ベーオウルフ 3 イラスト描くための忘備録 | 萬日記 ガラクタ部屋とも云う

ベーオウルフ 3 イラスト描くための忘備録

3フロースガールの館


ベーオウルフの方は相手の、威厳ある中にも柔和な面差しを記憶の片隅に留めていた。だが、フロースガールは早や老い、顔の皺は歳月による刀痕(かたなきず)さながらに深くなり、幅広の黄金の衿の上に突き出した顎鬚は、穴熊の毛皮の様に灰色だった。

「では真であったるか」老人は長い沈黙の後、考え込みながら言った。

「よもやと思うた・・・・が、喩え百の戦士の中に紛れて居ろうとも、そちの顔にははっきり見覚えがあるぞ。最後に会うた時そちは、肩の高さは猟犬のガルムと同じ位であったがな。

我門番たるセイン、ウルフガールがイェーアトの王の甥御ベーオウルフ殿が来て、外の客用腰掛で待っておられると申すのを聞いて、儂の心は躍った―――この上も無い嬉しいお越しじゃ。歓迎いたす、そちもお仲間も。しかし、何故そちも、父上と同じ様に此処に来られた?ウュルヴィングの誰かを手にかけられたか」

 

ベーオウルフは、老人の面上に束の間閃いた悲しげな微笑に頭(かぶり)を降って答えた。「いえいえ、フロースガール王。海を往く者がイェーアトに参って、デネの王と民の上に降りかかった災厄を語ってくれました。それ故、私と、剣の同胞は、夜中にヘオロットを徘徊するものを追い払うお手伝いを致すべく参ったのです。ひとは我腕を三十人力と申します。」かれは言いながら腕を挙げ、半ば誇らし気に、又半ば乞い願う様に、それをオウの方へ差し伸べた。「我父の蒙った御恩ゆえ、この腕を陛下にお役立てしたい。どうぞ私と仲間に、今夜館に泊まるお許しをお与え下さい」


 フロースガールは両手に顔を埋め、再び上げ、灰色の甲冑姿で槍の様にすっくと立っているベーオウルフに、長い事熱い眼差しを注いだ。そして漸く口を開いた。

「では友誼の為に来られたという訳じゃな。この世が若かった頃の父上エッジセーオウの儂の契りの為に。だが、早まるものでは無い。<夜陰の死の影>に対して力と勇気を試さんとした者の上には、必ず恐ろしい死が降りかかっておる。如何に三十人力で在ろうと、グレンデルには歯が立つものでは無い。限り在る人の定めを越えておる。そちの前に試した勇士達も、皆若く力に溢れていた。

だが、若さと力も役には立なんだ。そちを此処へ連れて来た昔の友誼に賭けて、儂は願う。取り返しのつかぬ事になる前に、よくよく考えて欲しいと」


「我等は皆、とっくと考えました。夜、何が起ころうとも、今更悔いは致しませぬ。総ては、人の運命を織る女神ウィルドの定めの侭となりましょう」


 王の面上には大いなる希望の光が、ゆっくりと差し染めた。王は、彫刻の在る高い椅子の上で、しゃっきり背を伸ばした。


「では、そうなさるがよい。エッジセーオウの子ベーオウルフよ、儂はそちの申し出を受けよう。今夜我館で眠られよ。だが暫しは、我セイン等に立ち混じって、元気良く飲み食いなされるがよい」

是に対して、ベーオウルフと王の遣り取りにじっと耳を済ませた家中の者は、どっと歓声を上げた。そして混み合った腰掛に場所が空けられ、暖かい歓迎の言葉が浴びせられた。ベーオウルフはフロースガール王の二人の若い王子の間に席を占めた。湯気の立つ猪肉と鰻のパイが供され、両手には大きな角杯を押し込めらて、ヘオロットの館では、乾いたブナの樹皮が投げ込まれ焚き火さながら、宴がたけなわとなったのである。


だが、ただ独り、ベーオウルフの来訪を喜ばぬ者があった。王の足元に座っていた、伝令使にして道化師のウンフェルスは、人が己に優る栄誉を得る事に我慢がならなかった。妬み深く舌に刺が在り、気性の激しいこの男は、宴の歓声が一頻り収まるのを待ち、酒の勢いも手伝って立ち上がると、長身の賓客に向かって冷たいぶっきらぼうな口調でこう言った。

