ベーオウルフ 5 イラスト描くための忘備録 | 萬日記 ガラクタ部屋とも云う

ベーオウルフ 5 イラスト描くための忘備録

5 再びの恐怖


だが、王の館に安穏な眠りが訪れる時は、未だ来なかった。グレンデルは致命傷を受けた野生の生き物が巣穴を指して逃げ帰る様に、傷から生命を滴らせながら、湿地の彼方へ逃げ去った。だが彼は、野生の生き物とは異なり、独りで死んでいったのではなかった。恐ろしい海の洞窟の中では、母親が息子の帰還を待っていたのだ。

彼女はグレンデルとそっくり同じ邪悪な怪物で、<夜の徘徊者>だったが、愛するという能力を持っていた。そして息子を愛していたので、息子以上に恐るべき存在であった。いまや、仔を奪われた母狼の様に悲しみに狂乱した彼女は、復讐に燃え、一日前の血痕を追って、ヘオロットの戸口まで行き、扉を押し倒した。

中では、恐怖のどよめきが上がった。人々は武器を引っ掴んで、寝棚から飛び起きたが、息子の魔力ある皮膚に刃が立たなかったのと同様、母親の皮膚も刃を受け付けなかった。彼女はあらゆる抵抗にもメゲズ押し進み、勝利の叫びと共に、王が最も寵愛していたセインのアッシュヘレを掴んで、次の瞬間、夜闇の中に姿を消してしまった。

ついさっきまで笑いと竪琴の歌に満たされていたヘオロットの館を嘆きの声が駆け抜けた。報せを受けて、王はやって来た。白い顎鬚は寝乱れ、アッシュヘレを悼む涙が、険しい貌に深く刻まれた皺を伝い流れた。

ベーオウルフと仲間は昨夜の戦いに疲れ切って、夢も見ずにぐっすり眠っていたので、何の物音も聞かず、漸く夜が白んできた頃ベーオウルフが眼を覚ましてみると、震える手が自分の肩を揺す振り、耳元で声が、フロースガール王が御呼びだと叫んでいた。

彼は裸身にマントを巻き付け、仲間と共に使者の後に着いて、林檎の木々の下を通り、濡れた草を踏んでヘオロットへ向かった。そこにフロースガール王は王座に座し、最早涙は流さず、石のような面持ちで座っていた。

「フロースガール殿、昨夜何が在ったのです」

老人はじっと彼を見据え、答えた声は重く堅かった。「ヘオロットに災厄が戻ってまいったのじゃ」

「災厄ですと?まさか又グレンデルが来たのでは在りますまい。如何なる災厄ですか」

「グレンデル?いや、グレンデルではない。以前から、<夜の徘徊者>は一人では無く二人見かけるという噂があった。うち一人は女のようだと。儂は愚かも愚か、大戯けであった。その噂を聞き流しておったが、今それが真であるのが解った。儂の顧問で親友であるアッシュヘレが死んだ。我等は幾度も肩を並べて戦い、ともに血を流し、其の後杯を分ち合った。今や其の男は亡い。そちが倒した化け物のおぞましい、身内の女に殺されたのじゃ」

ベーオウルフは身を伸ばし、最後の眠気を篩(ふる)い落とした。「フロースガール王よ、私には未だ力が在ります。もう一度お役に立ちたいと思います」

老王の石のような貌はぴくりともしなかったが、両手が王座の前木をぐっと握り締め、また緩んだ。「ベーオウルフよ、この新たな恐怖から我等を救うて欲しい。先の晩と同じ様に。そちだけが頼りじゃ。しかし、いかにそちでも、我心臓と同じ程愛しかったアッシュヘレを、蘇らせる事は出来まい」

「その様に深く御嘆きあそばしますな」ベーオウルフは素早くそう言った。「男なら友の死を嘆くより、其の仇を討つものです。誰も皆己の命が尽きるのを待たねばなりません。そして、もしアッシュヘレの様に生きている内に誉れを勝ち取る事ができれば、時至って運命の女神ウィルドが生の織物を機(はた)から切り離すとき、其れが何よりの事なのです。唯(ただ)日が落ちるまで、お待ち下さい。アッシュヘレの命を取り戻す事は出来なくとも、必ずその仇を獲りましょう」彼は両手で腕木を握った王の拳を包み、其の打ちひしがれた貌に見入った。「お信じ下さい。喩え彼(か)の女怪が大地の胸の中、山の燃える心臓の中、海の暗闇の底に逃げ隠れても、構えて取り逃がしは致しませぬ」

