観音山の一灯庵
毎年この時期に花巻市を訪れている。
それは例年6月初頭から一ヶ月間、花巻市博物館にて「多田等観展」が開催されているからなのだが、その際に必ず訪れるのが湯口にある観音山。
ここは多田等観のかつての疎開先であり、戦後、足掛け7年間自炊生活をしていた一灯庵という庵が今もなお地元の方々の手で大切に保存されている。
明治の廃仏毀釈のあおりで円万寺観音堂と八坂神社が同居する、日頃は無人の境内を例年は気ままに散策させてもらっていたのだが、今年は東京から「多田等観展」に合わせて花巻にいらっしゃった貞兼綾子先生、渡辺一枝さん、長田幸康さんご夫妻をお連れしたので、地元の「観音山を守る会」会長の畠山さん以下、氏子総代の畠山さん、花巻市議会議員の那須川さん、花巻市博物館で多田等観の請来したチベットの文献整理をされている学芸員の寺澤さんら花巻のチベット関係者?(と思われる)の方々に境内を案内して頂いた。
ちなみに例年はこんな感じ。
(昨年)
http://ameblo.jp/tibesen/day-20090623.html
(一昨年)
http://ameblo.jp/tibesen/day-20080630.html
通常は閉め切っているが、この日は特別に中を拝見させて頂いた。
ここに当時は囲炉裏があったらしい。
等観の手によって書かれた「一灯庵」オリジナルの看板が飾ってある。
なお、現在表に掲げてあるものは風化を防ぐためのレプリカ。
これも元々は無造作に掛けてあったものを、風化を防ぐために地元の方々が軸のまま額装したらしい。
この梵鐘はかつてここ円万寺にあった梵鐘が応仁の乱の頃に現在の北上市界隈の豪族に攻められた際、持ち去られたという事跡に基づいて、戦後物資のない時代にその復元と太平洋戦争の戦没者慰霊をしようとの目的で等観が発願し、湯口村民のみならず、近隣村勇志の浄財をも寄せられて真鋳された梵鐘で、鐘面にチベット文字とその下に漢語で「観其音声皆得解脱(かんごおんじょうかいどくげだつ)」とある。
これは観音経にある言葉で「この鐘の音を聞けば皆安らかな境地に至りますよ」という意味らしい。
なお、この鐘文の撰文は玉音放送の「終戦の詔書」の草案で知られる漢学者、川田瑞穂氏によるもの。
宮城県白石市にある専念寺から請来した阿弥陀仏が安置されているらしい。
白石も等観ゆかりの町で、等観が来たと聞くと農家が餅を突き始めたというくらい信仰されていたそうだ。
その白石の専念寺には等観が当時の法隆寺管主・佐伯定胤大僧正に依頼し、法隆寺建立時の古木を用いて彫られた太子像が安置されている。
ここには等観がダライ・ラマ13世から下賜されたチベットの国宝、「千手千眼十一面観音像」が御本尊として安置されている。
自分は昨年、博物館にて拝観したのだが、日頃は金庫に厳重に保管されているご本尊をこの日は特別にご開帳して頂いた。
そのお姿は仏心の足りない自分ですら思わず両手を合わせてしまうくらい威光のある塑像で、恐れ多くて撮影は控えた。
それにしても100年近く前にポタラ宮からはるばるやってきた観音様が、東北地方のこんな山深い観音堂にひっそりと安置されているなんてなんだかとっても不思議な気持ちになる。
言い伝えによると奥州制定時に坂上田村麻呂が植えたと言われており、その際、馬頭観音を祀ったのことが観音山の起源らしい。
一通りご案内していただいた後は、喉も乾いたことなので「染滝」という湧水が湧いているところに清水を汲みに行く。
外は30℃を超える気温だと言うのに一歩山の中に入るとひんやりと涼しい。
なんでもこの中は観音霊場としての秘密結界が張られているそうだ。
画像左手の斜面にかつて等観の露天風呂があり、昭和23年8月26日の等観の日記に「山の染滝に露天風呂完成」と書いてある。
毎年訪れている観音山だが、今年は地元顕彰会の会長で、多田等観とも直接親交のあった畠山さんにご案内していただいたおかげで、貞兼先生からも、
「多田先生がお住まいになった場所に立てて、しかもそのころとあまり変わらない風景や心情に触れることができたことが一番でした」。
とのお言葉を頂き、自分もまさに同じ気持ちだった。
余談ながら今は白髪の畠山さんだが、境内には詰襟姿で等観と写っている写真が掲示されている。
最晩年まで等観と交流のあった畠山さんのところにはシッキムからも等観の手紙が届いたそうです。
そんなわけで今年は先日の長野の「西蔵宝篋印塔 」に引き続き、多田等観の足跡を辿るような、チベットと日本の100年の交流を巡るような、そんな貴重な花巻訪問になった。
畠山さん、名須川さん、寺澤さん、平日昼間にも関わらずご案内頂きありがとうございました。
この場をお借りして御礼申し上げます。
イグネ(屋敷林)が点在する風景が素晴らしい。