草原の覇者・ウイグルの民= 04= | 古都、老翁(壷公)がいた 翁は大壺を持ち 毎夕刻 壺に躍り入る              傾国に翁が世辞を語る/【壺公慷慨】

古都、老翁(壷公)がいた 翁は大壺を持ち 毎夕刻 壺に躍り入る              傾国に翁が世辞を語る/【壺公慷慨】

 媚薬を売る壺公仙人(涯 如水)が愚考・独行・栴檀の日々 それ 快適にして快活   愚考する諸々に呵呵大笑  日々之好石碑 
 放浪生活は人生の過半に及び  齢七十歳を迎えるも  デラシネ(根無し草)の彷徨から次なる世界に・・・・・ 涯 如水

/ / / / / / 知略で異民族と共栄した草原の民・ウイグル/ / / /

= ウイグル(维吾尔) は、4世紀から13世紀にかけて中央ユーラシアで活動したテュルク系遊牧民族 =

スキタイ

回紇(ウイグル)可汗国の成立 

 中国の歴史は北方の騎馬遊牧民族を片方に据えて鳥瞰しなければならない。 その証が“万里の長城”であろう。 不思議にも、現在 中央アジアに民族主義的に立国しているテュルク系諸国家(トルコ共和国を含め)、これらも民族の故地はシベリア東方のバイカル湖近隣である。 千数百年の歴史の中で国を起こし、栄華の後に(約200年周期だろうか)衰退し 西に追われ、いや西方に活路を求めての移動を繰り返してきた。

一騎当千の言葉が生まれた如く、農耕民族の歩兵に騎馬武者が当たれば、漢中の戦車(馬で引く台車)に今日の戦闘機で狙い撃ちするようなものであろう。 遊牧民の日常生活は戦闘の訓練であり、彼らの社会構造は集団で猟をすることから生まれた。 社会の規範そのものが敵を殲滅する組織の上に構築されていた。 また、蒙古馬は小型なれどもその持久力は農耕馬の比ではない。 事実、後年にジンギスカーンが中央アジアを席巻し、彼の子や孫がバクダードを占拠した勢いでカイロにせまり、 長男・ジュチの正嗣がウィーンを馬蹄で蹂躙する勢いで侵攻できた遊牧民族の機動力は人馬一体の戦略がもたらしたものであろう。

従って、漢中歴代の王朝は“万里の長城”を幾重にも構築して北方からの侵攻が機先を削ぐしか方法はなかったである。 南に位置する農耕社会は遊牧社会では、比べのなき生産物と文化を蓄積していた。 北方の遊牧民は憧れをもって長城を超えたのである。  蛇足ながら、筆者は冬季に凍り付く黄河をジープで走行横断を繰り返したことがある。 陰山山脈南方、ゴビ砂漠西方のオルドス周辺での事。また、はハルピンや長春での同じ経験をしていることから河川は防衛線には成りえないことを知った。

北魏と宋

・・・・・・ さて、ウイグルの話をしょう。 

貞観3年(629年)に東突厥が唐に敗れると、回紇(ウイグル)部は薛延陀(セツエンダ)部と共に北方の草原地帯における2強となったが、回紇部の吐迷度(ツマイド、前節参照)が諸部とともに薛延陀部の多彌可汗(タヤカカン)を大破したため、単独で鉄勒諸部の盟主となっていた。 そのご、貞観21年(647年)、回紇部は唐の羈縻支配下(キビシハイ゙、前節参照)に入り、都督府の官位を拝命して燕然都護府(エンゼントゴフ)に属していた。
 しかし龍朔中(661年- 663年)、回紇部は同羅部,僕固部と共に唐の国境を侵し、唐に対して反旗を翻した。

 唐の高宗)は僕固らを討たせ、回紇部一派の比粟毒(ヒソクドク、を敗走させた後の龍朔3年(663年)に唐は回紇(ウイグル)部の官位を上げている。 燕然都護府を回紇に領させ、瀚海都護府とした。 因みに、回紇部が唐に遣使入貢し、太宗から懐化大将軍を拝命し、都督となった吐迷度以来、回紇部の俟利発(イルテベル:部族長)であった時(629年- 648年)以来、唐が認めた俟利発は、烏紇(ウゴチ、第4代:648年)→婆閏(バニン、第5代:648年- 662年頃)→比粟毒(ヒソクドク、第6代:662年頃- 680年頃)と繋がって行く。

