しかし、帰りの車中で、私の考えは再び揺らぎはじめた。より安易な、より単純な方向へと進みだした。すでに午後十一時半を回っており、まわりは酔客ばかりになっている。そのせいでもあったのだろう。悩んでいることが、ひどく馬鹿らしく思われたのだった。

 自分は、大伴商事を気に入っているわけではないのだ。要は、より軽い労働でより高い賃金を得たいだけだ。カネさえ自由になるのなら、社会的な立場など、どうだっていい。

 であれば、労せずともそうなれる方法があるではないか。はるかに楽をできる、よほど厚遇される世界が、用意されているではないか。またそちらになら、こちらで採用条件を出せるのである。

 容貌や性格にも問題があるわけではない。むしろ好ましい。思考能力は低そうだが、機動力はあるほうだ。難点は、ただ一つしか思い当らない。それすらも、改善が可能なことである。

 スソガの手術を受けさせたうえで、中谷寛子を、妻として採用してしまえばいいのだ。もともとがオルガスムスを得たことのない女なのである。それを味わえないままに生を終えたところで、何の損失もないわけだ。一方でこちらは、くさみがうつるのを心配しなくても済むようになる。快感が損なわれることもない。相手の悦び具合を確認する手間も省けるわけで、かえって気楽に、強姦魔のように発射できる。孕ませてやりさえすれば、御役御免の身の上にもなれよう。

 それまでのあいだ、あるいはそれ以降、ときとして、極限まで悦ばない女に退屈を覚えることも、あるにちがいない。だが、その時分には、そんな不満をカネが補ってくれるだろう。寛子の祖父がそうしたように、2号や3号も作れるのだ。その母その妹をも含め、ほかの女に種を付けさえしなければ、寛子は見て見ぬふりをすることであろう。なんとすばらしき世界だろう。それ以上に望ましい世界が、果してこの世にあるだろうか……

 我ながらおぞましい考えであった。ストレスが溜っているのを、私は自覚した。酒で解消できる類のものではないということも、想われた。大伴商事の試験のことで、無意識のうちにも自制が働いていたらしい。男の液も溜っているということに、そこで気づいた。専務秘書の女の容貌も、脳裏には浮かんでいた。しめたと、私は思った。彼女の映像を、別の女の猥褻な写真に重ね、男の芯を撫でさすってやろう。そう決めると、私の心身は覿面に元気をとりもどすのだった。自分のその現金さ加減を、鼻で笑えるようにもなれた。

 

          五十二

 

 会社に限らず、組織においては、より上位にある者が、より大きな権力をもっている。私が面会した大伴商事の人間では、それは専務ということになる。その人物に嫌われてしまっているようだと、私から聞かされたためであろうか。

「遠藤君、これプレゼント。あしたもまた、あげるからね」

 田村課長が、そう言って封筒を手渡してきた。当然のこと、私は疑問を投げかけた。

「見ればわかるさ。でも気にしなくっていいからな。女房がやってくれてるんだから」

 手の空いた折にトイレの個室で開けてみると、それは採用情報の切抜きなのであった。いずれもが、私に見合ったものであるらしく、整然と便箋に貼り付けられている。採取元と日付が、一つ一つの下にカッコ付きで、丁寧な文字で記されている。私が課長に相談したのは前日の深夜だったというのに、どこでどう入手してきたのか、前日発行の就職情報誌のものまである。家族ぐるみでの応援に、私は胸が熱くなった。堪える間もなく、涙が零れた。

 感情の揺れが治まってから、個々の情報を細かく見だした。給与面がはっきりしているものは一つもなかった。ばかりか、通勤時間が余計にかかるようになる会社のものが、ほとんどなのだった。得られるものは不確かな一方、失わされるものは確かなわけである。早々に、私はがっかりさせられた。

 そんな情報をいくらもらっても仕方がない。といって、せっかくの厚意を無下にすれば、何か天罰が下りそうである。彼の細君に「神通力」といったものがあるようなのは、雑談の折などに、課長からさんざん聞かされてきている。正当な理由がないうちには、断れそうもない。彼よりも早くに辞職しろという圧迫を、さらに強められた気がした。頬を濡らしてまで感激したことも忘れ、私は腹立ちを覚えた。ちょうどそのときである。個室を仕切っている壁、いやパネル板の一方を、コツコツと叩く音が起きた。

