陽光が斑なく照りつけていた。だがその光線には、この夏に私を眩しがらせたいずれとも、何とはなしに異なるものがあった。どことなく弱まっているように観えた。この日の自分の体調や心持によるのかと、当初の私は思った。しかし、それではあまりにつまらない気がした。新たな季節の、新たな生活の訪れが、そこに示されているのだ。そう解釈し、さらにも進もうとする考えを雁字搦めにし、食べることに専念した。

 雑務に追われているうちにも、その日の夕刻になった。赤色のもの、専務秘書の色ばかりを、目がとらえだした。あちらでもこちらでも、人を介さなくとも済むようになっている。課長がさらにうるさくなるのが嫌で、私は一階までおりた。正面玄関手前の右の、誰ひとりいない場所までたどり着くと、ワイシャツの胸ポケットから携帯電話を摘みあげた。

「いま隣のお部屋にいらっしゃるんで、大きな声では申せませんけど。『あそう。ほいほい』。おっしゃったのはそれだけでした」

「そのあとあなたに、人事を呼び出してくれとか、おっしゃいませんでしたか?」

「いいえ。ただ人事部長とは、もともと午前中にご面談のご予定が、入っていらっしゃいましたから、そのご必要もなかったかと……」

「なるほど。じゃあ、ほかに僕については?」

 秘書は返してこなかった。専務という男のことを考えた。謎かけが、タチの悪い冗談にすぎなかったように思われてきた。未練たらしく引きずるまいと、私は、頭のなかでうなだれているもう一人の自分の頬を張った。

「そうですか。いや、あなたには本当にお世話になりました。ありがとうございました」

「お待ちください。当社の終業までまだあと一時間ほどございますでしょ。あしたの夜はご自宅にいらっしゃいますか?」

 呟くような音量のまま、しかし早口に、そう言ってきた。

「いますけど。でもそのときにはもう、はっきりしちゃってるわけでしょ?」

「お電話してもよろしいですか?」

 理由を問うたが、そこでもまた、秘書は押し黙った。どれだけ訊こうとも無言でいた。私の採否の決定が、彼女の影響で変えられるとは、とうてい想われない。だが、何か用があるのでそう言ってきているということには、まちがいがない。ひょっとして惚れられたのかと、私は心中でのみ笑った。断る理由もなかったので、先のある言葉のみを短く送ってから、しずしずと通話を終えた。

 結果だけをさらっと報告し、田村課長の口を封じることにした。彼からも、翌日の夜に電話していいかを問われた。他の誰によりも世話になってきているわけで、断るのには無理があった。とはいえ、悲嘆を二回も口にせねばならなくなるような気がし、私は先が思いやられた。交換条件を付けたくなった。この日のうちにはその件に触れてこないでくれるよう、課長には求めておいた。

 午後六時頃、ぬうっと、大男の黒人が現れた。フランス人のキング氏である。手には何も持っていなかった。純白のスーツ姿にネクタイなしで、ピンク色のシャツの大きな襟を上着の外に出して着ている。両手首と首にはゴールドのアクセサリーを煌めかせている。日本でそんな格好をしているとすれば、チンピラヤクザたちしかいない。細かなウェーブのかかっている髪型までが、そういった輩と似たものだ。しかし、肌が黒いというだけのことで、彼らほどに悪人には見えないから不思議である。靴までが白で固められているのが見えた。それを認めた瞬間、専務秘書の面影が、私の頭の真ん中に落ちてきた。赤いものさえ見なければ忘れていられる。そう決めつけていた自分の浅はかさに、気づかされた。

 海外営業部員たちで縁取られた花道を、鳥類が歩くときのように首を前後に揺すりながら、キング氏は進んでいった。その先には、古びた卒塔婆にも似たみすぼらしい日本男児、大山部長が、メガネレンズまで見開いて立っていた。誰がどう見ても偽物とわかる大袈裟な笑顔を造り、キング氏の片手を両手で包み込んだ。誰がどう聞いてもメモされたカタカナのつらなりを棒読みしているとしか思えない英語で、歓迎の言葉を叫んだ。この夜の案内は任せてほしい、とも言った。借物競争で「黒人の大人」という紙を引き当ててしまった虚弱体質の少年。それを想わせる必死の形相で、黒い大男を我が課まで牽いてきた。外側が焦茶色で内側がピンク色の、まるでローストビーフでできたような右手が、部長の両手から放たれた。田村課長が右手で受けとめた。破裂音が起きたかと思うと、強烈なにおいが流れてきた。柑橘系のかおりであった。

