鶴姫 ようこそここはぶきやだ
取り合えず
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で鎧と具足の販売コーナーへ跳んでもらって・・
(日本の鎧をフィーチャーするのは初めてかも)
京都の会社なんですが
・・値段相談応じます・・・うーん一体幾らなんだー?
日本には現存する只一つの女性向甲冑があります。
愛媛県伊予沖に浮かぶ大三島は中国地方と四国を結ぶ海運の重要拠点にあり、古来から戦略的に重要でありました。
この島に大山祇(おおやまずみ)神社という由緒正しき神社があります。
「日本総鎮守大山祇大明神(三島大明神)」を奉る、ここは水軍力を誇り瀬戸内に勢力を張った越智氏(伊予の水軍・海賊を統括した名家)によって八世紀初期に築かれました。
越智氏は後に伊予の守護である、河野家と大山祇神社の大祝職(おおはふりしょく・大宮司)を司る大祝職三島家に分れます。
大山祇神社は水軍を中心とした武家から篤く崇められていた経緯があり、武運長久を祈る武将、大名、海賊達は神社に武具を奉納しては海の守護神である大明神に加護を祈りました。
(聖書的に見るとこの神社の一人相撲がとっても重要だったりします・・・イスラエルの名を貰ったヤコブの項)
こうして沢山の武具が奉納された大山祇神社には日本に現存する甲冑のうち国宝級、重文級のもの約八割が保管されています。
(これは武具マニア(日本甲冑)垂涎の神社かも・・・実はこの調べ物をしていたら私も行きたくなった・・・)
その物々しい鎧の中に一際異様な鎧が存在します。
胸部が大きく膨らみ、逆に腰の部分が通常より括れ、普通の鎧ならば四枚か八枚の草摺(鎧の腰部分から垂れ下る装甲板)が11枚あり、なだらかな曲線をしています。
「紺糸裾素懸威胴丸(こんいとすそすがけおどしどうまる)」
と云うそうな。
この日本に唯一存在する女性向け鎧は大山祇神社の伝承では室町時代末期に神社の娘として生まれた鶴姫のものだったといいます。
乍く人々の記憶から消えていた鶴姫ですが世に知られるようになったのは昭和41年に出版された小説「海と女と鎧」からです。
著者の三島宮司に連なる三島安精氏は修復の際、この鎧が女性用鎧と判って若き日に見た古文書「大祝家記」の中「鶴姫の比類なき働き、鎧と共に今に伝わるなり」という一文を思い出し、「大祝家記」の記録とその他の家伝資料を参考に女水軍大将を小説として甦らせました。
時は室町末期。
応仁の乱から半世紀を経て室町幕府の権威は地に落ち、毛利家が台頭する前で大内家が中国地方から九州にまで勢力を持っていた時代。
瀬戸内海も大内家が勢力を伸ばさんと試み、大内軍は大三島を支配下に置くため虎視眈々と狙っていた。
鶴姫は大山祇神社の大祝職である大祝兵庫介安用(やすもち)を父に、妙林という名の母との間に長女として、大永六年(1526年)に生を受ける。
鶴姫には安舎(やすおく)、安房(やすふさ)という二人の兄がおり、夫々、神社の大宮司たる大祝職、大三島を守護する水軍大将たる祝職になることに決まっていた。
世が世なら平穏無事に過ごすことが出来たであろう鶴姫であったが、時代の流れが風雲急を告げ、彼女を歴史の表舞台に引っ張り出す。
中国地方の守護大名大内氏が尖兵を大三島に送り込んできた時、
大祝家は同族の河野氏や村上水軍の救援を得て、この際祝職の長男安舎(当主の安用は神職にあるので)が若干17歳で指揮を取り、見事瀬戸際で撃退する。
これを第一次大三島合戦という。
中国地方の守護大名である大内家にとって伊予の守護大名の河野氏は九州の大友家と友好関係にあって、大友家と激しく対立する大内家は看過できない事情と、九州、京都、中国地方を結ぶ海回廊の重要拠点であるが故に、今後の政略的運営からどうしても落とす必要があった。
赤子の時分から顔貌が整い、体格も大きかった鶴姫は早くも4歳の頃から武術に興味を示し、体格勇気とも並みの男子を凌ぎ、姫は島民から三島明神の申し子と呼ばれていた。
武術に長けた様子から父の安用が軍学を手ほどきすると忽ちのうち時分のものにしてしまい、そんな姫を父はいたく可愛がり身辺から離さなかったという。
だかその父は鶴姫八歳の時に病気で没した。長兄の安舎が大祝職(神職であるため戦には参加できない)が継ぎ、次兄の安房が祝職となって神社を守る三島城の守りに入る。
鶴姫16歳の美しい娘に成長した天文十年(1541)大内家の武将白井縫殿介房胤(しらいぬいのすけふさたね)と小原中務丞(おはらなかつかさのじょう)率いる軍船数百隻が大三島に攻め入る。