「もしもしおとなりのかた。申し訳ないんですが、ペーパーの予備、上から渡してもらえませんか? こっちのは切れてたんです」

 またか、と私は思った。事に臨むまえに設備を確認することのできない慌て者というのはどこにでもいるものなのだな、と次には考えた。ともあれ、この回の相手は、言いざまには横柄さがない。声が若いことからすれば、この春の新入社員かもしれない。先輩社員から仕事の手ほどきを受けている最中に便意を催し、堪えに堪えたうえで突入した。ひり出したはいいが。ということは、考えうることである。私は同情の念を催した。しかし、だからといって、そこまでにあった腹立たしさが消されたわけではなかった。よからぬ心が、瞬時のうちにもパンパンに膨らんだ。

「おいきさま。そんなふうじゃとっても出世なんかできんぞ」

 ことさらに低い声を出し、偉ぶってやった。

「はっ。以後注意いたします」

「まったく。俺を誰だと思ってやがるんだ。あとで会ったら腰ぬかすぞ。バスケットボールみたいに上から投げ込んでやるから、そっちで勝手に受け取れ。いいな」

「ええっ? そんな殺生なっ。あのボク下痢してるんですっ」

 気の毒に思う気持のほうが強くなった。こちらは用を足すために入ったわけではない。すぐにでも出られる。手を洗わずにこの施設から逃れてしまえば、誰であったのかを知られることもない。

「そうかい。それじゃあ今日のところは穏便に済ませてやる。でもこれからはきちんと、チェックしてから出すんだな。いいかおい」

「ありがとうございます。ご恩は忘れません」

 そのやりとりのあと、包装紙が付いたままのロールを、天井下三十センチほどの、パネル板の及んでいない隙間から突き出してやった。剥くのにも時間がかかろう。通常の足どりで、私はトイレを後にした。

 情報の礼を言われてますます気を良くしたのか、大山部長が退社して三十分もすると、田村課長は私に帰宅をうながしだすのだった。

「だから。こっちは俺に任せとけって。自分の仕事は終ってんだろ? こそっと帰っちゃえよ。俺がきみに引き継がなきゃいけないことなんて、実のところ何もないんだし。きみには別に、やるべきことがあるじゃないか」

 囁いてくる間隔が次第に短くなり、うるさくなってきた。圧迫に耐えられなくなり、私は退社を余儀なくされた。

 大伴商事の専務にかけられた謎が、私には依然として解けないのであった。

 悩ましい問題を抱えているときほど、注意を要する手作業をしていたほうが、気は紛れる。しかるに、労賃をもらえるそれ、残業は、取り上げられてしまったのである。

 私は賭事を好まない。宝くじの類も買ったためしがない。僥倖に恵まれることもあるのだろうが、その確率があまりに低すぎるからだ。わけても機械相手のそれには、嫌悪しか覚えない。そんなものに向き合わねばならないほど退屈しているのであれば、繁華な通りをぶらついていたほうが、よほどマシだと考えている。犬も歩けば棒に当たる、のである。偶然の幸運にありつける確率については、賭事でのそれと大差ないであろう。だが、一円の金も使わない分、犬のほうが賢いように思える。ましてや私は人間であり、歩くことで見聞を広めることもできる。言葉も操れる。好みの女体を仕留めるぐらいの幸運であれば、自力だけで手繰り寄せられるかもしれない。最低でも、考えに耽ることはできよう。

 常ならばそういう人間であるというのに、会社から駅へと向かう途中で、私はパチンコ屋の一軒に入ってしまっていた。散策によって得られるのが確実なこと、あれこれと頭を巡らせることこそが、我慢ならなかったのだ。そんな私に、銀玉たちは思いのほかやさしかった。それらの行方を目で追うことに、夢中にさせてくれた。