 不在者の席の椅子が、キング氏にあてがわれた。二メートル近い大男である。それがそこに腰かけた姿は、三輪車に跨がっているゴリラそっくりに、その段の私には見えた。

 英語こそ流暢だが、田村課長は顎を引き、反り身になっている。虚勢を張りつつ言い訳をしているようにしか見えない。一方でキング氏は、課長のデスクの片側に両肘をつき、前かがみになっている。フランス語なまりのある英語を、低い声で、ぼそぼそと口にしている。私の目のなかで、彼の姿はゴリラから黒人の借金とりへと変貌を遂げた。

 その黒い顔が、いきなりで私に向けられた。それきりで動かなくなった。両目の下方に見えている白色、そのさらに下から、白々しい言葉が生まれてきた。

「じゃあ遠藤君、キングさんのこと頼むよ。あそれから領収書、忘れんようにな」

 とりあえずで、私はキング氏と握手を交わした。支度する時間が欲しいということを、田村課長に日本語で言った。握力を死なせると、大きな黒い手からも力が抜けた。私は席を起ち、ロッカールームへと歩みはじめた。

 エレベーターホールまでは、大山部長と田村課長も見送りにきた。

「適当なとこで、切りあげていいからな。でもお得意さんだってこと、忘れないでな」

 キング氏を右に、鉄扉が開くのを待っていると、課長の声が私の左耳へそうささやいた。まずはそちらへと首をねじった。

「そうおっしゃられても。具体的には……」

「電車の動いてる時間中には、帰れないと思っといてくれ」

 そう引き取ったのは、卒塔婆部長であった。

「きみはずるがしこいから、あんまり心配してないけど。行く先々で、時系列で、ちゃんと時間が打ち出されてる領収書、もらっとくこと。残業代は、それの最後のやつ見て、俺が付けるから、そのつもりでな」

「お話に従うと、最後の一枚は、タクシーのものっていうことになりますが」

「そのとおり。今回は認める。ただ、接待の費用もそうだが、領収書がないものには一円も払えん。歩くのにちょっとでも無理がある場合は、電車じゃなくクルマにしてくれ。酒も回ってきてるだろうから、最後のタクシーのやつは、くれぐれももらい忘れんようにな。ま、きみはちゃっかりしてるもんな」

 タイムカードの一件を、かなり根に持たれているのがわかった。それにより、心の片隅で寝かしつけてあった、大伴商事に採用されるのを願う気持が、もぞもぞと動きだした。私はまず、部長に了解の意思を伝えた。そのうえで、静かに目を閉じ、ゆっくりと首を前へと戻していった。内側では、正反対の動きをしていた。寝た子が寝姿を変えた。それだけで済んでいるようだった。安堵の溜息をへろへろと鼻から出した。吐ききったとき、ようやくのこと、エレベーターが口を開けた。

 連れていく先々は、あらかじめ決めてあった。その分野に詳しい雑誌も、念のためでビジネスバッグに入れてある。いずれの店もが六本木にある。それでいいかという確認から、私はキング氏との、差しでの話をはじめた。

〝まかせるよ.だけどだ.遊びにいくっていうのに,そんなふうに呼ばれちゃ白けるよ.マフセル,マーセル,マース.どれでもいいけど,そのどれかにしてくれないか〟

 三つ目の呼び名を、私は選ぶことにした。

〝きみの名はたしか,サンウィッチ・イインドウ,だよな?〟

 サンドイッチ・ウィンドウ、に聞える。いかにも提灯もちのような響きがある。私は、自分のことを「シンウチ」と呼ばせるべく、彼の発音を矯正した。そのことにより、沈んでいた気分を、少しだけ持ちあげられた。

 風景の流転によってもたらされる解放感には、人種によるちがいはなさそうだった。タクシーに乗ってからは会話が弾んだ。

〝なあマース.まさか今夜だけで次のパートナーを見つけるつもりじゃないだろうね?〟

〝もちろんさ.まだ目が慣れていないから,どの若い女もみんな美人に見えちまうよ.おれの前の妻は,日本人から見るとひどいブスだったんだってさ.だから今回は,日本人から見ても美しい女を,選ぼうと思ってるんだ〟