「御主は真にそのベーオウルフ殿とやらか。冬の海で、ベーアンスターンの子ブレカ相手に腕比べをしたと聞き及ぶが」

王子等と談笑していたベーオウルフは顔を上げ、言葉の相手を見た。

王座の下に立っている男は、陰気な顔を酒に紅く染め、眼を光らせ、揶揄するような笑いを浮かべていた。

「では、噂の方が先にデネに届いていたのか」とベーオウルフは言った。

「いかにも、結構な話ゆえ、皆の耳に入っている」ウンフェルスは僅かによろめいて、足を踏み締めた。「御主の一族郎党はその様な愚かな真似を諌めたそうな。だが、御主は歯牙にもかけず、嵐の近づく海に乗り出した。七日七夜、御主等は戦ったと聞く。だが、最後に勝利を得たのはブレカであった。別の鶏の糞の山の上で鬨を作る鶏の様に此処に現れる前に、よう考えるべきであったな。グレンデルはベーアンスターンの子ブレカより遥かに獰猛で恐るべき敵だぞよ」


細長い広間には一瞬、沈黙が流れた。聞こえるのは、暖炉で爆ぜる火の音、二頭の猟犬が一つの骨を争って鳴く声ばかりだった。やがてベーオウルフは飛び立つ様に立ち上がり、弾みに杯が倒れて、酒は多色の敷石の上にだらだらと零れた。彼は気性の穏やかな人間であり、滅多に怒る事は無く、侮辱の言葉は速やかに忘れた。為に初めは彼を侮る者も、後にはその様な振る舞いの浅薄さを悔いるのである。だが、彼とても怒りを発する事は在り、今が其の時であった。

「ならば、貴殿も噂を聞いたのだな。だが結末が違っているようだ、大口を叩く男よ。恐らく耳まで麦酒(ビール)漬けになっていて、良く聞えなかったのであろう。あれは愚かな腕比べ、貴殿の申された通り、若気の過ちであった。ブレカも私も若く、決して仇同士などではなかった。我等は互いに、多くのセイウチを陸に引き摺り上げる事無く殺す事が出来ると、自慢し合い、いざ其れを試してみる段になった。で、各々小舟に乗り込み、<鯨の道>を目指した。我等は抜き身を手にし、傍らにはセイウチ用の長い鉤と槍を携えたが、剣は万一の場合に身を守る為のもので、相争う為のものでは無かった。五日の間、我等は舟を並べて進んだが、求めるセイウチは見出せなかった。やがてフィンランドの沖に来た時、大嵐が起こって、互いの舟を違う方向へ吹き流し、夜が明けてみると、岸が近かった―――そして、私はセイウチの群れを見つけたのだ。

彼らは波間に漂って居り、一番大きな奴が舟に向かってきた。私は槍で突き刺したが、急所を外したので、尚も縺れ合って戦ううち、波に煽られて舟は転覆し、我等は揉み合った侭氷の様に冷たい海底に沈んだ。其処で私は剣を抜いて、辛くも相手の息の根を止め、息絶え絶えに明るい海面さして浮かび上がった。すると、海獣共がうようよと、白い牙を剥いて、手足を喰い千切ろうと襲い掛かってきた。だが、手には未だ剣があったので、最後には九頭の大セイウチの死体と共に、フィンランドの海岸に打ち上げられた。後に聞けばブレカも又遥か離れた岸に打ち上げられたそうだが、彼はセイウチの群れには出くわさなかった。

故に競争に勝ったのは、ブレカでは無く、この私だ!」


ベーオウルフは、狼が敵に挑む時の様に、頭を仰け反らせ、凄まじい哄笑を込めて、こう言い放った。「王の道化師よ、貴殿の武勲は何一つ耳に入っておらぬが、何を以って私の武勲を問うつもりだ。もし貴殿が口でなく腕を振るう男であったなら、貴殿の王はとうの昔に、悪鬼グレンデルを追い払う戦士を見出していたであろう!」

居並ぶ戦士等の中から、どっと哄笑が上がり、ウンフェルスは痩せこけた面にいよいよ朱を注いだ。更に何か辱めの言葉を浴びせようと仕掛けたが、場の大勢は異邦人の方に合ったので、戯言であったと言わんばかりに肩を竦め、ニヤリとして、再び王の足元に丸椅子に腰を降ろした。

ベーオウルフはといえば、何事も無かった様に平然と腰掛に腰を下ろし、倒れた杯を立て、食べかけの麦菓子に戻った。

この様に宴は続き、人々はいよいよ歓楽を尽くし、竪琴弾きが立ち上がって王の暖炉の傍らで奏でた。やがて女達の居間に続く入り口を蔽っていた刺繍の懸物が引き揚げられたと思うと、其処には多くの女達を従えた婦人が立っていた。真紅のローブを纏い、眼も髪も黒く、頭には黄金の冠を頂き、両手に黄金の大杯を捧げている。