 結果は無残なものとなった。たった一時間ほどで、大枚まで巻きあげられてしまっていた。銀玉は、とんでもない八方美人なのであった。自分のために金を払ってくれる誰に対してでも、同じ笑顔を煌めかせているにすぎないのだった。あとがないのを見て取るや、冷やかな笑みを浮かべながら闇に隠れてしまい、別れを惜しむことさえしなかった。そんな薄情なものに慰安を見出していた自分の愚かさを恥じ、私はうなだれて店を出た。

 心を傾けられることがなくなると、謎がまた、早速で私を追いかけてきた。それでも、家に辿り着くまでは、周囲を観察することにより、まだ逃れられていた。その後にも、なんやかやで身体のどこかを動かさねばならなかったうちには、どうにか追手を躱せていた。眠るだけになったとき、とうとう追い詰められた。

 考えは堂堂巡をするばかり、私は煩悶するばかりであった。苦痛を和らげてやろうとする脳の計らいなのであろうか。それとも、私に限った反応なのであろうか。精神的に辛いときには、心が身体の下方へ向かっていく。おあずけを食らわされている雄犬ほどに露骨なものではないにせよ、男の芯が存在を誇示しだす。すなわち私は、前夜に同じく、自分で自分をかわいがるのだった。盛りのついている高校生さながらで、この夜には一回では済まされなかった。

 金曜になった。人事部長の言った「週末」というのが翌日、土曜を指していたとしても、謎解きを試みられるのは、この日が最後である。夜の時間は、取引先の異国人につきあう予定になっている。よしんば解けなくとも、前二夜のような事態にはなるまい。そんなことをつらつらと考えながら、自分を悦ばせすぎて弱まっている足腰で朝の通勤電車に揺られていると、私に一つの閃きがもたらされた。

 大伴商事もそうしていたぐらいで、偽名を使っての電話を禁じている法は、なさそうである。仮にあるとしても、大伴商事に咎められる筋合はない。婦人服屋を装って専務秘書に架けてみようと、私は考えたのであった。彼女は、パンプスまでを赤で統一してたほどの洒落者である。着想に無理はないように思われた。

 第三者が出てきた場合のことを考えると、携帯電話を用いるのは適当ではない気がした。定時五分前、出社直後に課長を会議室に連れ込み、そこにある機器を使うことの承諾を取った。秘書の朝は多忙を極めるはずである。捕まえられなくなる恐れもある。そんな彼からの助言もあり、私はその場で架けた。

 代表番号しかわからない。手帳を自宅に忘れてきてしまったと、さらなる嘘を重ね、総合受付から取り次いでもらうことにした。

「すいません。実は僕、役員面接のときにお会いした遠藤です。遠藤真一です」

「まあ。お電話くださったということは、ウチの人事からのご連絡が、あったってことですね?」

「いや、そうじゃないんです。あなたからご連絡いただけないもんでつい。ご迷惑かとは思いましたが。専務さん、あれからなにか、僕のことはおっしゃられませんでしたか?」

「おっしゃられていればもちろん、お電話いたしましたわ。特にお変りなこともございませんでしたしね。あの夜とのちがいはといえば……。この階、専務室のある階の、男性トイレが直ったことぐらいですかね。一時間ごとに下まで降りなくてよくなったって、ヤマガタ専務、たいそうお喜びでしたから」

「そうですか。……残念ですけど、それじゃどうも。……あなたとはもう、お会いできそうにありませんね」

 憐れみを買おうとするつもりはなかった。

「ダメですよそんなことでは。最後の最後まで諦めてはいけません。ね。わたくしへの直通番号をお教えしておきますから、夕方にでもまたお架けになってみてください。それまでにはそれとなく、探っておいてさしあげますから。ね。書くものお持ちですか?」

 ボールペンはあったが、書き付けるもののほうがなかった。そのことを返そうとするうちにも、秘書は番号を言いはじめた。仕方なく、私はそれを、左の手の平に記しておいた。

「きっと大丈夫ですって。昨晩おみえになったかたは、当社のカラーとはぜんぜん合いそうもないかたでしたし」

 両者とも不採用ということも考えられるではないか。そう返してやろうかと吸気をためたが、励まされるだけで終りそうに思われた。圧迫されるのはもう沢山なのであった。私は話を変えることにした。