〝そうか.それならまず,日本人から見て美しい女がどういう女なのかを,知っておいたほうがいいんじゃないのか?〟

 私は暗に彼を唆そうとしていた。クラブかバーへ連れていければ、その時間のうちは気兼ねなく座っていられるからである。

〝いや,フランスでも日本の雑誌を買ってたから,だいたいの見当はついてる.それに,いくら美人でも踊れないような女なら,おれはすぐに飽きちまうだろうからな〟

 いまだ午後七時を過ぎていない、どこのディスコに入っても誰もいない。そう説き伏せ、まずは腹拵えしようと持ちかけることが、私にできるせめてもの抵抗であった。当て込んで食べずにきたのか、そちらの誘いには、黒人は素直に頷いた。

 六本木、俳優座のビルの前で、私は車を停めさせた。その一階に馴染みの店があるのだった。イギリスから輸入した中古の列車を、客席ごと内装に取り入れた店で、ローストビーフの旨さには定評がある。黒人の手からの連想によってそこを選んだわけではなかったが、皮肉な結果となった。

 前回は、寛子と来ている。そうであるのを思い出したときには、私はすでに同じ席を選んでしまっていた。昼に同じものを食べたことを相手には言い、自分のほうにはヒレステーキを注文した。黒人は訝しむでもなかった。

 黒い顔に目を預けつつ、低い声に耳を傾けつつ、私は寛子とのことを考えていた。大伴商事への転職が成らなかった場合には、もう一度じっくりと、酒など呑まずに話し合ってみよう。そう決めた。たとえ彼女を不幸にすることになろうとも構わないのだ、自分さえ好ければいいのだと、その時点では思っていた。前にいる男の話が先妻の悪口ばかりだったことに、影響を受けていたのかもしれない。

 水がわりにと、ビールをがぶ飲みしていたからであろう。食べ終って三十分もしないうちに、黒人は身体の左右を前後に揺さぶりだした。目の前で売られている物を親にせがむときの子供のように見えた。

〝なんだよシンウチ,若いくせに.四十二のおれがこんなにウキウキしてるっていうのに.ヘヘ.十月からの電子レンジの注文台数,増やしてやってもいいんだぜ.ヘヘ.そう言ったら乗れるかい? ヘーッヘッ〟

〝なあマース.仕事のことは今夜は持ち出さない約束だったんじゃないのか?〟

〝そうだったそうだった,悪かった.だけど早く連れてってくれよ.なんたって金曜の夜なんだぜ.ほらほら,きみも乗れよ〟

 自分の気持を押しつけてくる無神経さに、私は腹が立ってきた。おまえの会社の製品を買ってやっているのだからと、心のなかでは変わらずに思っていることが、丸見えだった。電車のあるうちに放り出してやれないものかと、私は頭を巡らせた。

〝あのさ.もしもの話だぜ.自分の父親が危篤状態でも,金曜の夜だったら,きみは無条件で乗れるのか?〟

〝ええっ? なんだってシンウチ.なんですぐに言わなかったんだよ?〟

〝きみを案内することも,仕事のうちだからさ.なあマース.きみはどうしたら満足する? 良さそうなディスコは三軒ある.そのなかできみの気に入った店が見つかったら,それで俺を自由にしてくれるか?〟

〝ああわかった.すまなかったシンウチ.だったらなおさら早くここからを出よう〟

 この我田引水野郎め、と私は思った。三十分単位で店を替え、最も好ましい一軒に戻る。その案を飲ませた。ちょっとした食後の散歩なのだと自分に言い聞かせ、気を取り直した。独り勘定場に向かった。

 一軒目へと歩くうちから、大男の黒人は全身でリズムを刻んでいた。

 二軒目では、かかっている音楽が気に入ったらしく、フロアの中央で派手な踊りを見せた。大男なので弥が上にも目立つ。三十代の頃のマイルス・デイヴィスと似ており、美男のほうである。日本人の男には相手にされないような顔立ちの女どもが、次から次へと吸い寄せられていった。

 入ってから三十分が過ぎた。ディスコである。大音が鳴り響いており、間近にいる人間と言葉を交わすにも、叫ばなければならない。渋々で、私もダンスフロアに踏み込んだ。

 音楽に浸りきっているらしく、黒人は顔を水浸しにし、目を閉じて泳いでいる。つつきでもしないことには、他者の存在に気づきそうもない。ボウフラのように揺れているだけの人間たちをよけつつ、私は進んでいった。

