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皆様、大変ご無沙汰しておりました。
私は元気に過ごしています(‐^▽^‐)
被災者で、なんとなく気になり
数か月に1度家庭訪問していた方がいました。
今年になって心を開いてくださり
幼少期から今日までのお話をしてくれるようになりました。
昨日、その方から
これまでの経験を残したい
というお話があり、
その女性が書いたもの、
その方が話したことを
まとめて
何らかの形で残したいと思っています。
そのお話の一部を
ちょっとだけ
書かせていただきます。
その女性の実際に体験したお話です。
女性 kさんとさせていただきます。
昭和14年
ある小さな島の島長の初孫とし、
その女性Kちゃんは誕生しました。
Kちゃんに続き、次々と妹弟が産まれ、
最後の弟が産まれた時には
小学1年生となっていました。
小学1年生のKちゃん
その当時は戦時中であり紙は高級品。
石板に書いて勉強していました。
入学して間もない頃、
頑張って勉強して石板に花丸をもらい、
嬉しくて嬉しくて…とっても嬉しくて
「早くお母さんに見てもらおう!」
と走って帰って家に帰りました。
やっとの思いで家につき
お母さんを見つけてすぐに
「お母さん、花丸もらったよ~ヾ(@°▽°@)ノ」
って石板を見せると
花丸は消えていたのです
(゜д゜;)
それでも優しく褒めてくれたお母さん。
今でも母の優しい表情は
鮮明に記憶に残っています。
そして戦争は激しくなってきていました。
小さな島なのに、
米軍なのか敵の通り道となっていたため、
日本軍の軍隊さんが列を作り、
硬い表情で歩調を揃えて歩いてることが多くなりました。
飛行機が飛んでくると防空壕へ避難。
自宅に防空壕も作られたほど。
空から攻められるのに、
日本の軍隊さんは槍をつく練習しており
その光景をみたKちゃんは
「なんて無駄なことしてるんだろ~」
と思っていたのでした。
その年の夏の暑い日
伯母さんが仕事が休みで
本土から島へ戻って来ていた日でした。
空襲が酷くなり、防空壕に逃げ遅れたKちゃん。
お母さんと伯母さん
妹4人とKちゃんで自宅納戸に隠れました。
Kちゃんはお母さんに包まれるように抱かれ、
妹たちは伯母さんと抱き合い、
納戸の中で息を潜めて空爆がおさまるのを待っていました。
しかし残酷なことに空爆の爆弾は、
kちゃんの家の近くに落とされ
空爆の流れ弾がお母さんの両足に直撃。
抱かれていたKちゃんも太ももに傷を負いました。
幸いなことに妹たちと叔母さんは無事でした。
空爆が落ち着いてきた時
山の上の防空壕へ避難しようと
小学1年生のKちゃんは
妹たちの手を引き
走って行きました。
しかし途中でお母さんと伯母さんが
いないことに気付いたのです。
負傷しているお母さんと伯母さんが
とても心配となり
防空壕へ向かっている通りすがりの方へ妹たちをお願いして
Kちゃんはお母さんと伯母さんを探しに戻ったのです。
戻ったKちゃんが見た光景は
血塗れになったお母さん。
そして母を背負っている伯母さんでした。
今でも忘れられません。
伯母さんも血塗れになりながら
お母さんを背負って防空壕へ向かっている。
そんな中、また飛行機が飛んできました。
伯母は急いで近くにあった布団を木陰に敷き
お母さんを隠すように寝かせ
私の手を引いて防空壕へ逃げました。
それが生きた母親を見た最後の姿になるとは、
考えもしませんでした。
自分の命を守ることで精一杯だったのです。
その日の夜、防空壕にいた人たちは
全て船に乗せられ本土へ向かいました。
負傷者が多く、船の中で息を絶えた人も多くいました。
Kちゃんの隣にいた人も息を絶えていましたが、
暗闇の中、怖くて見られないし聞くことさえ出来ません。
「お母さんもきっとこの船に乗っているんだ」
と信じるしかありません。
飛行機が飛んでくれば、
船のエンジンを止め
みんなで息を潜める。
繰り返し繰り返し
船のエンジンを止められていたので
いつもなら1時間もあれば着くのに
何時間もかかって本土にたどり着いたのでした。
そして、しばらくして、
お母さんの死を知らされたのです。
生後数か月の弟も
お母さんを追うように
亡くなりました。
