『日本最南端の近代化産業遺産を訪ねて』 ~西表島・宇多良炭坑跡探訪記~ | チベせん日記

『日本最南端の近代化産業遺産を訪ねて』 ~西表島・宇多良炭坑跡探訪記~


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毎年、所属団体の会報にチベット的小話 を書かせてもらっていたのだが、いちおう製造業の団体なので、たまには近代産業に関わる話を書いてみようかなと思い、今年は昨年12月に訪れた西表島の宇多良炭坑跡について書かせてもらった。以下原稿そのまま添付。



イリオモテヤマネコの生息地として知られる西表島は東京から南西へ約2,100km、沖縄本島から約460kmに位置し、島の面積は284km2と沖縄県では沖縄本島に次ぐ大きさで、人口は約2,300人、島の90%は亜熱帯の原生林で覆われており、イリオモテヤマネコやカンムリワシ、セマルハコガメなど15の国指定天然記念物の他、周辺海域では400種を超えるサンゴと豊かな海洋生物が生息する“東洋のガラパゴス”と称される島である。

そんな西表島の西部地区、レジャー客で賑わう浦内川の支流・宇多良川の密林奥深くに日本最南端の近代化産業遺産・宇多良炭鉱跡はひっそりと眠っている。



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宇多良炭坑跡入り口。2010年に林道が整備された。


西表島の石炭の歴史は古く、18世紀末に書かれた八重山の古文書には島の産物として「燃石」の記述があり、また幕 末にペリー艦隊が琉球を訪問した際の地質調査報告書にも西表島に石炭の存在を示唆する記載がされていると言われている。

その後、明治時代に入ると三井物産や大倉組などの財閥系企業が西表島の炭鉱経営に本格的に乗り出すのだが、第二次大戦後、米軍の「ウィラープラン」でマラリアが撲滅されるまで西表島はマラリアの有病地だった為、炭坑夫のマラリアの罹患率が極めて高く、進出しては撤退を繰り返した。

大正時代に入ると日露戦争後の重工業化や、第一次大戦の好景気を背景に石炭の需要が大幅に伸び、一度は衰退していた西表炭坑にも新規企業の参入が相次ぎ、それらの買収・合併などが繰り返される一方で、現場における納屋制度(いわゆる請負制度)が確立されていった。

大正末期から昭和初期にかけては不況の煽りを受けて石炭の需要も下がり、さらに品質が良く安価な中国の撫順炭が出回った為、国内の石炭市場が圧迫され、再度衰退していくのだが、やがて満州事変後の軍需景気に押される形で全国的に石炭の増産が叫ばれ、西表炭坑も再び新坑開設が進み、昭和1112年の最盛期には島全体(含む内離島)で年間123万トンと国内でも有数の産出量を誇るに至る。

そんな昭和10年代の最盛期に、のちに“西表の炭鉱王”と呼ばれる野田小一郎が浦内川の支流、宇多良川沿いのジャングルを切り開いて、一大炭坑村を出現させた。

坑主・野田は元々納屋頭をしていた為、坑夫の扱いに長けており、炭坑景気の追い風に乗って丸三炭鉱宇多良鉱業所をまたたく間に西表一の大炭坑にのしあげた。



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沖縄県内で最長の河川・浦内川。かつてこの河口に石炭船の船着き場があった。


炭坑内には400名を収容する総二階建ての独身者宿舎を始め、夫婦者の納屋が十数棟、300名を収容できる集会所を兼ねた劇場、病院の他、坑夫の子供たちを学ばせる私設の小学校まであり、道路はコンクリートで舗装され、上下水道まで完備された近代的施設で“桃源郷”とまで形容されたそうだが、表向きの派手さに比べ、坑夫の納屋はお粗末で、坑夫たちからは“圧制炭坑”と恐れられていた。

坑夫の多くは斡旋人の甘言に乗せられて日本各地や台湾、中国などから集められてきた人たちだった。何も知らされないまま島に着くと船賃、食費、衣服費、さらに斡旋料に至るまで借金として負わされており、その借金を返済するまでいわゆるタコ部屋労働を強いられることになった。

ところが借金を払おうにも飲食費が引かれ、作業で使用する用具費が引かれ、病気でもしようものならその薬代が差し引かれるといった具合で、いくら働いても返済どころかほとんど手元に残らない巧妙な搾取システムになっていた。また、給料は逃亡防止の為、現金ではなく会社発行の炭坑切符で支給され、会社経営の売店で食料や日用品と交換することができるもののそれ以外の場所では何の役にもたたず、ある程度集めれば通貨と交換することもできるとされていたが、実際には交換されないばかりか責任者が交代すると紙切れ同然となった。つまり一度騙されてここへやってきたが最後、二度と帰ることは叶わなかった。

炭坑での労働は過酷なものであった。西表炭坑はどこも炭層が一尺~二尺と薄いため坑道は狭く、採掘は俗に「タヌキ掘り」と呼ばれる原始的な採掘法で横に寝ながら手掘りで行われる為、落盤事故もしばしば起こった。

坑内労働は早朝六時から入る一番手と昼過ぎから入る二番手、さらに夜中に入る三番手に分かれており、労働時間は12時間ほどだったが、労働時間がきちんと守られることはなく、ノルマが達成できなければ昼夜を問わず働かされ続けた。あまりの苛酷な労働に耐えかねて逃亡を試みる“炭坑ピンギムヌ”(逃亡者)も少なくなかったが、なにせここは離島アルカトラス。成功する確率は極めて低く、捕まれば連れ戻されて“人繰り”と呼ばれる労働管理者から見せしめの為、時には死にいたるほどの凄惨なリンチが加えられ、またあるものは海の藻屑と消えた。マラリアや風土病が蔓延する中、不衛生な環境で長時間苛酷な労働を強いられる為、命を落とす者も多く、死ねば川沿いの適当な場所に葬られ、また葬るために穴を掘ると前に葬った坑夫の死体が出てくるありさまだったという。戦後のある元坑夫の証言:「戦争があって、しかも負けて良かった。もし勝っていたら今でも掘らされていたかも知れない。」

この言葉が炭坑労働の苛酷さを端的に物語っている。

そんな圧制の上に栄華を極めた宇多良炭坑も、太平洋戦争が始まると炭坑夫の軍隊への招集や石炭輸送の寸断などによって昭和18年には休止状態に陥り、やがて沖縄戦が始まると米軍から軍需施設として誤認されて空爆を受け施設は崩壊。戦後は米軍がわずかに採炭を試みたもののやがて放棄された。

その後は長い年月密林奥深くで朽ち果てるままになっていたが、炭鉱が日本の近代化に果たした役割を後世に伝えるため、2007年に日本近代化産業遺産群の一つに認定され、現在は林道などが整備されており、わずかに残るトロッコのレール支柱などを見ることができるが訪れる者は少ない。


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コンクリート製のトロッコのレール支柱


環境省と林野庁は現在、西表島などを核とする「奄美・琉球諸島」を国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界自然遺産登録に向けた国内候補地として暫定リスト掲載作業を進めている。また、20133月には新石垣空港も開港し、今後ますます西表島を訪れる観光客は増えることが予想される。しかしそんな秘境・西表島で、かつて騙されて連れてこられた善良な市民が死ぬまで苛酷な奴隷労働を強いられていたという近代化の陰に埋もれたもう一つの歴史も併せて後世に伝えて行く必要あるのではないだろうか。


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ここで生涯を終えた人たちを供養する為、2010年に萬骨碑が建立された。