 大男を取り巻いている女たちの手前まで、どうにか辿り着いた。あと一歩ふみ出せば、彼に手が届きそうだった。それにしたところで、大声を出す必要はある。埃が充満した空気であろうとも、腹に吸い貯めておかないことには、虚しく溺れるだけに終ろう。私は意を決し、鼻腔を広げられるだけ広げた。その瞬間にも噎せた。強烈な臭気、憶えのある悪臭に、気道を塞がれたのだ。黒人のことごとくがワキガであるということを、そこでようやく思い出した。

 次いで私は愕然とさせられた。そんな場にあっても女たちが平然と呼吸をしていられる、揺れていられるという事実に、である。恍惚とした表情で白ずくめの黒い大男を見あげている者すらが、何人も認められる。それらの醜悪な顔には、ふさわしい空気なのかもしれなかった。だが、仮にそうであるとしても、それらの内側にあるもの、嗅覚までが劣っているとは想われない。くさいとは、感じているにちがいない。我慢できること。つまりは、どうでもいいこと、なのであろう。

 何者かのなにかが、手に触れてきた。それで、私は正気づいた。必要最低限の空気を口から取り込みながら、歩を進め、大男の腕を掴んだ。黒い顔のなかに白い丸が二つできた。その白のなかにある黒が、私に向けられた。腕時計はない。空いているほうの手で、同じ側にある耳を扇いで見せてやった。いかにも悔しそうに顔の半分を潰してから、大男は泳ぐのを中止した。プールサイドへと牽く私に身を任せた。

〝ここのDJは最高だっ.おれは女たちにモテモテだしっ.見ててわからなかったかっ? もう次の店はいいよっ.きょうはありがとうシンウチッ.また会おうぜっ〟

 やはり、ひどくにおう。握手を求められたのを幸い、無言のままで応じておいた。手の平も汗まみれであった。黒人がプールに飛び込んだのを見計らい、私はトイレへと急いだ。

 洗うまえに嗅いでみた。寛子の女の実が放つ悪臭にあるものと、同種の成分がとらえられた。納得している場合ではないと、私は慌ててコックを回し、手に石鹸の泡を起した。

 金曜の午後九時の地下鉄は混み合っていた。その熱気により、私は体温が上がっているのを感じた。ひょっとしたらと思いながら、右手を鼻先に持っていった。ディスコのトイレを出る際に確認したままに、悪臭は消えていた。

 心配事がなくなると、私は軽い退屈を覚えた。近くにいる女たちを漫然と眺めていると、ディスコでの一件が、頭に蘇ってきた。これらもまた、相手の男が好みのタイプであれば、それの放つ悪臭などおかまいなしに接近していくのか。そんなことを考えた。直後に、一人の女の顔が思い浮かんだ。寛子の母親、中谷夫人のそれであった。

 くさみに悩まされつづけたのもあり、前夫を邸から追い出した。そう言ってはいたが、ちゃっかりと、やることはやっていたわけだ。子供二人を成すために、二回のみに限って合体したはずはあるまい。求められるままに嫌々という夜もあるにはあったろうが、一ヵ月の日数分以上は、いや一年の日数分ぐらいは交わっていたにちがいない。そこからすれば、悪臭のことは、取って付けたような話といえる。婚姻関係が初期にあったうちには、それへのこだわりなどなかったことが、推察できる。どう考えようとも、私ほどに執着していなかったことは、確定的である。

 くさいのが女のほうであっても事情は同じなのではないかと、私は思った。

 レースクイーンが勤まるほどに、寛子の容姿は優れているわけである。それが自分のものになるのであれば他のことなんぞどうでもいいという男が、わんさといるに相違ない。性質も善い女である。その内面にこそ惚れたという男が、出てきてもおかしくはない。彼女が引き継ぐことになる財力。それをも当て込み、求婚する男もいよう。いずれにせよ、悪臭の件には目を瞑ることであろう。

 さらには、この夜の黒い大男の例もある。相手の男もくさければ、くさいもの同士というわけだ。その成分が同種と来れば、個体差によってオレンジジュースとレモンジュースほどのちがいはあるにせよ、毒をもって毒を制す結果にはなろう。悪臭を断つための手術、性的快感を損なう恐れのある手術を、受けさせられることもない。生来のままに、思う存分に、男女であることを楽しめるのだ。