戦後、長女であるKちゃんだけが残され
妹たちは貰われていきました。
それから70年近く経った
2011年
kさんは 東日本大震災で被災されました。
震災の3日前に夢を見て、
職場の人に話していたことがあります。
「弟が見つかったとお坊さんが言ってきたのよね。
そして、あんただけでも山に逃げろっていうのよ。
なんなのかしらね~」
それを話した3日後、震災がありました。
それの夢の話を聞いた人は
みんな山へ逃げて助かりました。
kさんも
地震直後に山へ逃げて助かりました。
そして、震災の翌日
自宅が流されたことを知り、
数日後に自宅をみて思ったこと
何を思ったのか
「感謝します」
と呟いたのでした。
なぜその言葉が出たのか
kさん自身が分かっていません。
今もなお
みなし仮設住宅に住んでおり
先々のことが不安となっています。
そして今でも
心を痛めているのが
育ての母が
震災で行方不明なのです。
実のお母さんを背負ってくれた
伯母さんです。
その伯母さんが
今も行方不明のまま。
早く見つかってほしい
けど、
どこかで生きていてほしい。
たとえ、記憶喪失でもいいから
生きててほしい。
とても複雑な気持ちのまま
3年が過ぎました。
まだ震災は終わっていないんです。
そして戦争も。
kさんは強く言ってました。
戦争は絶対反対と。
私は元気に過ごしています(‐^▽^‐)
被災者で、なんとなく気になり
数か月に1度家庭訪問していた方がいました。
今年になって心を開いてくださり
幼少期から今日までのお話をしてくれるようになりました。
昨日、その方から
これまでの経験を残したい
というお話があり、
その女性が書いたもの、
その方が話したことを
まとめて
何らかの形で残したいと思っています。
そのお話の一部を
ちょっとだけ
書かせていただきます。
その女性の実際に体験したお話です。
女性 kさんとさせていただきます。
昭和14年
ある小さな島の島長の初孫とし、
その女性Kちゃんは誕生しました。
Kちゃんに続き、次々と妹弟が産まれ、
最後の弟が産まれた時には
小学1年生となっていました。
小学1年生のKちゃん
その当時は戦時中であり紙は高級品。
石板に書いて勉強していました。
入学して間もない頃、
頑張って勉強して石板に花丸をもらい、
嬉しくて嬉しくて…とっても嬉しくて
「早くお母さんに見てもらおう!」
と走って帰って家に帰りました。
やっとの思いで家につき
お母さんを見つけてすぐに
「お母さん、花丸もらったよ~ヾ(@°▽°@)ノ」
って石板を見せると
花丸は消えていたのです
(゜д゜;)
それでも優しく褒めてくれたお母さん。
今でも母の優しい表情は
鮮明に記憶に残っています。
そして戦争は激しくなってきていました。
小さな島なのに、
米軍なのか敵の通り道となっていたため、
日本軍の軍隊さんが列を作り、
硬い表情で歩調を揃えて歩いてることが多くなりました。
飛行機が飛んでくると防空壕へ避難。
自宅に防空壕も作られたほど。
空から攻められるのに、
日本の軍隊さんは槍をつく練習しており
その光景をみたKちゃんは
「なんて無駄なことしてるんだろ~」
と思っていたのでした。
その年の夏の暑い日
伯母さんが仕事が休みで
本土から島へ戻って来ていた日でした。
空襲が酷くなり、防空壕に逃げ遅れたKちゃん。
お母さんと伯母さん
妹4人とKちゃんで自宅納戸に隠れました。
Kちゃんはお母さんに包まれるように抱かれ、
妹たちは伯母さんと抱き合い、
納戸の中で息を潜めて空爆がおさまるのを待っていました。
しかし残酷なことに空爆の爆弾は、
kちゃんの家の近くに落とされ
空爆の流れ弾がお母さんの両足に直撃。
抱かれていたKちゃんも太ももに傷を負いました。
幸いなことに妹たちと叔母さんは無事でした。
空爆が落ち着いてきた時
山の上の防空壕へ避難しようと
小学1年生のKちゃんは
妹たちの手を引き
走って行きました。
しかし途中でお母さんと伯母さんが
いないことに気付いたのです。
負傷しているお母さんと伯母さんが
とても心配となり
防空壕へ向かっている通りすがりの方へ妹たちをお願いして
Kちゃんはお母さんと伯母さんを探しに戻ったのです。
戻ったKちゃんが見た光景は
