「超クソゲー(3)」読了。で。



日本でゲーム批評が受け入れられない理由

http://sub.game-damashi.com/weblog/2011/09/27/1410/


>ゲーマーたちは口では「公平なレビューを!」と言いながらも、

>実は心の底ではそんなもの望んでいないのではないだろうか


なども読んでみまして。

とりあえず、「レビュー」と「公平さ」ってものについて、ちょっと語ってみたいな、と。


「ゲーム批評が公平であったか」って部分にはひとまずまあ目をつぶって、

「公平な意見」って、そんなに魅力があるかな? ってところを論じてみましょう。




そもそも、読者が「レビューに何を求めているもの」ってなんでしょうかね?


ワタシの場合、「レビューに期待するもの」って、

こんな感じなんですよ。


(1)買おうと思っている(買うかどうか迷ってる)ゲームが、期待どおりの出来か判定する機能

  (よし、買おう! or ちょっと見送るか……)


(2)自分が面白かったゲームの「面白さ」を解説してくれる機能 

  (そうそう、あれすごかったよな!)


(3)自分がつまらなかったゲームの「ダメな部分」を解説してくれる機能

  (そうなんだよなー。あのメーカーはここがわかってねーんだよ……)


(4)知らなかったゲームを発掘してくれる機能

  (おお、こんなゲームがあったのか!)

  (あ、このゲーム、こんなすごいところがあったんだ)

  (うあー。こんなダメゲーが……自分で作るときは気をつけよう)


(5)面白い紹介をしてくれるレビュアーさんのゲーム紹介記事

  (この人の見方おもしれー。次はどんなゲームを語るんだろう?)

  (おお、面白い見方だ。こんな見方があったのかー)



他、ありますかね? うーん。考えればもうちょっとありそうなんですけど。

まあ、いいか。こんなもんで。

他はちょっといじれば、上の分類にいれられるんじゃないかとおもうんで。



さて、この中で、「公平さ」が求められるのって……どれですかね?


(1)は間違いなくそうかな、と思うんですよ。

でも、(2)-(5)は違うんじゃないかな?

(2)と(3)は、その主旨から、「自分と意見のベクトルが近いレビュー」であることが前提。

(4)は、発掘って意味があるんだから、多少もちあげてたって文句はない。

ひいきでもいいから、見所を教えてほしい感じ。

(5)は、その人なりの意見がでてりゃ、それでいい。



いやいや、もちろん、「極端な不公平さ」はどれでも困りますけどね。

(2)-(5)は、多少バイアスがかかってたところで、「どうってことない」ように思うんですよね。


たとえば、クソゲー紹介。

多少公平性を欠く書き方だったとして、そのレビューがつまんない、

ってことにはならないんじゃないですか?

クソゲーオブザイヤーのレビュー文は、やっぱりときどき、

公平性には欠ける文章も混じりますが、面白いじゃないですか。


ファンサイトが、「どーみても欠点に目をつぶったレビュー」を掲げたとしても、

それが愛に満ち溢れた深い考察だったら、それはそれでいいんじゃないか、

って思うわけですよ。


ゲームの分析・解析だって、理屈や事実にあってることは必要だけど、

レビュアーがあるメーカーのソフトだけ取り上げてからって、

別に、それはそれで。内容が深さ浅さは問題ですが。


懐ゲーの紹介記事が、当時のメーカーへの愛に満ち溢れたものだったからといって、

紹介内容が間違ってなけりゃ、別にかまわんでしょう。



で、こういう観点でみてみますと……。

「公平さ」って、そんなに必要なもんですかね?



いや、「公平であるほうがよりよい」のは間違いないですよ。

でも、雑誌としてのウリにするほど、強い魅力なのかなあ、それ、と。


「ゲーム批評」って雑誌は、「意見の公平さ」をウリに押し出してたと思うんですが……

実は、それが生きるのって、あんまりないんですよね。


(1)の場合は生きるけど、これは購入の可否判定にするんだから、

速報性も公平性と同じぐらい求められてしまう。

で、「ゲーム批評」は、その性質上、「速報性」は致命的にない。

(2)-(5)は、主旨の都合上、

「たとえ公平であったとしても、そのレビュー・記事にとってそんなにプラスにはならない」。



「ゲーム批評」を買うぐらいのゲームファンが、あそこでレビューされるまで、

気になるゲームを買わずにいる」って、あんまりないし。

そうすると、「公平かどうか」はさておき、それぐらい時間がたってるなら、

「深い考察」「興味深い考察」をしていることのほうがよっぽど重要だし……と。



キツイ言い方をするなら、「ゲーム評価」は、

「ウリが生きる時期に商品を客のところに届けられてなかった」じゃないの? と思うわけなんですよ。

もちろん、真っ当なゲーム論評誌としていくなら、

面白い記事がかけてれば(2)-(5)だけでも人気は出るかもですが……。

いや、もちろん、その問題を解決するのが難しかったのもわかるんですが……。



そもそも、ゲーム企業の広告を断ってまで押し出していた、「公平な記事」って、

実は、読者のニーズ的にも、重要性的にも、そんなに高くないんじゃないのか、と。



自分とあわない意見を見たとき、つい「公平じゃない意見だ!」といってしまいがちになるけど、

それは単に意見があわなかったものを批判する声、ってだけで、

本当に求めてるのは公平な声じゃないんじゃないか……ってのは、上のリンク先と同意見なんですが。



本当に他の誌上が、極端に不公平な意見で占められていて、

それを打破することが求められていた……っていうなら、ウリにもなったんだと思いますがね。


別に、ファミ通の記事が公平さに満ち溢れている、とは思わないわけですが、

それが致命的なほど極端に不公平ではなかった、ってことなんじゃないかなあ、と。




……あ、レビュアーが「なるべく公平であろうとする」ことは、すげー大事だと思いますよ。


「レビュー」にとって「公平さ」は大事。


ただし、「レビューが公平である」ことだけでは、雑誌のウリとしては不足していた、ってだけで。


「国際社会で正義を叫んでも無駄」ってのに近い。

でも、人としていいこと悪いことを意識するのが大事なのと同じ。


ワタシ自身も、「ネット上の、公平じゃない記事」に腹たてることなんかも多いですが、

だからといって、その記事に集客性も注目度もあるのもまた事実。