ベーオウルフ 9 イラスト描くための忘備録
これで最終回
9ベーオウルフの死
ベーオウルフが<鯨ヶ岬>の下の巨大な岩の集積の処に地被くと、其の中央にぽっかりと黒い口が開いていて、廻りに一際濃く煙が経ち込めているのが見えた。其の暗がりからせせらぎが流れ出でて、谷の斜面を下っているが。水は沸き立って、竜の発する濛々たる炎に煌いていた。ベーオウルフは楯を貌の横に掲げて、流れの傍らを登って行き、洞窟の前の踏み荒された地面まで辿り着いたが、其の先へは、山の腹の下の闇から出てくる煙に咽(む)せて、どうしても進めなかった。
そこで彼は足を止め、剣で楯を打ち、中の火竜に挑戦の声を上げた。数多の戦場で叫喚を貫いて響き、多くのセイン等が耳にしてきたその雄叫びは、嵐の様に轟き渡った。声は洞窟の奥まで突き通って、火竜は其れを聞いて目覚めた。洞窟の入り口からは炎の息が雲の様に噴出し、大きな翼の打ち合わせる音が聞えた。王が楯を上げて貌を覆う間も有らばこそ、大地が震え轟き、竜がズルズルと巣穴から出てきた。
炎が鱗の上の戯れ、さながら剣を熱して鍛える時の様に、緑、青、金と色を変え、大気は竜の廻りに震え、漣打った。翼は火を抱き、目から炎が迸った。翼を広げて、竜は半ば飛ぶ様にベーオウルフに躍り掛かったが、彼は一歩も引かずに是を迎え撃ち、一撃を加えんと剣を振り上げた。眩い刃が振り下ろされ、怪物の頭を傷つけたが、皮膚がパックリ裂け、臭い血が迸っても、頭蓋骨は刃を跳ね返したので、致命傷には至らなかった。吼え乍ら、竜は背中を丸めて後退り、又飛び掛って、ベーオウルフは頭の天辺から爪先まだ炎に包まれた。鎧の鉄の輪が焼けて熱は骨身に通り、貌を守ろうと、鍛冶が丹精込めた大楯を掲げると、それでも真っ赤に灼熱したが、彼は剣を振り上げてもう一撃加えた。
山の上から見守っていたセイン等は、王が旋転する炎に包まれる恐ろしい様を眼の辺りにし、戦いの場では無双の兵(つわもの)であったにもせよ、皆恐怖に慄(おのの)いて、どっと浮足だった。唯独りウェーイムンドの孫、最年少のウィーイラーフだけが、その場に踏み止まった。彼はこの絶体絶命の瞬間、逃げる皆の後ろ背へ、主君の忠節を忘れたのか、と叫んで呼び戻そうとした。「王の館で、王の蜜酒を飲み、賜り物を受けたときに我等は勇武の誓いを立てたではないか。死に至るまでの忠節を誓ったではないか―――なのに今、死が迫ると、其れを忘れ果てるとは!ぬくぬくと楯を抱えて戻れば、この日より未来永劫我等は恥を受けるぞ。私は断じて其れには与せん!」言い捨てて、楯を取り上げるや、彼も走り出したが、それは安全な森の方角ではなく、煙の充満した谷底へであった。
改
彼はこの絶体絶命の瞬間、逃げる皆の不甲斐無い後ろ背へ叫んだ。
「主君の忠節を忘れたのか」彼は激昂しつつ叫んで呼び戻そうとした。
「王の館で、王の蜜酒を飲み、賜り物を受けたときに我等は勇武の誓いを立てたではないか。死に至るまでの忠節を誓ったではないか―――なのに今、死が迫ると、其れを忘れ果てるとは!ぬくぬくと楯を抱えて戻れば、この日より未来永劫我等は恥を受けるぞ。私は断じて其れには与せん!」言い捨てて、楯を取り上げるや、彼は安全な森の方角へ逃げるセイン等とは逆に、煙の充満した火炎地獄の谷底へ走り出した。
頭を下げ、楯を掲げて、彼は炎閃く悪臭の中へ突き進みながら、叫んだ。「ベーオウルフ王、我君、参りましたぞ。お若き日の戦を忘れず、しかと踏み止まり給え―――私が参ります」
ベーオウルフ王は若い血族の声を聞き、肩に相手が触れるのを感じ、黄色のシナの木の楯が灼熱する鉄楯と並ぶのを見て、新たな力を奮い起した。だが、この声は竜の新たな憎悪を斯き立て、竜は凄まじい炎を次々と噴出し、大地をうめかせ、岩々を震わせた。ウィーイラーフの楯は黒ずんで松明の様に燃え出し、彼は其の残骸を投げ捨て、ベーオウルフが叫んでよこす通りに、身を躍らせた。「此処へ!我楯の後ろに―――二人でも入れる!」そうして、二人は真っ赤に焼けた鉄楯の後ろに身を隠しつつ、心堅く怯む事無く戦い続けたのである。