血塗れになったお母さん。
そして母を背負っている伯母さんでした。
今でも忘れられません。
伯母さんも血塗れになりながら
お母さんを背負って防空壕へ向かっている。
そんな中、また飛行機が飛んできました。
伯母は急いで近くにあった布団を木陰に敷き
お母さんを隠すように寝かせ
私の手を引いて防空壕へ逃げました。
それが生きた母親を見た最後の姿になるとは、
考えもしませんでした。
自分の命を守ることで精一杯だったのです。
その日の夜、防空壕にいた人たちは
全て船に乗せられ本土へ向かいました。
負傷者が多く、船の中で息を絶えた人も多くいました。
Kちゃんの隣にいた人も息を絶えていましたが、
暗闇の中、怖くて見られないし聞くことさえ出来ません。
「お母さんもきっとこの船に乗っているんだ」
と信じるしかありません。
飛行機が飛んでくれば、
船のエンジンを止め
みんなで息を潜める。
繰り返し繰り返し
船のエンジンを止められていたので
いつもなら1時間もあれば着くのに
何時間もかかって本土にたどり着いたのでした。
そして、しばらくして、
お母さんの死を知らされたのです。
生後数か月の弟も
お母さんを追うように
亡くなりました。
戦後、長女であるKちゃんだけが残され
妹たちは貰われていきました。
それから70年近く経った
2011年
kさんは 東日本大震災で被災されました。
震災の3日前に夢を見て、
職場の人に話していたことがあります。
「弟が見つかったとお坊さんが言ってきたのよね。
そして、あんただけでも山に逃げろっていうのよ。
なんなのかしらね~」
それを話した3日後、震災がありました。
それの夢の話を聞いた人は
みんな山へ逃げて助かりました。
kさんも
地震直後に山へ逃げて助かりました。
そして、震災の翌日
自宅が流されたことを知り、
数日後に自宅をみて思ったこと
何を思ったのか
「感謝します」
と呟いたのでした。
なぜその言葉が出たのか
kさん自身が分かっていません。
今もなお
みなし仮設住宅に住んでおり
先々のことが不安となっています。
そして今でも
心を痛めているのが
育ての母が
震災で行方不明なのです。
実のお母さんを背負ってくれた
伯母さんです。
その伯母さんが
今も行方不明のまま。
早く見つかってほしい
けど、
どこかで生きていてほしい。
たとえ、記憶喪失でもいいから
生きててほしい。
とても複雑な気持ちのまま
3年が過ぎました。
まだ震災は終わっていないんです。
そして戦争も。
kさんは強く言ってました。
戦争は絶対反対と。
2月になって
もう11日過ぎました・・・。
毎日毎日
あっという間で
早いものです。
早いもので
わが娘も
高校を卒業します。
卒業目前なのに
これから何をしたいのか
まだ決まってないようで
受験勉強も身にならず
親としては心配なところです。
私も高校卒業後に
福祉の仕事に就きたいと
思って進みましたが
果たしてこれが
良かったのかどうか
今も分からないのが現状です。
今、思い返せば
楽な道もあったのですが
自ら苦難の道へ
進んでいたように思います。
今もですけどね・・・。
それでも
自分で選んだ道は
文句言っても
自分の責任ですから
文句は自分自身に
言ってますよ。
まぁ~~~
娘には
何をやろうと
自立してくれれば
それでいいです。
色々なことに
迷いながら失敗もして
少しずつ
成長して欲しいですね。
12月にめぐり愛会で
鍋パーティを行いました
今回、仕事で参加できなかった
Wさんから白菜、大根、ネギを
たくさんいただいたので
色々作っちゃいましたよ。
おでん
白菜のミルフィーユ鍋
高級牛のすきやき
すごい量になった
水炊き
クリスマスケーキ
みんなで作り
おいしく食しました~
毎度のことですが
食べきれません。
おでんはお持ちかえりです。
家でゆっくり晩酌でも~
なんて思って
お持ち帰りしていただきました。
食べた後は
めぐり愛会の会長指導のもとで
みんなでロコモ体操。
これが好評で
「久々に体を動かしたわ~」
と喜んでいましたね~。
それから、
のんびり折り紙したい人
お話したい人に分かれ
私はお話したいチームに。
折り紙は
干支の午を作成していたようです。
写真はないですけど・・・
そして鍋パーティーは終了。