 ベーオウルフの昔の記憶には、フロースガールに纏わるこの様な女性は居なかった。彼女は王の後妻であり、王よりも遥かに若かったが、一目見れば彼女が王妃ウェアルフセーオウである事は判った。王妃が、侍女達を従えて近づいてくると喜びの声がどよめき起こった。彼女は黄金の杯を先ず、王座のフロースガールに捧げ、広間の隅々にまで透る声で言った。「今宵、海の彼方の異国の勇士がヘオロットの宴に加われた事、婦人の部屋に迄聞えました。雄々しい望みを持って来られました事も。定めて私共の嘆きも終わる事で御座いましょう。さあ、愛しき陛下、杯を干して、お心を安んじなさいませ」

 

王が飲み干した後、王妃は杯をイェーアトもデネも無く、席に居並ぶ勇士の面々に回してゆき、一方侍女の一人が後に酒壺を提げ持って、王妃の後に従い、杯の中身が少なくなる事に注ぎ足していった。最後に彼女は、二人の王子に挟まれて賓客として座っているベーオウルフの許に来た。「ようこそ、いらっしゃいませ。エッジセーオウの子ベーオウルフ様。武運目出度く我等をお救いに見えた事、感謝します」

 ベーオウルフは立ち上がって、彼女の差し出した杯を受けた。「武運目出度くとのお言葉は、戦いの後に承るべきもの」と笑い乍「気高き王妃様。感謝のお言葉は、此処に参った目的を果たしたその後に頂きます。けれど少なくともお約束致しましょう。もし、かの化物を退治出来なければ、決して生きながらえて故郷に楯を持ち帰る事はしますまい」そういって頭を仰け反らせ、杯を干して、彼女の手に返した。

だが、すでに広間の四隅は薄暗くなり、日が更に傾くにつれて、居合わせた者総ての胸にも影が集い始めた。デネの民にとっては、既に慣れ親しんだ影であった。するとフロースガールは王座より立ち上がり、ベーオウルフを呼び寄せた。

 イェーアトの若者が彼の前に立つと、言った。「程無く黄昏じゃ。再びヘオロットに恐怖の影が及ぶ。そちはまだこの恐ろしい企てを思い切らぬか」

 「私は理由も無く志を翻しは致しません。同道致した者も心は同じ。さもなくば、そもそもイェーアトから此処へは参らなかったでしょう。」

「では心して当り給え。もしこの戦いに勝てば、如何なる勇士も王から得た事の無い程の褒美を執らすであろう。今宵の闇が明けた時、そちが此処に立ってその褒美を受ける事を、儂は父なる神に祈りまいらせる。夜が明けるまで、ヘオロットはそちの物じゃ」こう言い置いて長身の老人は背を向け、己が宿命の重みに背を屈めつつ、後ろの扉か出て、既に王妃ウェアルフセーオウが引き取った寝室のある対へと向かった。

 広間中の男達が三々五々別れを告げて、其々の寝室へと引き取ってゆく。奴隷達がベンチを片付け、架台を破風のある壁へ立て掛け、15人の戦士の為に藁を詰めたクッションと暖かい狼皮の敷物を広げた。それから奴隷達も去ると、ヘオロットに残るのはイェーアト人と、はや闇を縫うように忍び寄る恐ろしい物の怪の気配ばかりとなった。

「扉に芯張り棒を」最後の奴隷の足音が消えると、ベーオウルフは言った。「それにしても無駄であろうが、少なくとも奴がいつ来たかがわかる」

二人が命令に従って、滅多に使われぬ閂を填め込むと、後は他にする事も無かった。

最後の火が消え行くまで、一同はその周りに立って、互いの貌と赤い燠(おき)を交互に見遣りながら、口数少なく過ごしていた。朝日の太陽が拝めると確信している者は居なかったが、それでも首領に従ってこの冒険に出た事を誰一人悔いていなかった。十四人は一人又一人と、剣を傍らにして、武装の侭横になった。だが、ベーオウルフは鎖帷子を脱いで、剣と猪の頭を象(かたど)った兜とともに、血族でもあり、もっとも親しいウェーイムンドに渡した。トロールの輩に対して、人間の物具が役に立たぬ事は良く解っていたからである。斯様な化け物を、獲り拉(ひし)ぐ事が出来るとすれば、それは、生身の人間の力と、心に燃える真紅の勇気を以ってする他は無い。

それから、ベーオウルフも眠りに就こうとするかの様に、身を横にした。