「でもあれですねえ。専務さんて、そんなにトイレのお近いかたなんですか? 一時間ごとに行かれるなんて」

「いいええ。この火曜までタイにご出張だったんですけど、生水に当たられたらしいんです。わたくしにも経験がございますけど、食あたりよりも長引くんですよね。あらあら。朝から汚らしいお話をしてしまってごめんなさい。とにかく遠藤さま、ご自分からお諦めになってしまってはいけませんよ。ね。ファイトですよファイト」

 うるさくなり、夕方にもう一度かけるのを約束し、私は電話を切った。

「よおよお。どうだったどうだった?」

 そちらは、電話機を元に戻せば済むというほど、単純にはいかない。つづきは私がトイレに行ってから、お互いの仕事道具を持ってきたうえでにしよう。そう言い、一旦は田村課長からも離れることにした。なんだかうんざりさせられた。

 始業時間直後だったためか、トイレには誰もいなかった。小用を足しながら、私はふと、大伴商事での役員面接のあった晩のことを思い出した。あのときのように、空いていたはずの個室が塞がっているのではないか。そんな思いから、首をうしろへ捻ってみた。三つとも空いたままになっている。前日にそこであった小事件をも思い出し、鼻で笑いながら首を前に戻した。そのときだ。頭のなかに点在していたものが、にわかに輪を形づくった。まさかと、私は首を傾げてみた。しかし、その考えに従えば、手によって自分が嫌われた理由にも、説明が着くのである。

 いい加減に雫を振り落すと、私は手を洗わずにトイレから出た。間が惜しいのもあったが、左手に書きつけてある番号が消えるのを恐れたためであった。

「おおありえる。ありえるなそれ、遠藤君。声はどうだ? 似てないか?」

「ああいう場所なんで、はっきりしませんね」

「違ってたら違ってたでいいじゃないか。その秘書に、遠回しに伝言を頼んどけよ。な」

 ここでも私は、課長の勧めに応じた。

「あらまあ遠藤さま。おあいにくさまで専務、まだおみえになってませんのよ。いらっしゃるのは、だいたい十時半ごろからなんです。あせられるお気もちはわかりますけど」

「いや、あなたに伝言をお願いしたいんです。それを聞かれたときの専務さんのご様子を、夕方に教えてください。よろしいですか?」

「んええ。ちょっとお待ちください。メモを」

「書くまでもないようなことです。言いますよ。手がゴツゴツした遠藤が、トイレではたいへん失礼いたしましたって。そう言っていたとお伝えください」

 電話を切り上げると、課長に肩を叩かれた。早くも祝福の言葉を、雨霰と浴びせてきた。

「だって絶対にそのことだからだよ。……たしかにくだらないことではあるけど、何でも自分の思いどおりになってる人間には、ありがちなことじゃないか。うちの部長だってそうなんだぜ。いつだったか、二人で喫茶店に入ったときのことなんだけど。俺が自分のタバコに火を着けて顔を上げると、部長がタバコを咥えてじっとしてるんだ。先に着けてもらえるのを期待してたらしくて。それまではニコニコしてたのに、いきなりムスッとしだしてな。大昔のことまで穿りだしてきて、イジメるわイジメるわ。……そういうちょっとしたことで、プライドを傷つけられたって思うみたいなんだよ、あの連中は」

 それかどうかは、まだ決まったわけでない。にもかかわらず、その午前、課長は何度となく似たような話を吹きかけてきた。安心させてやろうという善意からそうしているのはわかったが、私には煩わしくてならなかった。

 前祝に昼食をおごるのを言ってくれたが、昼休みにまで大伴商事の件を持ち出されてはかなわないと思い、やらねばならないことがあるのを言い、私は遠慮した。辻褄を合わせるためで、ファストフードを買いに行った。その必要もないというのに、デスクで独り、外の景色を眺めながら食べはじめた。