そして、7世紀後唐の武周/武則天(則天武后()の時代(690年- 705年)、東突厥第二可汗国が再び草原地帯の覇者となると、回紇部を始めとする九姓鉄勒(トグス・オグス)はその圧迫を受ける。 しかし、回紇(ウイグル)部は第二可汗国の衰退と共に再び勢力を増して行く。 734年に、東突厥第二可汗国の毘伽可汗(ビルゲ・カカン)が貴族に毒殺されると、内戦に陥った東突厥第二可汗国へ度々攻撃を仕掛け、741年に骨力裴羅(クトゥルク・ボイラ)が唐との挟撃により最後の東突厥可汗である白眉可汗(ビャクミカカン)を殺して突厥可汗国を滅ぼした。

高宗

※ 白眉可汗(ビュクミカガン、? - 745年)は、東突厥第二可汗国期の可汗。 判闕特勒の子で烏蘇米施可汗の弟。可汗になる前が白眉特勒(はくびテギン)だったため、白眉可汗と呼ばれる。姓は阿史那(アシナ)氏、名は鶻隴匐(コツリョウフク)。

天宝3載(744年)8月、拔悉蜜(パシュミル)部,回紇(ウイグル)部,葛邏禄(カルルク)部の3部族は烏蘇米施可汗(オズミシュカガン)を殺し、その首を京師に伝え、太廟に献上した。 東突厥では烏蘇米施可汗の弟である白眉特勒の鶻隴匐が即位して白眉可汗となり、拔悉蜜の頡跌伊施可汗(イルテリシュカガン)と対立した。 その後、回紇部と葛邏禄部は頡跌伊施可汗を殺し、回紇部の骨力裴羅(クトゥルク・ボイラ)を奉じて骨咄禄毘伽闕可汗(クトゥルグ・ビルゲ・キュル・カガン)とした。

天宝4載(745年)1月、玄宗は詔で朔方節度使の王忠嗣に命じて、薩河内山で左阿波達干(左アパ・タルカン:官名)の11部を撃破させた。 この年、白眉可汗は殺され、その首は京師に送られた。 これに伴い、毘伽可汗(ビガカガン)の妻であった骨咄禄婆匐可敦が衆を率いて自ら帰順したので、玄宗は可敦を封じて賓国夫人とした。

※ 懐仁可汗(カイシンカガン、 ? - 747年)は、回鶻可汗国の初代可汗。 氏族は薬羅葛(ヤクラカル)氏、名は骨力裴羅(クトゥル・ボイラ)。 回紇部の頡利発(インテルベ:部族長)となる。
天宝の初め(742年頃)、拔悉蜜(パシュミル)部,回紇(ウイグル)部,葛邏禄(カルルジュ)部の3部族は東突厥(第二可汗国)に叛き、拔悉蜜部の酋長を推して頡跌伊施可汗(イルテリシュカガン)とし、回紇部の骨力裴羅は葛邏禄部の族長とともに左右の葉護(ヤフク;国防大臣)と称した。 葉護頡利吐発(ヤブク・イルテベル)となった骨力裴羅(クトゥル・ボイラ)は唐に遣使を送って入朝したため、玄宗より奉義王に封ぜられた。

天宝3載(744年)8月、拔悉蜜部,回紇部,葛邏禄部の3部族は東突厥の烏蘇米施可汗(オズミシュカガン)を殺し、その首を京師に伝え、太廟に献上した。 東突厥では烏蘇米施可汗の弟である白眉特勒の鶻隴匐が即位して白眉可汗(ビャクミカカン)となり、拔悉蜜の頡跌伊施可汗と対立した。 その後、回紇部と葛邏禄部は頡跌伊施可汗を殺し、回紇部の骨力裴羅を奉じて骨咄禄毘伽闕可汗(クトゥryク・ビルゲ・キョル・カガン)とした。 その後、骨力裴羅はふたたび唐に遣使を送って入朝したため、懐仁可汗の称号を拝命した。また、骨力裴羅は牙(本拠地)を南の突厥故地(漠南)から烏徳鞬山(ウテュケン山;聖山)・昆河(オルオン川;中流域に成吉思汗ノ生誕地)の間に移した。

天宝4載(745年)、骨力裴羅は東突厥の白眉可汗(ビャクミカカン)を攻め殺し、頓啜羅達干(トンチョラ・タルカン:官名)を唐に遣わして白眉可汗の首を献上させると、唐によって左驍衛員外大将軍に拝された。 骨力裴羅はさらに領土を広げ、東は室韋、西は金山(アルタイ山脈)、南は大漠(ゴビ砂漠)と接するまでとなり、古の匈奴(キョウド)の地を手に入れることとなった。 骨力裴羅が死ぬと、子の磨延啜(モユン・チョル)が立ち、葛勒可汗(カイジン・カガン)と号した。

武則天

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     ・-・-・-・-・-・-・-・-・ 涯 如水 / Vagrant Suntana  ・-・-・-・-・-・-・-

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