高村薫の「レディ・ジョーカー」を読んでる。
登場人物は皆なんらかの鬱屈を抱えてるんだけど、ふと、これは夏目漱石の「こころ」に出てきた「淋しさ」と同じものかな?と思った。
時代が変わっても「変わらない淋しさ」があるのかも。
AIに「レディ・ジョーカー」の感想を伝えながら話してみた。
登場人物が感じている気持ちの正体
私:
登場人物たちは基本、現代で言うところの「社畜」なんだよね。
でも、だからといって会社から離れて自由になれば、この鬱屈から解放されるとも思えない。
彼らの気持ちは会社に隷属しているせいではないんじゃないかな。
会社の中で目立った出世もできず、社会的地位も得られず、それほどの経済力を得たわけでもない。自分が社会に対してひどくちっぽけな存在だと感じているせいなんじゃないかな。
AI:
それはかなり大きいと思う。
彼らの苦しさは、「会社に縛られている」だけではなく「自分は何者にもなれなかった」という感覚に近いのかもしれない。
何十年も働いた。組織にも従った。それなりに社会人として生きてきた。
でも
「この先、大物になることもない」
「社会に大きな痕跡を残すこともない」
「自分がいなくても社会は普通に動いていく」
そんなことが、年齢を重ねるにつれて見えてくる。
これは会社を辞めても解決しない問題だろう。
「こころ」で書かれた「淋しみ」
私:
正確に覚えているわけじゃないけど、『こころ』で先生が、自由と個人の保証された現代に生きている人間は、みんな寂しさを味わわなければならない、みたいなことを言っていたよね。
あの「寂しさ」と、『レディ・ジョーカー』の男たちの「鬱屈」は同じなのかな。
身分や職業や土地に縛られていた時代には、こういう鬱屈はなかったのかな。
AI:
『こころ』で先生が言う有名な言葉は、
「自由と独立と己とに充ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう」
だね。
同じものではないけれど、同じ近代的な問題から生まれた感情と考えると面白い。
昔の社会では、生まれた土地、家、身分、家業、共同体などによって「あなたは何者なのか」がかなり外側から決められていた。
それは窮屈だった。
けれど近代になると、
「自分の人生は自分で決めていい」
となる。
これは解放であると同時に、
「では、あなたは何者なのですか?」
という問いへの答えまで、自分で作らなければならなくなったということでもある。
『こころ』の時代には、
共同体から自由になった個人 → 自由になったけれど孤独
という問題があった。
そして『レディ・ジョーカー』では、
個人 → 会社などの巨大な組織に所属 → それでも自分が何者なのか分からない
という形に変化しているように見える。
現代人の淋しさ
私:
じゃあ、現代人が感じているのは何なんだろう。
『こころ』の時代よりも、『レディ・ジョーカー』の時代よりも、さらに自由になった現代人が感じている満たされなさはなんだろう。
共同体意識の希薄さなのかな。
「自分は誰かの仲間である」という感覚の薄さかな。
AI:
それもかなり大きいと思う。
現代では、
会社に一生所属しなくてもいい。
結婚しなくてもいい。
地元を離れてもいい。
好きな働き方を選んでいい。
好きな価値観で生きていい。
自由はかなり増えた。
その一方で、「私は何者なのか」「私は誰に必要とされているのか」も、自分で作らなければならなくなった。
昔なら「○○村の人」「○○家の人」「この会社の社員」という所属が半ば自動的についてきた。
現代では、趣味のコミュニティにも入れるし、SNSでも人とつながれる。
でも、どこも嫌なら抜けられる。
自分が簡単に離れられる場所は、他人も簡単に離れていける場所でもある。
だから
「私はこの人たちの仲間だ」
というより
「今のところ、この人たちとつながっている」
という感覚になりやすいのかもしれない。
日本より早く自由を得た欧米は?
私:
欧米は日本よりずっと早くから「個人」や「自由」という問題に関わってきたよね。
だったら、欧米はこの寂しさに対する答えを見つけているのかな。
AI:
完全な答えを見つけたというより、長く付き合ってきた分、いろいろな対処法を作ってきたのだと思う。
宗教、地域活動、クラブ、労働組合、ボランティア、恋愛、家族、心理療法、自己実現、キャリア。
生まれた共同体に縛られる代わりに、自分で所属先や人生の意味を選ぶ仕組みを作ってきた。
私:
でも、それって現代日本でも使われてる解決策だよね。
それなのに、現代人の寂しさを埋めてくれているようには感じない。
AI:
そこが難しいところだと思う。
近代社会は
「嫌な共同体から逃げる自由」
を作ることにはかなり成功した。
でも
「自由なまま、誰かや何かと深く結びつくにはどうすればいいのか」
という問題には、まだ完全な答えを出せていないのかもしれない。
結びつきが強くなれば、義務や責任が生まれて自由が減る。
自由を最大限にすれば、いつでも離れられる代わりに、関係は不安定になりやすい。
自由もほしい。
でも、自分が誰かの仲間だという実感もほしい。
誰かに必要とされたい。
自分がこの世界に存在していることに意味があると思いたい。
その両方を求めるから難しい。
『こころ』の時代には、
「自由になった。だから孤独だ」
という寂しさがあった。
『レディ・ジョーカー』の時代には、
「組織に所属し、何十年も働いた。それでも自分は何者にもなれなかった」
という鬱屈があった。
そして現代では、
「何者になってもいい。どこに所属してもいい。それなのに、自分が何者なのか、どこに属しているのか分からない」
という満たされなさがあるのかもしれない。
そう考えると、『こころ』の先生が感じた「寂しさ」は、明治という近代化の途中に生まれた一時的な問題ではなかったのかもしれない。
自由になることと、孤独から解放されることは同じではない。
むしろ自由である以上、
「私はどう生きるのか」
「私は誰と生きるのか」
「私は何者なのか」
という問いに、自分自身で答え続けなければならない。
自由になることと、自分の人生に意味を感じられることは別問題――漱石が百年以上前に引っかかっていた問題を、私たちはまだ解決できていない、とも言える。