〝どうしたんだ?〟

〝早くロッカーに行って着替えないと〟

 寄り目は、すでに私を見ていなかった。何かに憑依されたかのような、危ういのにかろやかな足どりで女が去っていくと、入れ替りで、満面をとろけさせたフィリピン男が近づいてきた。疎ましさを覚え、私は天井を見上げた。尻を揺さぶられたので、あわてて顔を落した。ちゃっかりと隣に座られているのだった。チビ人間の特性、ふてぶてしさを、あらためて思い知らされた。

〝ねえジャック. きみは仏教徒なの? まさかお坊さんじゃないよね, こんな店に来てるんだから〟

〝さあな. 俺は仏教が好きで, お経も読めるけど, 宗教団体には属していない. 頭を剃ってるのは, てっぺんだけがハゲてるのを, 目立たなくするためでなんだ〟

〝ふーん. でもすごく似合ってるよ〟

 そう返されたときには、またちゃっかりと、今度は肩を組まれていた。私の目を見つめてもいる。一本クギを刺しておこうと思った。

〝なあマネジャー. 俺は女キチガイなんだ. 約束したから, 期待してるんだぞ〟

 ゲイの小男は目を逸らせた。その横顔には、不満の色がありありと浮かんでいる。してやったりと、私は心のなかで手を打った。追討ちをかけてやることにした。

〝なんだよその顔は? 偉そうなこと言ってたけど, ホラだったのか? それなら帰るぞ. 女が付く店は, まだいくつも開いてるんだしな〟

〝ホラなんかじゃないよ! ちゃんと楽しませてあげるさ! でもジャック, どうしてもきみを許せないことがあるんだ〟

 相手は異人種である。チビのうえにもホモと来ている。えたいが知れない。この晩のロシア女との一件が、頭に蘇ってきた。私は首より上を、正面からは攻撃されえない方向へと、回した。

〝なにそれ! 聴いてるの!〟

〝心配すんな. 片方の耳はおまえに向けてあるよ〟

〝んもう! なんでロミオって呼んでくれないの! それだけは必ず, ここを出るまでにやめてもらうからね. どうしても許せないよ〟

 そんなことでむくれていたのかと思うと、相手がいささか哀れに思われた。私は首の力を抜いた。詫言にその名を付してやった。

〝わーい! やっと呼んでくれた! もっと呼んでもっと!〟

 子供のようなはしゃぎぶりである。顔面の皮膚の具合からすれば、二十五歳以下ということはありえない。そんな男が、そうしているのだ。身体障害を抱えている人に接したときの切なさ。それと似たものを、私は覚えた。

〝ねえ早く早く. ちゃんとこっち向いて呼んでよ, ジャック〟

 見るに忍びなかった。目を伏せて、応じてやった。顔さえ向けてやっていれば満足なようで、さらなる追加を求められた。それならばお安い御用だと、私は思った。何か「おまけ」してやれないものかとも、考えた。結果、腹からの声、常よりも低い声で、呼びかけてやることにした。

 首が重たくなった。かと思うと、顔に熱気が押し寄せてきた。迂闊であったと言わざるをえない。視線を落していることに付け入られ、まんまと唇を奪われたのである。怒りがぜた。目を見開くと、私は左手でロミオの胸倉むなぐらつかんだ。

〝何しやがるんだこのホモ野郎!〟

〝ああ! きみの顔が美しすぎてつい. ひい! ひえー!〟

 怯えきったその目が、こちらの胸の高さに落下していた。激昂したためであろう。いつしか私は起立し、ロミオを吊し上げているのだった。相手が小男であることに気づくと、左腕に震えが走りはじめた。

〝約束は必ず守るよ! だから堪忍して!〟

 複数の人間が近づいてくる気配を、背中に感じた。眼下の小男がヤクザの情人であるということにも、そこで思い至った。私はロミオを放した。大きくなる靴音の種類を、聞き分けられるようになった。前のクラブで男たちに取り抑えられたときの情景が、脳裏に映し出された。同じてつを踏まないためにはどうすべきか。そう考え、両腕を身体の前に、肩の高さに振り上げた。

〝ぼくが悪かったよジャック!〟

 帽子を振り落とし、ロミオが私の腕の谷間に飛び込んできた。抱きつき、私の心音を聴くような体勢になった。早くぼくの肩を抱かないと騒ぎが大きくなっちゃうよ、とささやきもした。

 抗うほどのことでもないと思い、私は彼の勧告を聞き入れた。そのままで数分が過ぎた。

 またしても相手の思うつぼまってしまっているではないか。私がそう考えられるようになったのは、ロミオの変化に気づいてからであった。笑っているのか私のにおいを嗅いでいるのか、しきりと鼻息を震わせているのだ。かっとなったためか、視野が広まった。着替えを済ませた白人女たちがこちらに顔を向けているのが、とらえられた。舌打ちするだけで、私はロミオを静かに引きはがした。

 ロミオに手を引かれた。途中で女たちを追い越すと、細いかかとを床に打ちつける音が、背後から飛ばされてくるようになった。女たちの群れのなかには、私が狙っている二人も、たしかにいた。だが、うしろを付いてきているのかどうかは、見てみないことにはわからない。私は振り向いてみた。ぞっとさせられた。表情のない青白い顔。見開かれているというのに輝きのないまなこ。マネキン人形の集団であるかのように、想われたためであった。私は首を前に戻し、歩くことに専念した。

 エレベーターホールで足を止めると、うしろからの音もぱったりとやんだ。黄色い声の一つすら、聞えてはこない。気味が悪くなり、私は黙っていられなくなった。

〝なあロミオ. これからどこへ行くんだよ?〟

〝心配いらないよ. ぼくの友だちの店だ. おカネのことも考えなくっていい. きみの分もこのメスどもの分も, ぼくが払うんだから〟

〝それにしても何か変だな, うしろの女たち. 目を開けてるだけで, 笑うことも話すこともしない. 魚みたいだ. いったいどうなってるんだ? まるで催眠術にでも, かかってるみたいじゃないか〟

〝そのとおり. ぼくがメスどもに催眠術をかけたのさ〟

〝まさか, 冗談だろ?〟

 ロミオは口許くちもとで笑うだけで、答えてはこなかった。

 鉄の箱が降下していくなか、ロミオの言ったことが冗談にすぎないと、私は断じた。ルーマニア女から聞いた話のほうがはるかに現実的であり、そちらを採用することにしたのだ。自分の心を安らげたいためでもあった。

 無言のままにぞろぞろと、五分ほど通りを歩き、別のビルの入口に行き着いた。エレベーターホールへと向かいだしたところで、私は脚の運びに違和感を覚えた。何かが引っ掛かっている。しかし、ロミオの左手は私の右手を握っている。もう一方にしても、ハンドバッグに似たものを、携えていたはずである。怪訝けげんに思いながら、私は首を前に折ってみた。

〝へへ. 身体の割に竿さおは短いけど, 袋のほうは立派だね. これならこのメスどもとも, ずいぶん楽しめそうだ. ね, ジャック〟

 バッグを女に持たせたのであろう。ロミオの右手が、私の股に差し入れられていた。そこでの言葉と引替えに、それは引っ込められた。

〝おい. あんまり図に乗るんじゃねえぞ〟

〝何がさ? 誤解するなよ. きみは女キチガイなんだろ? ぼくはただ, きみの性能を調べただけじゃないか〟