ベーオウルフ 6 イラスト描くための忘備録
6海の女怪
ベーオウルフは下へ、下へ、冷たく蕩揺する海底へ沈んでいった。下へ、下へ、丸一日と思われる程の間、沈んでいったのである。四方八方から、牙の有る海獣が襲い掛かり、彼を引き裂こうとした。沈みながらも、彼は大剣フルンティングを奮って、海獣を追い払った。とうとう足が海底に着くと行き成り、更に獰猛な敵が襲い掛かってきた。海の女怪が両腕で絡み付いてきて、息子と同じ様に恐ろしい鈎爪で引き寄せた。彼は女怪の死の抱擁に絡まれた侭、暗黒の深みを引き摺られていった。そして絡み合ったまま、海底の洞窟の入り口を通って昇って行った。
上へ、上へと登り、やがて満ち潮の水面よりも高い所にある広大な海の大広間に辿り着いた。足の下には白砂が在り、遥か頭上の開口部から、幽かな光が筋を成して差し込んでくる。ベーオウルフは身を振り解いて、剣が奮える距離に飛び離れ、唸りを上げるフルンティングを女怪の頭上に振り下ろした。其の一撃には洞全体が鳴り響いたが、剣は鍛えられてから初めて撥ね返され、次の瞬間には女怪が再び襲い掛った。彼がその勢いによろめくと、彼女は彼を押し倒し、広刃の短剣で幾度も幾度も彼の胸を刺したが、鎖帷子に通らないのを見て取ると、狼の様に爪を立てたり、引っかいたりし始めた。捲くれ上がった唇の後ろ牙が見え、縺れた髪の間には忌まわしい光を放つ眼が輝いていた。だが、王妃から賜った鎖帷子はしっかりと持ち堪えており、彼は力を集めて再び女怪を振り解き、跳ね起きるなり、首を打ち落とす勢いで切りつけた。
だが、今度も魔力ある皮膚が其れを跳ね返し、彼は一声上げて役立たずの武器を投げ捨てた。「フロースガールの館と同じ様に、今度も素手で勝敗を決しようではないか」彼は飛び立って、彼女の次の攻撃を受け止めた。
銀の砂の上、潮騒が巨大な貝殻の中の様に虚ろに木霊する中で彼は片腕を女怪に巻きつけ、もう片腕で短剣を握った手首を捉え、彼女の方は相変らず牙と鈎爪で彼の心臓を狙い乍ら、両者は組み合った侭彼方此方へとよろめいていった。二夜前に、ヘオロットの暗い館の中で、グレンデルと組み合った時と同じ様であった。
長く厳しい戦いが続いたが、海の女怪には息子を凌ぐ力が有り、ベーオウルフにはどうしても相手を取り拉ぐ事が出来なかった。何か獲物が欲しい。彼は戦い乍ら、何か無いかと、狂おしく辺りに眼を走らせた。洞窟の岩壁には、彼是の古代の武器が架かっており、中に、天井から差し込む光が照らし出している一振りの剣があった。刃は長く、柄は幅広く、恐らく遥か昔に、巨人族の為にドワーフが鍛えた物であろう。ベーオウルフ以外の人間には到底奮えぬ大剣であった。剣を眼にし、新たな希望に胸を弾ませながら、彼は女怪の猛攻の前に失われかけていた力と才知を振り絞って、身を捻り、脇に飛び退いて、剣を壁から掴み取った。片手で確りと柄を握り、誇らしげな鬨の声を上げて身を翻すや、刃を閃かせ、閃光と共に振り下ろした。
剣は髪と皮膚と骨に通り、グレンデルの母親は一声も上げずに崩れ落ちた。その恐ろしい首は肩から殆ど切り離されていた。
ベーオウルフは荒い息を吐きながら、立ち尽くし、血の滴る魔剣を手に、辺りを見回した。遥か彼方の水辺には上の世界から光が差し込んできて、其処にグレンデルの死せる巨体が横たわっているのが見えた。ベーオウルフは踏み拉かれた砂を横切って、其処に近づいていった。やっとグレンデルの一族の骨身に通る剣が手に入ったのだった。彼は再び大いなる力を振り絞って剣を振り翳し、おぞましい首を断ち落とし、おぞましい躰を細切れにした。暗い真紅の血が水中に溢れ出て、洞窟の口から下方の海へ吸い出されていった。ベーオウルフは死せる怪物を見下ろしていると、刃を伝わるどす黒い血が金属に染み入って、剣は火の熱を浴びた氷の様に融け、やがて見事な黄金の柄を彼の手に残すばかりとなった。
〇この訳はちょっと通り辛い気がする。