フロースガールは長く息を吸い込み、其れと共に、若い戦士からの贈物たる力を吸い込んでいるようだった。其の眼に光が宿り、彼はゆっくり立ち上がると、辺りを見回した。「儂の馬に鞍を置け。それからベーオウルフの為に、又同行を求める者の為にも。女怪の巣に行くぞ」

ベーオウルフは逸早(いちはや)く与えられた部屋に戻り、馬が曳いてこられるよりも速く、鮭の皮より精緻な鎖帷子を纏い、ぴっちりした兜を被り、剣を持って引き返してきた。朝日が山の端を離れる前に、彼とフロースガール及びデネ人、イェーアト人の一団は、グレンデルの血痕を追って、荒地の物寂しい湿った苔の上を海岸へと馬を飛ばして行った。

そこは、イェーアトの戦船のが櫂を立て廻らせた後ろに置かれている、玉石の多いフィヨルドの海岸からは、かなり隔たった場所である。二つの切り立った岬の間の入り江で、外海への出口は狭い。崖の下には、黒い岩棚が長く続き、其処には真昼の潮に乗ってきた海獣が日向ぼっこをしていた。また海獣そのもののように牙を剥いた険しい場所には、狭い処へ追い込まれた波が、大釜の煮え立つように揺り反っている。この忌まわしい場所の内陸側では、高い荒地から流れ出る小川が、長年の内に深い渓谷を刻み、其の上には潮に灼かれて萎びた木々が生え、灰色の地衣類を長く垂らした枝先を、滝の醸し出す灰色の霧の中に、また下に泡立つ水の飛沫(しぶき)の中に沈めていた。真に不吉な場所、人が多くの物語―――例えば海霧の中にちらと見える巨大なものの影、或いは木霊する奇怪な音、水底に閃く妖しい光、また何処(いずこ)からともなく湧き起こる嵐、海岸の他の場所でも風も潮も正常であるのに此処にだけ在る奇怪な潮流―――を語り伝える場所であった。陸に住む生き物は此処を避け、猟犬に追い詰めれた鹿も、この流れの辺(ほとり)に来れば、水中に身を投げて向こう岸へ泳ぎ渡るよりは、寧ろ身を翻して戦い死を選ぶという。

グレンデルの血痕を追って、イェーアトとデネの戦士等は此処へ辿り着き、見ればとある切岸(きりぎし)の上に、グレンデルの母親が死骸を巣穴に引き摺って行く際に引っ掛かってもぎ取られたものらしく、大猫に弄ばれた鼠の残骸さながら、アッシュヘレの首が懸かっていた。

セイン等は馬を下り、無言で周りを取り巻いた。其の中心でフロースガール王は、死せる剣の同胞のこの恐ろしき亡骸の傍らに跪き、血に滲んだ乱れ髪を女のように優しい仕草で撫で付けてやった。一言も口には出さなかった―――何も言う事が無かった。やや在って、立ち上がり、周りのセイン達に言った。「馬の足を縛るがよい。此処からは徒歩で行くのだ」

一人又一人と、彼等は老王と若い勇士に従って、朝日に輝く尾根を越え、暗い渓谷の岩や木の根を踏み越え、遥かな崖底へと下りていった。岬が空を切り抜く影以上の寒々とした暗黒が頭上に聳え立つ様に思われ、皆気力も心も萎えていった。一足下る事にその影はいよいよ冷たく残酷になっていった。

とうとう渓谷の幅が広がり、岩棚からせせらぎが流れ出て、泡立ち沸き返る海の穴に注いで処へ来た。其の流れを辿っていくと、やがて木々の世界は尽き、飛沫に打たれる岩巌の世界となった。岩棚には大きな牙の在るアザラシやセイウチが日向ぼっこをしており、これも脅威であった。岩という岩の間で、水は今尚下から緩慢に湧き出す血の色に、暗い緋色に泡立っていた。さながら水面の波の蕩揺(とうよう)の遥か下に澱んだ深みが在る様に、耳に轟く水音の下には、大いなる静けさが篭っていた。此処には鳴いて輪を描く海鳥も無く、沈黙は影の様に人々の心を圧した。