だがとうとう、唸りを立てて振り下ろされたベーオウルフの剣、百物戦いを勝ち抜いてきた剣が、竜の頭に当って粉々に砕けた。
王は凄まじい叫びを上げて、無用の柄を投げ捨てたが、剣帯から斧を引き抜く間も無く、火竜は闇に翼をばたつかせながら伸び上がり、毒ある鈎爪で、黄金の首飾りの上の彼の喉を襲った。
其の刹那、王の深傷から生命が赤い波を成して迸る一方、ウィーイラーフは鉄の楯の後ろから走り出、火竜の下に飛び込んで、短くなった剣を、鱗の無い下腹に一気に突き上げた。
恐ろしい痙攣が竜のとぐろ全体に走り、たちどころに炎が弱まり始めると、其れを見て取ったベーオウルフは最後の力を振り絞って、剣帯から斧を抜き出し、躰を前に叩き付け、怪物の胴中を殆ど二つに断ち切った。
竜は息絶え、其の躰の上で炎の輝かしさも薄れていった。だが、ベーオウルフも致命傷を負い、巨大な死骸の前によろめき乍ら立ちはだかるうちに傷は疼き、膨れ上がって、海獣の鈎爪の毒が胸に沸き立ち、全身が炎に包まれた様な心地になった。洞窟の傍らに岩が天然の腰掛を成している処に、ふらふらと辿り着くと、喘ぎながら其処に崩れ落ちた。
ウィーイラーフも火傷に苦しみながら、主君の上に身を屈め、兜の紐を緩め、兜を脱がせて、涼しい海風が額に触れる様にした。それから自分の兜に、今は澄んで冷たく流れるせせらぎの水を汲んできて、ベーオウルフの貌と傷を洗いながら、絶え間なく呼びかけ、遥か彼方から呼び戻そうとした。やがてベーオウルフの頭は僅かに冴えてきて、熱の潮も暫し退く様に思われて、老王は力を集めて口を開いた。今にもう口が利けなくなる事が解っていた。「天の父のお恵みによって、我物の具を引継ぐ息子を得たいと望んできたが、それもどうやら適わぬ。そなたこそ息子、我兜と斧を摂ってくれ。私が死んだら鎖帷子を取ってそなたの身に着けてくれ。」
ウィーイラーフの涙が貌に落ちるのを感じて、彼は再び力を揮い起した。「いやいや、泣く事は無い。私は老いた。充分に生涯を生き、戦った。五十度の冬、民を治め、国を強くし、如何なる族長も国境を侵して来なかった。悪戯に復讐の恨みを買う事もせず、軽はずみに多くの誓いを立てて破る事も無かった。この躰から生命が失せる刻も、天の父に身内殺しの罪や不正は統治を恥じる事も無い」
彼は肩肘を付いて身を起し、あたりを見回したが、やがてその視線は、洞窟の入り口に斃れ横たわっている火竜の死骸の上に落ちた。「民を滅ぼしかねなかった之を倒す為に、我命を支払ったが、今、彼奴は死んで我前に斃れている。だが、かの盗人の話が真なら、私はこの戦いで、民に幾らかの財宝を勝ち得たことになる。目から光が失せる前に、其れを見ておきたい。ウィーイラーフよ、中に入って、持てる限りの物を持ってきてくれ」
主君の傍らに跪いていたウィーイラーフは立ち上がった、よろめきつつ、未だびくついている竜のとぐろの脇を通り過ぎ、洞窟の中に入った。
中に踏み込んで、彼ははたと足を止め、堆(うずたか)く積み上げられた火竜の宝の山に茫然と眼を見張った。黄金の杯に水差し、宝石尽くめの王の首飾り、古の鎖帷子に、猪の頭を象った兜、錆びた剣。また昔々に失われた魔法で珍らかに織られた黄金の旗は、自ずから輝き、淡い光を投げて辺りのものを照らし出していた。だが、驚いている暇も心の余裕も無かった。狂おしく彼は杯や腕輪、武器、そして最後に旗を抱え上げ、日光の中に運び出し、老人の足元へ音高く投出した。