ベーオウルフは荒い息を吐きながら、立ち尽くした。やっとグレンデルの一族の骨身に通る剣が手に入ったのだった。彼は血の滴る魔剣を手に、辺りを見回した。遥か彼方の水辺には上の世界から光が差し込んできて、其処に二夜前に戦い肩口から片腕が無いグレンデルの巨体が横たわっているのが見えた。ベーオウルフは踏み拉かれた砂を横切って、其処に近づいていった。彼は再び大いなる力を振り絞って剣を振り翳し、死せるグレンデルのおぞましい首を断ち落とし、おぞましい躰を細切れにした。暗い真紅の血が水中に溢れ出て、洞窟の口から下方の海へ吸い出されていった。ベーオウルフは四肢が別けられた怪物の死骸を見下ろしていると、刃を伝わるどす黒い血が金属に染み入って、剣は火の熱を浴びた氷の様に融け、やがて見事な黄金の柄を彼の手に残すばかりとなった。
一方イェーアトとデネの猛者達は長い一日の間、セイウチの元居た岩棚から海を見守っていたが、太陽が傾くにつれ、海の穴そのもの吐き出したかと思われる大量の血が、海底から吹き上がってくるのが解った。彼らは岩の縁に身を寄せ合い、眼をカッと剥いて海底を睨んでいたが、それは如何なる勇者の心胆をも寒からしめるに足る光景であり、時が経ち、尚ベーオウルフの姿が現れぬに至って、終日縋り続けてきた希望も色褪せ、波に乗って沖へと曳き浚われて往く血糊と同じく微かなものになっていった。
とうとうフロースガールが重苦しい溜息とともに、身じろいだ。「終わりじゃ。二度とあの者を見る事は在るまい。儂にとっては子に等しいベーオウルフを」そうして、せせらぎの源である、木立に蔽われた岩場の薄暗がりに向かって歩みよった。「参るがよい、是以上此処に居るのは無用じゃ」
そこで彼のセイン等は、しおしおと敗戦から帰る者の様に王に付き従い、王は只管貌を上方に向け険しい道を登っていった。
だが、ベーオウルフの仲間イェーアト人は、フロースガールに従って帰った者と同じく希望は枯れ尽くしていたものの、此処で待てとの命令に忠実に、其処に留まっていた。潮騒が、最後のデネ人の足音を呑み込むや否や、ウェーイムンドが飛び出して指差した。「見よ!見るがよい!海の生き物が沖へ出て行くぞ。身の危険を感じたようだ」すると、別のイェーアト人が続けて叫んだ。「見よ!水面を!水が澄んで綺麗になった」そして、彼らがよろめきつつ、海藻に濡ら付く岩の縁に急ぎ、互いに声を掛け合う内に、巨大なセイウチが群を成して沖へと出て行き、今では緑水晶の様に澄み切った水の遥か底から、待ちに待ったベーオウルフが此方に泳ぎ登ってくるのが見えた。
ベーオウルフが肩に白い泡を纏い付け乍ら水面に現れるや、幾本もの腕が我勝ちに差し出され、彼を助けて、岸に引き揚げた。彼は皆に囲まれ、疲労し切って岩の上に身を投げ出し、長距離競争の終点に辿り着いた走者の様に、激しく息を吸い込んだ。戦士等は彼に取り付いて兜を外し、また彼が脇に投出した、白目と牙を剥いた恐るべき首と、彼の手に残った巨大な剣の柄を、唖然と打ち眺めた。
「兄弟よ、諸君の貌が見られてこんな嬉しい事は無い!」口が利ける様になるとすぐ、ベーオウルフは言った。それから辺りを見渡し、「だが、フロースガール王とセイン達は如何為された?待ち草臥れて帰られたか?」
「海底から涌き上がった血の波を見て」傍らに跪いたウェーイムンドが言った。
「最早此れまでと思い切られたのです」
「あれは海の女怪の血、そして私が、あそこに横たわっていたグレンデルの死体から首を切り離した時流れ出た血だ。で諸君は?其の血を見なかったのか」
「いえ、見ました」
「それでも望みを棄てなかったのか」
ウェーイムンドは首を垂れた。「望みは我等も失って居りましたが、それでも我等は貴方の戦船の仲間、貴方に忠節を誓う者でしたから」
「で、残ってくれたのか」ふいにベーオウルフは、勝利を寿ぐ角笛の様に声高らかに笑い出すと、飛び起きて、両手を皆に差し伸べた。「それは有り難い。この怪物の首をヘオロットに運ぶには、槍が少なくとも四本は要るからな」
そうして彼らは海の穴が独りでに清められるに任せ、グレンデルの首を四本の槍先に刺して中央に掲げ、山の湿地帯に続く峡谷へと、そして集落へと凱旋行進の途に着いたのであった。