一人のデネ人が戦の角笛を持ってきていて、この男が挑む様な身振りで、銀の吹き口を唇に充て、薄暗い渓谷と木下闇に、勇ましい戦いの楽の音を響き渡らせた。木霊は崖の麓を長く彷徨い、切り立った岸壁に砕け、海獣等はまどろみから醒めて、叫び吼え乍(なが)ら海中に身を躍らせた。

ベーオウルフは傍にいたイェーアト人の手から弓を掴み取った。

「早く矢を―――シューフ、矢だ」そして矢を受け取るや、其れを弓弦に番え、切って放した。矢は雪崩を打って急ぐ海獣等の真ん中に落ち、巨大な牡セイウチの首に震えながら立った。男等は歓声を上げ、海藻で濡ら付く岩の上を走り出す者もあった。12本の槍と同数の鋭いセイウチ用の鈎が、のたうつ獣の躰に打ち込まれた。セイウチは引き揚げられ重い楯の縁(ふち)で後頭部を殴られ息絶えた。暫しの間イェーアト人もデネ人も集まってきて、是を眺めて喜びの声を上げた。大層な大きさの獣で、かなりの象牙が取れると見込まれたからである。だが、この呪われた場所へ来たのは、セイウチを狩る為ではなかったので、彼等は直ぐに本来の差し迫った目的に立ち戻った。

ベーオウルフは何の準備もしなかった。既に鎖帷子を纏い、猪を象った兜を眼深に被り、剣を手にしていた―――王から賜った剣ではなく、海陸を通じて多くの戦いを戦い抜いてきた自らの剣であり、其れは手も柄もお互いの為に作られているかの様に、しっくりと馴染んでいた。だが、この戦いに自らの剣を持って行く事には成らなかった。王の道化師ウンフェルス、辛辣で血の気が多いウンフェルスが、自分の狼皮の鞘から剣を抜き、戦士等を押し分けて近づいてきて、其の剣を怒った様にベーオウルフの手に押し込んだからである。「さあ、俺の剣を取れ―――フルンティングという名だ。刃は毒の枝の煮汁に浸して鍛え、戦の血に研ぎ澄まされているぞ。こいつは戦いの際にして、決して主人を裏切らぬ逸物だ」

ベーオウルフは、道化師の顔から、其の手に握られた波の様な灰色の刃に眼を移し、ゆっくりと又視線を戻した。この男はつい二日前に、自分の面上に罵声を浴びせた男だ。だが、ウンフェルスが今は先の侮辱を悔いているのが解った事で十分だった。彼は自分の剣を近くのイェーアト人に渡し、道化師の差し出す剣を受け取って、ギラギラ輝く黒い眼に向かって微笑を送った。「友よ、忝い。このフルンティングを手に必ず海の女怪を獲り拉いで見せ様」

そして傍らの王に向き直った。「デネ王フロースガール殿。運命の女神ウィルドの思召しが在れば、又お会い出来ましょう。私が戻らなかったら、先程下さった贈物をどうぞ、我暖炉の主君ヒイェラーク殿の元に送り届けて下さいます様。但しあの大剣は、友よりの贈物として、フルンティングの代わりに道化師ウンフェルス殿に取らせ給え。フルンティングは私と共に朽ち果てるでありましょう」

長い事、道化師の剣を抜き身の侭膝に横たえて、ベーオウルフは辺りを見回し、遥かな岬の頂に金色に懸かる太陽と、其の彼方の青く澄んだ海を眺めやった。いつかまた、己の戦船の揺れる甲板をこの足に踏み締める事があろうか。また、剣の同胞たちの苦しげな顔に順繰りに眼を宛てて行きながら、是が名残であろうかと考えた。

「此処で待っていてくれ」と告げた。

それから身を翻し、大剣を頭上に掲げ、逆巻く波に一気に身を投じた。