ベーオウルフは眼を閉じて横たわり、傷から尚も血が流れ出していた。だが、ウィーイラーフがせせらぎから又水を汲んできて、貌を拭うと、再び正気づいて、眼を開き、岩の間に燦然と煌く財宝を見遣った。「見事な黄金の輝きが、我往く手を照らす様じゃ。愈々逝かねば成らぬ刻が来た今、民の為に如何程の宝を残していけるのが幸いだ」そうして彼の視線は、竜の宝の輝きを離れ、遠くさ迷って、<鯨ヶ岬>の険しく切立った大いなる額が天に聳えている方へ向けられた。「火葬の炎が消えた後、あの<鯨ヶ岬>に我為に塚を築いてくれ。岸壁の端に高い塚を。若い時の私の様に、海を放浪する者の為の目印と成ろう。
航海を行く時、遠くからも其れが見え『在れこそはベーオウルフの塚よ』と世の語り草に残るように」
最後に彼は若いウィーイラーフに目を戻し、両手を傷付いた喉にあてて覚束無(おぼつか)ぬ手で王の印(しるし)の黄金の首飾りを外した。「物の具と、それからこれも受け取ってくれ」其の声は最早囁く様だった。「之に恥じぬ様用いて欲しい。そなたが我身内の最後の者だ。運命を織り成す女神ウィルドは其の定めの刻に一人一人を取り去った。今度は私が彼等の許に逝く時だ」
言いも終わらぬ内に、彼は大きな息を吐いて、若い戦士の腕の中に崩れ落ちた。ウィーイラーフは其の躰をそっと下ろした。
影が二人の上に降りてきた時も、ウィーイラーフは未だ死せる主君の肩の処に座っていたが、ゆっくりと貌を上げると、何時の間にか王の炉辺の戦士達が、隠れていた高地の森から忍び出て来て、彼等を取り巻いて立ち、恥じ入った面持ちで、死せる勇士と死せる怪物を見下ろしていた。ウィーイラーフは立とうとはせず、物憂く其処に据わったきりで、石の様な眼をしたまま、心にある限りの痛罵を彼等に浴びせ掛けた。「火が消えた今、やっと御主達は来たのか。ベーオウルフ王から賜った鎧に傷一つ無く、無事でいる御主等を見て、人は言うであろう。あの者達は贈り物を汚したと。尤も御主達の力が要るときに、我君に御仕えする戦士は居なかった。諸国の王侯がこの日の事を聞いたとき、イェーアトの総ての武士(もののふ)は恥を蒙るであろう!噫呼、御主等は眩い鎖帷子の下に一つの傷も負わなんだが、戦士にとっては、恥を蒙って、生きるより、死の方が益しであろう」
セイン等は皆口を噤んで、死せる主君を取り囲み、ウィーイラーフの痛烈な言葉に耐えていた。返す言葉も無かった。
やがて、後から着いて来た族長等の送った斥候が、茂った尾根を越えて来て、谷を見下ろした。一目見れば十分であった。彼等は馬を回すや、注進に馳せ参じた。「戦いは終わり、陛下は火竜の死体の傍らに、息絶えて居られます。陛下より賜った喜びも名誉も、この国から去りました。五十年の間、侵略を控えていた族長達も攻めて参りましょう。其の戦いに我等を率いてゆかれるべきベーオウルフ王が今はないのです」
この言葉に一同のうめきが走り抜け、彼等は更に速度を上げて竜の巣穴に向かった。
改
やがて、後から着いて来た族長等の送った斥候が、茂った尾根を越えて来て、谷を見下ろした。一目見れば十分であった。彼等は馬を回すや、族長達の許へと注進に馳せ参じた。
「戦いは終わり、陛下は火竜の死体の傍らに、息絶えて居られます。陛下より賜った喜びも名誉も、この国から去りました。ベーオウルフ王が御崩御された今より、五十年の間侵略を控えていた族長達も攻めて参りましょう。王亡き今誰が、如何に其の戦いに我等を導き率いてゆかれるべきか・・・」
この言葉に一同のうめきが走り抜けた。そして族長達一行は急ぎ早に竜の巣穴に向かった。
黒ずんだ谷に下りてみると、総ては使者の告げた通り、灰色の髪の王は折れた剣を傍らに横たわり、焼け焦げて血に染まった芝生には、火竜の死骸が在った。恥じ入ったセイン達が其れを遠巻きにし、ウィーイラーフが主君の肩の処に座して、頭を垂れていた。岩の間には、竜の宝が黄金色に輝き、其の上には大いな黄金の旗が、たわわな船の帆さながらに、海風に翻っていた。
