騎馬遊牧民族の帝国 =13= | 古都、老翁(壷公)がいた 翁は大壺を持ち 毎夕刻 壺に躍り入る              傾国に翁が世辞を語る/【壺公慷慨】

古都、老翁(壷公)がいた 翁は大壺を持ち 毎夕刻 壺に躍り入る              傾国に翁が世辞を語る/【壺公慷慨】

 媚薬を売る壺公仙人(涯 如水)が愚考・独行・栴檀の日々 それ 快適にして快活   愚考する諸々に呵呵大笑  日々之好石碑 
 放浪生活は人生の過半に及び  齢七十歳を迎えるも  デラシネ(根無し草)の彷徨から次なる世界に・・・・・ 涯 如水

❢❢❢ 古代遊牧民族の帝国・匈奴 ❢❢❢ ☞☛ 秦の始皇帝は恐れて長城を修築、匈奴の侵略を防ぐ。漢の劉邦は従服して毎年貢物と王女を献納した


オアシス

郅支単于は呼韓邪単于が漢に入朝したことを知ると 兵が弱くもう戻って来られないと踏み、右地(西方)を攻撃。 しかし 烏孫は漢が呼韓邪単于を受け入れたことを知ると郅支単于を拒み、呼韓邪単于を支援する。 呼韓邪単于は 北に帰る際、同行していた漢の将軍・車騎都尉韓昌、光禄大夫張猛の二将と月氏王の頭蓋骨で作った盃で「今より以降、漢と匈奴は一家となり、代々偽って攻めたりすることのないように」と盟を結んだ。

 呼韓邪単于は北へ帰ると 人々は彼の下に帰順し、匈奴は平定されたていく。 他方、漢の元帝(在位 紀元前49年ー前33年)の代になっても 漢は呼韓邪単于に食料を給し 支援を継続した。 ある時、漢の使者を殺した郅支単于を討つよう呼韓邪単于を責めてもいる。

 タホウ、兄である郅支単于は、勢力拡大を急ぐあまりに漢領内にも侵略していた。 また 一度 呼韓邪単于は郅支単于との戦いに破れていたのである。 漢の建昭3年(紀元前36年)、郅支単于は康居王と結んでいたが 西域都護甘延寿と副校尉陳湯により攻め滅ぼされた。

 この漢の動向に呼韓邪単于は喜ぶと共に 漢を恐れ、再度の入朝を願い、竟寧元年(紀元前33年)に入朝した。 この時、呼韓邪単于は漢の婿となることを願い、元帝は後宮の女性王昭君を閼氏(エンシ;皇后)として賜ったのである。
  ≪ 王昭君に関して 幾多の小説家が秀作を発表されています。 呼韓邪単于の立場は いや 匈奴と漢の力関係は匈奴側が弱い時代でした。 この時代背景を踏まえた作品はすくないようですね ≫

 呼韓邪単于は漢が北辺の防備=匈奴との国境=を撤廃することを建策したが、これは却下されている。 漢はあくまでも匈奴を信頼していなかった。 そして、呼韓邪単于は在位28年、漢の建始2年(紀元前31年)に死亡。 子の雕陶莫皋が立てられた。 雕陶莫皋はレビラト婚によって 父の妃・王昭君を娶り、 須卜居次と当于居次の2女を授かっている。

 雕陶莫皋は 呼韓邪単于と第2閼氏(エンシ:皇后 大閼氏)との間に生まれている。 建始2年(前31年)、呼韓邪単于は臨終の際、第1閼氏(顓渠閼氏)の子である且莫車を立てようと考えていたが、顓渠閼氏が「且莫車はまだ若く、民衆が附かないので、国を危ぶむ恐れがある」と言い、妹である大閼氏の子の雕陶莫皋を立てようと提案した。

 しかし、大閼氏は「若くとも大臣と協力していけば大丈夫であり、それよりも第一夫人の子を廃し、第二夫人の子を立てる方が後々不安です」と反論し、意見が分かれた。 その後、呼韓邪単于が死去すると、顓渠閼氏の意見が採用され、雕陶莫皋が立って復株累若鞮単于となった。 これ以降、単于位は弟に継がせることを規則として定着して行く。

蒙古高原-1

 復株累若鞮単于(ブクシュルイニャクタイゼンウ 在位;紀元前31年ー前20年)は 子である右致盧児王の醯諧屠奴侯を漢に入侍させ、次弟の且麋胥を左賢王とし、三弟の且莫車を左谷蠡王とし、四弟の囊知牙斯を右賢王とした。 また、復株累若鞮単于は 父・呼韓邪単于の妃王昭君を娶り、須卜居次と当于居次の2女を得ている。 彼の治世中は、漢に臣下するような外交策を採り続け、生涯をまっとうした。 

 復株累若鞮単于は即位10年の鴻嘉元年(前20年)に死去した。 規則により弟の左賢王且麋胥が立ち、捜諧若鞮単于(シュウガイニャクタイゼンウ)となる。 三代の君主の妃と成った王昭君の存在が 匈奴と漢の関係を友好に保っていたと言える。

匈奴ーx30

前節に移行 ➡ ;  http://ameblo.jp/thubokou/entry-12134733260.html

     ・-・-・-・-・-・-・-・-・ 涯 如水 / Vagrant Suntana  ・-・-・-・-・-・-・-

== 当該地図・地形図を参照下さい ==

大きな地図で見る