河野家、村上水軍の援軍を得ているとは言え、物量で勝る大内家に祝職の安房は数日に渡って抗戦を繰り広げ、終に討ち死にしてしまう。
後が無い三島軍は台の浜に上陸した大内軍を決死の覚悟で迎え撃つ。
指揮をとるのは次兄の仇討ちと明神守護に燃える鶴姫であった。
漆黒の黒髪を靡かせた女武者鶴姫、神々しく、威風堂々、辺りを圧していた。鶴姫は大薙刀を持ち、騎馬に跨り、頃合を見計らって、
「吾は三島大明神の使い鶴姫と申す者なり、我と思わん者は出合え!」
声は高々と響き渡った。この鶴姫の大声に力を得た味方の軍勢は、鶴姫に続けとばかり勇気を振り絞り、手負いの武士達も渾身の力を出して、じりじりと海岸へ敵の軍勢を押し返していた。
三島安精著「つる姫さま」
怯む事無く敵陣の中に突撃し、鬼神の如く薙刀を振るう鶴姫の勢いに飲まれ大内軍は退却する。
思わぬ痛手をこおむった大内軍は一時防州(広島県)に撤退。四ヶ月後小原中務丞を大将として再度侵攻する。
かたや三島水軍は先の海戦の痛手が未だ回復していないが故、成すが侭に後退し、大内軍は勝ったつもりでいた。
鶴姫は常日頃訓練していた小型船で朝駆け奇襲を決行、陣頭に立ち小早船を率いて敵の旗艦に乗り込み、勝ったつもりで酒盛りに浮かれていた中務丞を自らの手で討ち取った。
その混乱に乗じて三島水軍が押し寄せ、大内家の艦隊は撃沈した。
その頃鶴姫の幼馴染の越智安成という若武者が三島城の陣内を勤めるようになり、鶴姫と恋仲となる。
その二年後天文12年しつこい大内家の大内義隆は陶晴賢(すえはるかた)を大将とする軍勢を三度目の攻略軍として立ち上げる。
前回の轍を踏まんと二度破れている大内軍は、これまでで最大規模を派遣。
御手洗にて正面から対決を余儀なくされ、数に於いて劣る三島水軍は敗北。
安成は鶴姫達ら味方の船を逃すため、敵艦に切り込み時間を稼いで討ち死にした。
この報に接した三島城の幕僚(鶴姫の兄大祝職)は和睦を決意。
大三島に帰ってきた鶴姫に是を伝える。
納得できなかった鶴姫はもう一度軍を再編成し、御手洗沖に停泊している大内家の艦隊に夜襲をかけることを命じ、出撃した。
天の助けか、三島水軍は激しい嵐に助けられ見事に夜襲を成功、大内家の艦隊は混乱の窮みに達し、我先にと遁走した。
大三島を守りきった鶴姫はその後、一度三島城に戻り、そしてたった一人で船出し、入水自殺をした。
城には
わが恋は
三浦の浦のうつせ貝
むなしくなりて
名をぞわづらふ
という辞世の句を残して・・・・
ここまでして守りきった大三島ですが結局、
鶴姫の兄である大祝安舎が大内家の攻略に屈してしまい
大内家の支配下に置かれるようになった。
実は彼女の場合「鈴」がアクセサリーで、結構話の中に絡むのですが、オミットしちゃいました。機会があればもうちょっとましにしてみたいと思います。
後日談ではその後大内義隆は陶晴賢に殺され、陶晴賢は毛利元就と厳島で決戦するのですが、
恨み忘れぬ三島水軍は毛利側に味方し、下馬評では毛利に勝ち目は薄いとされた決戦に敢えて味方し、毛利元就の勝利を導いたといいます。
■ちょいと脱線
大山祇神社には一人相撲という途轍も無い神事があります。
>一人相撲
コピペ引用
・独り相撲(ひとりずもう)[=一人~] 相手がいないのに、また、居ても全く問題にされていないのに、一人だけ意気込んでその事に取り組むこと。また、その結果何も得ることなく終わること。 例:「一人相撲を取る」 参考:一人相撲 ひとりで、あたかも相手があって相撲を取っているかのような所作をすること。
愛媛県越智郡大三島町の大山祇神社などで神事として行われるほか、猿楽・大道芸てしても行われた。
引用お終い
相撲のそもそもの始まりが遠く旧約聖書時代イスラエルが起源になるという経緯があるのですが・・・・
ヤコブが天使と戦い、(←物音に目覚め泥棒だと勘違いし音のする方へ組みかかった)余りにも強かったので終(つい)には天使が膝の関節を抜かざる負えなかった。
ヤコブが名前を尋ねると「名前なんか聞くな、お前は充分強い。
祝福してやるから良く聴け、今後お前はイスラエルと名乗って宜しい。」
天使が本人以外に見えないとしたら第三者には一人で相撲をとっているにしか見えない。
稲穂⇒稲妻⇒雷(いかずち)⇒神の験(しるし)このラインで考えると日本は事の外(本人達が知らぬうち)イスラエルの習慣が身近にあります。
(左右の門松が生命の樹そのものなんて誰も知りませんから)