戦士達は心痛ませて王の周りに集い、最後にウィーイラーフは、自らも老いた者の様に、強張った動きでつと立ち上がった。彼は、死せる勇士の血に沁みた王の印の黄金の首飾りを取り上げ、悲しみ沈む戦士等の前で、其れを自らの首に着けた。
こうして彼は王となったのである。
「ベーオウルフ王は亡くなられた。その最期(いまわ)の様は眼に明かであろう。王は<夜陰の飛行者>より民を救うため進んで生命を投出された。そして、死の真際に、私に仰せられた。
葬送の炎が消えた暁に、憩いの場所に相応しい塚を<鯨ヶ岬>の頂に築いて欲しい、そうすれば今より後、海を往く者総てにとっての目印となろう、と。
さあ、葬送の薪を集め、棺台を造ろうではないか。王自ら選ばれた場所にお連れするのだ。七人は私と一緒に洞窟に入って、火竜の宝の残りを天が下に運び出そう」
こうしてウィーイラーフと七人の者が暗闇から、千年間、太陽を見た事のない財宝を運び出す間に、残りの者は材木を集め、<鯨ヶ岬>の頂に薪を積み上げ、王の葬送の薪に相応しい兜や見事な武器、鎖帷子等を廻りに並べた。更に他の者は火竜の死骸を崖の縁に引き摺っていって、下に白く泡立つ波頭に投げ落とした。更に農家から牡牛の引く車を持ってきて、其の両側に船縁さながらに楯を懸け並べた。用意が総て整うと、皆は死せる王を車に横たえ、周りに竜の宝であった黄金細工や見事な武器を積み重ねた。ウィーイラーフはこう言ったからである。「ベーオウルフ王御独りが之を勝ちら獲たのだ。王と共に、宝は其れの来た暗闇に帰るべきであろう」
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更に他の者は火竜の死骸を崖の縁に引き摺っていって、下に白く泡立つ波頭に投げ落とした。
彼等は使いを出し近くある農家から牡牛の引く荷車を配した。持ってきた荷車に其の両側に船縁さながらに楯を懸け並べた。用意が総て整うと、皆は死せる王を車に横たえ、周りに竜の宝であった黄金細工や見事な武器を積み重ねた。何故ならば、ウィーイラーフはこう言ったからである。「ベーオウルフ王御独りが之を勝ちら獲たのだ。王と共に、宝は其れの来た暗闇に帰るべきであろう」
それから四頭の牡牛に車を緩々と引かせ、険しい坂道を登って岬の頂に達すると、そこには早や薪が天に向かって積み上げられていた。皆はベーオウルフの亡骸を、積まれた枝の上に横たえ、松明を差し込んだ。暫くの間、遥か遠くからも<鯨ヶ岬>に燃える真っ赤な炎が見え、万人はベーオウルフが一族の許に赴いた事を知った。
夜を徹して炎は燃え、夜明けに火勢が衰えた辰、彼等は灰の周りに竜の貴重な宝を積み上げ、総ての上に彼(か)の黄金の旗を翻した。それから王の言葉通り、塚を築く仕事に懸かった。十日の間、彼等は王に対する敬愛の気持から、懸命に働き、塚を高く立派に築いた。十日目には巨大な石積みが完成し、断崖が切立って海に落ち込む<鯨ヶ岬>の上、目も眩む高さに空を切り裂いた。
それから身近く仕えた十二人は、太陽の廻ると同じ方向に塚の周りを廻りながら、竪琴弾きの創った死の歌を謡った。歌が終わり、人々が去ると、残るはベーオウルフの塚と、海風、そうして輪を描くカモメと、遠い航路を往く船ばかりとなった。
改
十日目には巨大な石積みが完成した。其の姿は、断崖が切立って海に落ち込む<鯨ヶ岬>の上、目も眩む高さに空を切り裂いていた。
それから王の身近く仕えた十二人は、太陽の廻ると同じ方向に塚の周りを廻りながら、竪琴弾きの創った死の歌を謡った。歌が終わり、人々が去ると、残されたのはベーオウルフの塚、海風、海の空、輪を描くカモメ、遠い航路を往く船ばかりとなった。