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西蔵宝篋印塔

善光寺の裏山、花岡平の中腹に西蔵宝篋印塔と呼ばれる石塔がぽつねんと建っている。


これは今から46年前の昭和39年、多田等観と三人のチベット人、ソナム・ギャツォ・リンポチェ、ケツン・サンポ・リンポチェ、ツェリン・ドルマ女史の手によって県内外の僧侶や市民及び柳町中学校(長野市三輪)などの協力を得て世界平和を祈って建立されたもので、内部には、 当時の生徒らが千曲川で拾い集め、チベット人らが経文を書き込んだ石と経巻10巻が納められている。

落慶式には当時の善光寺大本願副住職、大勧進副住職はじめ県内外の関係者が多数出席しておごそかに法要がおこなわれたそうだが、通常この手の石塔は建立後、キリのいいあたり(13回目など)で法要を終わらせてしまうことが多いのに対し、この西蔵宝篋印塔はなんと建立後46年を経過する21世紀の今日まで地元の関係者の方々の手で粛々と法要を続けられてきたというのだから凄い。

そんな西蔵宝篋印塔を6月21日の早朝、長野市滞在中のダライ・ラマ法王が超過密なスケジュールの中、法要に訪れて下さった。
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西蔵宝篋印塔。


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多田等観他、チベット人三名の名前が見える。


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この長野の地に世界平和を祈念してチベットの般若心経が埋経されていることが興味深い。


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取材中のチベット人ジャーナリストたち。


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法王ご到着。


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地元の関係者から歓迎を受ける法王。


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法王直々による法要。


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地元の関係者代表からご挨拶。


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日蔵友好の長い年月を感じさせるスナップ。


蛇足ながらダライ・ラマ13世に寵愛された多田等観だが、実はチベット動乱後の1961年に39年ぶりに訪れたインド(ダラムサラ)で亡命直後の現ダライ・ラマ14世にも謁見している。

また三人のチベット人の来日の経緯については国立民族博物館のHPから以下抜粋。



チベット動乱を受け、世界各国のチベット学者がイタリアに集まり、亡命したチベット人たちとどのようにチベット学を推進すべきかが論議された。その結果、各国の研究事情に合わせてチベット人学者を招聘し、それぞれ共同研究を行うことが決議された。ロックフェラー財団はこの計画に5年間21名分の旅費・人件費を支出することを決め、プロジェクトが動き出した。日本からは財団法人東洋文庫の多田等観師と北村甫氏が会議に出席し、ソナム・ギャツォ師(サキャ派活仏)、ケツン・サンポ師(ニンマ派学僧)、ツェリン・ドルマ女史(貴族=ツァロン家)の3名を東洋文庫に招くこととなった。国立民族博物館



ちなみにこの三名のプロフィールを付け加えておくと、ソナム・ギャンツォ・リンポチェはサキャ派ゴル大僧院の住持の活仏、ケツン・サンポ・リンポチェは近代ニンマ派碩学ドゥジュム活仏の弟子、ツェリン・ドルマはツァロンの娘なのだが、日本人には10年に亘って東京大学で教鞭をとり、その後も何度も来日されているケツン・サンポ・リンポチェが一番馴染み深い人物なのではないだろうか。

かくいう自分も東京にいるンガッパ(ニンマ派の在家修行僧)の友人のグルがケツン・サンポリンポチェであり、またリンポチェの僧院がかつて自分が住んでいたカトマンズから車で小一時間郊外へ行ったスンダリジャルという水と緑にあふれた美しい集落にあるので、お会いしたことはないものの一方的な親近感を持っている。

なお、残念ながらリンポチェは昨年12月9日、90歳で入滅された。


西蔵宝篋印塔、、


今回法要に訪れた法王も、自分のよく知る人物たちの手によって46年前に建立された石塔には他と違った感慨を持たれたのではないだろうか。


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