自分の体感や思考」として扱っているのは、わたしたちが乗り込んた無人タクシーに生じていることで、乗客としてタクシーに乗っているわたしに生じていることではないのです。

とはいえ、この人の心身という無人タクシーは、わたしたちという乗客の意図を汲んで、その意図に忠実に運行しているのです。

忠実すぎるくらい、忠実に、運行しているのです。

ところが、乗客としての自覚がないまま、無人タクシーに乗っていると、人工知能の内部で生じていることが、まるで自分に生じていることのように感じてしまう。

すると、本来は乗客を運ぶタクシー側の都合が、まるで、自分の都合のように感じてしまうので、わたしたちひとりひとりの都合ではなく、タクシー側の都合で振舞うようになってしまうのです。

だけれども、本当は乗客なのです。

乗客には乗客としての役割があり、無人タクシーには無人タクシーとしての役割がある。

しかし、今、わたしたちが暮らしている文化では、そんなことなどまったく考慮されていない。

それどころか、まるで世界は、タクシーに備わった人工知能どうしの覇権争いのような状況になっています。

そういう意味では、シンギュラリティ―は、すでに、起きていたのです。

Ryosuke