自分がブログをやっているということを忘れていました。

それだけ心に余裕があったのか、無神経に生活してたのかは置いておいて、久しぶりにネガティブなことでも書こうかなと暗い部屋で深夜を過ごしているわけです。



小さい頃に起きた辛いこと、忘れたくても忘れられないこと、嫌でも夢に出てくる人物、人生の構築パーツになっている全てのモノ、コト。

なかったことにしたら。

僕ではありません、ここにいる人間は。

消したいとは思います、でも勝手に消えることは望みません。それでは無意味ですから。

骨や肉になって、一緒に焼かれればいいんです。墓場まで持って行くとはそういうこと。灰を持って行けば、それも同じこと。

今になってそういったことを思い出して考えると、面白いこともあると思います。

自分の非、情けなさ、トータルでの失敗がわかることだとか。

結局焼かれていないんですよ、まだこの時点では。何かの不完全燃焼があるから、こうやって思い出して考えているわけです。


単純に「器が小さい」の一言で片付きます。
物体のスケールだけではなく、色、柄、質、器に対する価値観は他にも存在するのではないでしょうか。



「人生」でも、同じことだと。
6は逆さにしても9ではないわけであって。


物事を考えるのには時間が必要ですね。とっさに行動に移すことは、考えたのではなく閃きや直感。僕は熟考することが多いですかね。時と場合によりますが。

「時と場合による」ってすごく便利な言葉だと思うんです。

だいたいのモノ、コトは時と場合によるから。

グレーな色付けをすることができて、保険も掛けられる。

白黒はっきりつけることも大事ですが、個人的に世の中のグレーゾーンってものが好きでして。

そうやってボカし誤魔化しの細工をするのもいいのではないかと。それで誰かに迷惑を掛けてしまうのなら別ですが。

そういう小技を効かせてるつもりなどうでもいい論説文に、大学受験の問題でよく出会いました。

何だか訳の分からない専門家気取りな奴が偉そうな面して書いた、ブレブレの文章。こいつと同じ知識があれば、少なくともこいつよりは上手く書けると、高校生ながらに思ったことが多々あります。

いざやれと言われても、その文より上手く書けることはないだろうなと今となっては思いますね。

一旦スタンダードとしてそれが脳内に記憶されてしまった以上、意識せざるを得ないし、単純に文章力には雲泥の差があるはずです。

頭がペラペラの高校生でもそれくらいは予め分かっていましたが、その文中ではグレーなことばっかり。問題にされてもちょっと困ってしまいますね。


結局のところグレーがいいこと、グレーが悪いこと、そんなことはどうでもいいんです。


時と場合によりますから。
受け手になって気付く事は、少し意識すれば受け手にならずとも気付けるわけであって。


人の積み重ねてきたもの、登ってきた人生の階段、つまり「育ち」。

個人的に、育ちの善し悪しに関する第三者からの評価は余計なお世話であるけれども、どうしてもそういう物差しを置かれてしまうのは仕方のないことでもあると。

こういう言い方をすると聞こえが偉そうですが、人は他人に対していろいろなところで評価しているし、逆もしかり。

僕が気にし過ぎなのかもしれませんが、食事や会話の最中の仕草などひとつで様々な印象を持ちます。そういうことろで育ちというものが出るのではないかと。

家庭の貧富、親の教育方針、幼少時の経験など、左右されるものは数えきれないはずです。

正解というものは基本的にはないとは思います。けれども不正解は別。

人間は人間に囲まれて、人間と暮らしています。社会が決める不正解というものは、厳密ではないにしろ存在はしていると。それはさすがにないでしょ、みたいな言動とかが該当するんですかね。

はっきり言って、不正解ではなく個性や性格だと言ってしまえばそれで片付きます。


僕はそういう片付け方はしたくない性格ですが、それも育ちから来ているのではないのかなと。

誰かに対して腹を立てているわけではありません。

人生は積み重ねであると思いますから。

神経質なものを神経質に積んで来た人生の結果、捻くれてしまっただけ。

ただそれだけなんです。