そして夜の部・・・
一人暮らしの方に声をかけ
夜にページェントへ行ってきました
すごくきれいでした☆
定禅寺通り散策し
国分町でご飯でも・・・
と国分町へ入りましたが
混雑していて
名取に戻り
ファミレスで
お食事班と飲み班とに自然に分かれ
運転手である私は
お食事班。
お腹が苦しくなるまで
食べて・・・食べて・・・
すっかり食べ終わったところで
うちのカメラマン(男性)が
お食事班の女性軍団に
「早く彼女見つけて結婚しな!」
と酔っているかのように言われ
そのまま放っておけば
お見合いもセッティングされそうな
勢いでした
飲み班より元気が良い
お食事班でした
そんな話に花が咲き
楽しく過ごし、
帰ろうかと思ったら
男性2名ほどスナックへ行き
女性2名ほど極楽湯へ行き
ほんと自由な集まりです。
それがまたいいですよね。
次回は3月です。
震災から3年
早いですね・・・
3年目は多くの涙を見てきました。
1年目、2年目泣けず
今泣いている人が
多いですね・・・。
最後に・・・
背後に何となく違和感を感じて
振り返った瞬間に撮られた写真です。
鍋パーティを行いました
今回、仕事で参加できなかった
Wさんから白菜、大根、ネギを
たくさんいただいたので
色々作っちゃいましたよ。
おでん
白菜のミルフィーユ鍋
高級牛のすきやき
すごい量になった
水炊き
クリスマスケーキ
みんなで作り
おいしく食しました~
毎度のことですが
食べきれません。
おでんはお持ちかえりです。
家でゆっくり晩酌でも~
なんて思って
お持ち帰りしていただきました。
食べた後は
めぐり愛会の会長指導のもとで
みんなでロコモ体操。
これが好評で
「久々に体を動かしたわ~」
と喜んでいましたね~。
それから、
のんびり折り紙したい人
お話したい人に分かれ
私はお話したいチームに。
折り紙は
干支の午を作成していたようです。
写真はないですけど・・・
そして鍋パーティーは終了。
そして夜の部・・・
一人暮らしの方に声をかけ
夜にページェントへ行ってきました
すごくきれいでした☆
定禅寺通り散策し
国分町でご飯でも・・・
と国分町へ入りましたが
混雑していて
名取に戻り
ファミレスで
お食事班と飲み班とに自然に分かれ
運転手である私は
お食事班。
お腹が苦しくなるまで
食べて・・・食べて・・・
すっかり食べ終わったところで
うちのカメラマン(男性)が
お食事班の女性軍団に
「早く彼女見つけて結婚しな!」
と酔っているかのように言われ
そのまま放っておけば
お見合いもセッティングされそうな
勢いでした
飲み班より元気が良い
お食事班でした
そんな話に花が咲き
楽しく過ごし、
帰ろうかと思ったら
男性2名ほどスナックへ行き
女性2名ほど極楽湯へ行き
ほんと自由な集まりです。
それがまたいいですよね。
次回は3月です。
震災から3年
早いですね・・・
3年目は多くの涙を見てきました。
1年目、2年目泣けず
今泣いている人が
多いですね・・・。
最後に・・・
背後に何となく違和感を感じて
振り返った瞬間に撮られた写真です。
10月20日(日)
曇り空の中
めぐり愛会で
芋煮会が開催されました~
5月には花見会
8月には花火を見に行っています。
行事では専属カメラマン?がいるので
私は写真を撮っていません。
専属カメラマンも
多忙なため
忘れたころに写真が
届くのでした。
届いたら
まとめてアップしますね。
なので、今回もブログに
写真を載せられず
申し訳ないです。
芋煮は
宮城風、山形風
そして、宮城と山形のMIX
MIXもなかなか美味しくできましたよ~
私は大根しか切っていませんけどね・・・
いつものように
バーベキューというか
焼肉、さんま焼きも
大好評でした。
お肉は
あっという間になくなり
あまり食べられない人もいたのでは?
いつも食べてばかりの
めぐり愛会です。
食後にカラオケをしました~
理事の野口さんが
カラオケの機械を借りてきてくれて
みんなで熱唱
初参加のYさんは
「すごく楽しかった~」
と喜んでくれました
歌いたくないと言っていた
I さん、T さん
すでに歌う曲決めてるし…
しかも
めっちゃ うまいし~
調子ついた頃に
お開きで
物足りなく感じた方も
いたのでは?
