伊賀守金道
日本三大仇討ちの一つとされる伊賀上野鍵屋の辻の血闘で荒木又左衛門が佩いていた愛刀のひとつ。
伊賀守金道
伊賀守金道(初代)は関兼道の長男で、文禄二年に父兼道と兄弟四人で上京し、伊賀守金道(初代)は徳川家康の取次ぎにより日本鍛冶宗匠の勅許をうけ、代々引継がれています。
といわれ新刀に属します。
荒木又左衛門といえば歌舞伎と文楽の世界では伊賀越物、三十六人斬りというエピソードで有名かもしれません。
取り分け有名なのは近松半二・近松加作の合作で天明三年(1783)4月大阪竹本座にて初演された浄瑠璃「伊賀越道中双六(いがごえどうちゅうすごろく)」で同年9月には早々に歌舞伎に脚色されています。
通常の場合浄瑠璃から歌舞伎という風に脚色されるのですがこの場合元々にあったのは歌舞伎で安永五年1776 12月ぶ大阪嵐座で「伊賀越乗掛合羽(のりかけがっぱ)」が最初になります。その後翌年3月に大阪で浄瑠璃化され大当たりをします。近松らはこの物語を七年越しで改作脚色し、浄瑠璃として上演しました。
テーマが庶民に人気のあった刀の正宗に移り、伊賀守金道は影が薄くなってしまいます。
江戸時代は御稚児愛とか衆道とか大ぴらに弄れなかったのでしょうかね~それとも人気が無かったのでしょうか?陰間茶屋やらとか流行っていたので需要はあったのだと思いますが・・・・
(井原西鶴なんて両刀使いだぜへっへっ~という本をのこしますし←違いますから
という訳でググルで検索して各サイトさんがあまり弄らない前半の部分を絡めつついきましょう(ゎらぃ
寵童渡辺源太夫の男根をいとおしそうにまさぐる岡山藩主池田忠雄
この数年後に池田殿は憤死する訳だからもっと年食っていたほうがリアルなんだろうか?
これが基点なためテレビドラマに何回か取り上げられていますがこの部分ははぐらかされています。
(事実を真正面から受け止めろよヘタレが。新撰組をどうのこうの弄るより事実だろー('A`)
そもそもの発端は寛永七年1630年岡山藩主池田殿様が渡辺源太夫を見初め懇ろになっていたのを同藩士河合又五郎が横恋慕したのである。
(後の復讐とかちゃんばらとかを弄るよりこの前半に重きを置いたほうが面白い気がする・・・何故ならば此処での愛情を確り印象付ければ愛する人(男)を殺され復讐に駆られ「備前一国を賭けて又五郎を討て」と激をとばした池田殿様の心模様が現れて動機が確り確保できるからだ)
映画として構成するならばこの殿様が死去する段階までは闇に蠢く殿様と渡辺源太夫の裸体が踊るフラッシュ・バック的残像が何回も現れるようにしてみたいなぁ~
まあ、それはさて置き・・・・
河合又五郎は源太夫と二人きりになるチャンスを窺い、そして殺してしまう。
この顛末の情景はないけれど自然な流れだと、殿様と偽って暗闇で源太夫と構合い、その後バレて、(年齢的に源太夫は癇が強いと年頃と思われ)罵られ、怒りに我を忘れ、折檻した上での死亡とか・・・
暗がりに押し込んで男根しゃぶれとか尻だせとか無理やり関係をせまり、そこそこいい歳なので力一杯反抗し、カッとなった河合又五郎が殺してしまったとか・・・
なんというか人名が多くでてきてとりあえず渡辺数馬側を青、対する河合又五郎側を赤という具合にしておきますね。
事の重大さに慄いた又五郎は江戸に逐電を決めこんでしまう。一方池田殿様は自分の愛男妾を臣下に殺されしかもその犯人は逃げてしまったことに激怒し、追手を出す。
又五郎が江戸で逃げ込んだ先は、又五郎の父半左衛門の縁から江戸旗本衆上野・高崎・安藤藩藩主・安藤右京進重長の又従兄弟(弟説もあり)、旗本・安藤治衛門正珍の屋敷だった。
池田藩では又五郎の行方を突き止めるが、外様大名にとって将軍家直参・旗本は表立って引渡し要求は微妙且つ、難しくとても申し入れが出来なかった。そこで同じ旗本・久世三四郎、安部四郎五郎を仲介役に立て、安藤家に又五郎の引渡しを申し入れるが、応ぜず。