次は12月に予定しています。
12月は
クリスマスシーズンなので、
またケーキ入刀をしなきゃないですね
遅れに遅れていた
NPO法人の確定申告も
昨日に無事に終わりまして、
法人の税金も支払い、
今度は・・・
(´□`。)
最近、事務仕事が多くて
休めてないんですが、
今日の台風のおかげで
石巻の仕事がお休み。
やることはあっても
やらずに
今日は自宅のお掃除してました。
通常のお仕事といいますと
まぁ~~~~~~~~~~
これまた
なんとも言えないです。
震災2年半が過ぎて
色々変化はありますね。
子供も大人も・・・
私自身も。
毎日帰宅後は
とりあえず横になります。
横になりながら
仕事のメールのやり取り
電話連絡・・・
一段落して夕食を作り出すのが
21時~22時頃。
もう夜食の時間ですよね。
同時進行で洗濯に掃除。
洗濯を干すのが
深夜0時過ぎてますね~
でも、洗濯や掃除をしているときが
何も考えなくて楽な時間なんですよね。
そうかといって
仕事が辛いわけでもないんです。
大変さはあるし、
仕事が終わった後に
物凄い疲労感はあるけど
楽しく仕事していますよ
今度の日曜日は
芋煮会です。
芋煮会、晴れるといいですね~
今年も花火大会に
行きますよ~
8月3日土曜日
午後14時から
カラーセラピストさんによるカラー講座
スイカ割大会
を同時進行で行います。
場所は
名取市保健センター
ちょっと休憩を入れて
17時頃に
花火大会会場へ移動します。
晴れるといいな…
10月の第2土曜日に
芋煮会を予定してます。
今年の芋煮会は
ちょっぴり盛大に
企画してます
お楽しみに~
行きますよ~
8月3日土曜日
午後14時から
カラーセラピストさんによるカラー講座
スイカ割大会
を同時進行で行います。
場所は
名取市保健センター
ちょっと休憩を入れて
17時頃に
花火大会会場へ移動します。
晴れるといいな…
10月の第2土曜日に
芋煮会を予定してます。
今年の芋煮会は
ちょっぴり盛大に
企画してます
お楽しみに~
1年前から着信音が鳴らず
バイブも気が向かないと
機能せず
もう鳴らないと思いきや
マナーモードにしてるのに
突然大音量の着信音が
鳴り出したりしてた携帯。
メールも
返信が出来なくなることも
ちょくちょくあったし。
通話は出来ていたので
まぁ~良いと思って
使い続けていたのですが、
あまりにも
緊急連絡が多くなり
電話が鳴らないのも
不便に感じたので
機種変更を
してきました。
仕事用携帯は
スマートホンなのですが
ほぼ家庭訪問時の
ナビに使ってるくらい。
メールも電話も
使いづらくて。
なので、
普通の携帯にしたら
今は選ぶほど種類がないのですね。
デザインがいいなー
って思ったら
らくらくホン。
通話、メールくらいだし
使いやすそうだし
らくらくホンも
良いかと思ったけど
今回は
店員さんお勧めの機種に
しちゃいました
これで
かかってきた電話も
受けられます
バイブも気が向かないと
機能せず
もう鳴らないと思いきや
マナーモードにしてるのに
突然大音量の着信音が
鳴り出したりしてた携帯。
メールも
返信が出来なくなることも
ちょくちょくあったし。
通話は出来ていたので
まぁ~良いと思って
使い続けていたのですが、
あまりにも
緊急連絡が多くなり
電話が鳴らないのも
不便に感じたので
機種変更を
してきました。
仕事用携帯は
スマートホンなのですが
ほぼ家庭訪問時の
ナビに使ってるくらい。
メールも電話も
使いづらくて。
なので、
普通の携帯にしたら
今は選ぶほど種類がないのですね。
デザインがいいなー
って思ったら
らくらくホン。
通話、メールくらいだし
使いやすそうだし
らくらくホンも
良いかと思ったけど
今回は
店員さんお勧めの機種に
しちゃいました
これで
かかってきた電話も
受けられます
先週の土日に気仙沼に行ってきました。
数か月ぶりなので
ちょっとは変わったかな?
と思っていきましたが
被災地域は
ん・・・
綺麗に片付いたくらい?
大きなお船も撤去されることに
なるのか、なりそうなのか、
そのお船を見に来ている人が
多くいましたね。
最近はどうも被災地域の
写真が撮れません。
携帯で写真を撮ろうと思っても
手が動かなくなるんですよね。
なので、
以前とったお船の写真を
載せておきます。
気仙沼で被災し
別地域に住んでいる方が
気仙沼に帰りたいと
よく言っているんですよね・・・
長年住んでいた地域から
自分の意志とは反して
出なきゃいけなくなり
見ず知らずの地で
生活して2年。
その土地の空気が
肌に合わなくて、
でも、帰れない。
あ~~~~
何とも言えない
気持ちです。