それに対し旗本に反目を日頃抱いてる大名連が岡本藩主池田忠雄にここぞとばかりに力添えをする、大名と旗本の確執。仲介役の久世や阿部も安藤家側に回って話が余計に複雑になり、池田家は幕府に直訴。
それらが昂じて双方とも頑ななり、武装を固め全面対決構造とあいまった。
是に慌てたのが幕府公儀である。天下は徳川に定まったとは言え未だ戦国気質が残る寛永、事を下手に誤ると徳川幕府の屋台骨が揺らぎかねない事態に成りかねないため、大いに困惑した。
しかも火に膏を注ぐように池田忠雄藩主は死ぬ真際「備前一国を賭けて又五郎を討て」と激を飛ばしたものだから、いよいよもって、旗本側は態度を硬化させた。
こうなっては幕府も放っておく訳にいかず、事態を重く見た公儀は、まず又五郎の父半左衛門を備中松山池田藩に預ける事を決めた。だがその2年後、河合半左衛門は幕府の命で、徳島藩前藩主・主蜂須賀蓬庵に引き渡される。徳島に護送される途中、何者かによって刺殺される。
さらに幕府は仲介しながら安藤家に荷担した久世・安部の三人に対して、百日間の寛永寺へ寺入りを命じ、河合又五郎を江戸御構い(追放)と処す。河合又五郎は阿部家の世話で三河・片瀬へと行くが、さらに縁故を頼って逃げ回る。
喧嘩両成敗の基本方針の公儀は忠雄の嫡男は幼い事を理由に同族の因幡鳥取藩主池田光政国替転封を命じた。
残された源太夫の兄の渡辺数馬にとり当時の武士社会のルールとしては、弟の仇を討たない限り、岡山藩に出仕し続ける事は面目上許されうる事ではない。しかし数馬は武士とはいっても、剣に全く自信が無く人を斬った事等全く無い素人同然であった。そこで彼は姉婿である剣豪・荒木又右衛門に助勢を乞い求め、荒木又右衛門はそれに応じた。
荒木又右衛門は剣術師範として大和郡山蕃松平家に250石で従えていた。実は同蕃には河合又五郎の叔父河合甚左衛門が300石で従えていたのだが、一連の騒動の際、河合甚左衛門は職を辞し奈良に居を構えていたかと思うと、いつの間にやら行方を断っていた。
荒木又右衛門も職を辞し、渡辺数馬を郡山に呼び寄せた上、江戸にでて河合又五郎の動向を探ったが、行方は掴めず、甲斐無く大和郡山に戻る。
意外にも河合甚左衛門は奈良に戻っており、仇敵河合又五郎の助勢者となっていた。さらに河合又五郎の奈良に身を潜めており近日中に江戸に赴くということが知れた。
この時、事件発生から既に4年もの歳月が流れていた。
そして寛永11年1634年11月7日伊賀上野城下の外れ、鍵屋の辻において、荒木又右衛門らは仇敵河合又五郎ら一行を遂に捉えた。
鍵屋の辻の茶屋に待つのは荒木又右衛門と渡辺数馬、それに荒木又右衛門の弟子武右衛門、渡辺数馬の若党孫右衛門の四人。
対する河合又五郎は、河合甚左衛門、河合甚左衛門の妹婿で槍の名手桜井半兵衛。並びに家来其々一名、それに町人ながら河合甚左衛門の姉婿である大阪虎屋九兵衛らも加わり総勢11名。
槍の名手桜井半兵衛が先乗りで通り過ぎ、河合一行が茶屋の前に差し掛かった鬨、同じ蕃に従え、手の内を知る一番手強い敵である河合甚左衛門に荒木又右衛門は踊りかかり、愛刀伊賀守金道で河合甚左衛門を馬上から斬り落し、血闘は開始された。
渡辺数馬は仇敵河合又五郎に向かい、荒木又右衛門はそれを邪魔する者を追い払った。その中桜井半兵衛が騒ぎを聞きつけ馳せ戻ってきた。桜井半兵衛に槍を渡そうとする槍持ちに孫右衛門が立ち向かい、未だ槍を手にする事の出来ない桜井半兵衛を荒木又右衛門が切り伏せた。そのとき桜井半兵衛の小者が荒木又右衛門の背後から撃ちかかる。木刀が荒木又右衛門の腰を打ち、更に振り向きざまの荒木又右衛門の刀の峰を打った。途端に、荒木又右衛門が手にしていた伊賀守金道は鍔元5寸を残してぽっきり折れてしまう。
凡そ5時間に渡る死闘の末、渡辺数馬は荒木又右衛門に励まされて遂に河合又五郎を討ち果たした。
この鍵屋の辻の血闘中に、伊賀守金道が折れた事に対して伊賀籐堂家の士、戸波又兵衛は、
「斯かる大事の際、新刀を用いるとは甚だ不嗜みである」と証した。