腹からの声を出さなければ他者には届かないということが、いざ話してみてわかった。

「ずいぶんと念入りにやるんですねえっ」

 私を除く全員が、目を、丸くしたうえで細めた。寛子が、近寄ってきて肩を叩いた。忍者のそれのようになっている頭部を迫らせた。

「ご存知ないんで、仕方ないですけど。ここからは、話したいときには、まず左手を肩の高さに上げることに、なってるんです。相手が気づいてから、こうして近づいていって、話すことになってるんです」

「あそう。なんかめんどくさいな。あれ? トガシさんが、顔の横で、両手を結んだり開いたりしてるぞ。なんか意味があるのか?」

 寛子も顔を彼に向けたが、すぐに戻した。

「あれは、手洗いの合図なんです。現場に入るまでは、わたしが真一さんに、解説していきます。さあ行きましょ」

 寄宿舎の洗面所のような、横に長い洗い場へと導かれた。蛇口は三つある。私と寛子が二番手に回った。前で石鹸に泡が起されると、マスクごしにでもわかるほどの、強烈な薬くささが流れてきた。

「これ、殺菌剤が入ってるんですよ」

 寛子がそう言ってきた。彼女の病気、ワキガに感染するのを恐れた妹が、電話で言ってきた言葉を思い出した。まるで他人事のように言っている寛子に、私は笑いを催してしまった。答える言葉を噛み殺すことで、堪えた。口の表情が隠せるマスクを、ありがたく思った。タオルは、共用のものが二つ、近くに吊されていた。何かしら矛盾を感じた。

 三人組のあとを追った。スキーのゴーグルにも似たものを手渡された。訝っているうちにも、寛子の声が、片方の耳の近くで起きた。

「これも殺菌してあるんです。つけかたは、言わなくてもわかるでしょ?」

「何のために、こんなもんまで着けるんだ?」

 訊きはしたが、私は素直に装着した。終えたのとほぼ同時に、寛子が返してきた。

「まゆ毛やまつ毛が、落ちるかもしれないからです。きっと大丈夫、っていうのを、絶対に大丈夫、にするためのことなんです。この先に、ちょっとした関門みたいなのがありますけど、そこではきっと、これを付けてることに感謝しますよ。フフフ」

 三人組の一人、夫人が近づいてきた。左手を上げてから、私の頭に頭を寄せてきた。

「この先に当社自慢の機器があるんですのよ。でも遠藤さんの会社の工場にも、あるものかもしれませんわね」

 その機器が何であるのかは、夫人の言葉からは掴めなかった。知ったところでどうなるものでもない。もはや逃げ出せないのである。女二人に左右から、言葉だけで押し出されたかのように、私は進みだした。自分が、無力な家畜に成り下がっているように思われた。

 それは、飛行場の検査所にある、危険物を忍ばせていないかを調べるゲートにも似たものであった。一人ずつで、入らねばならない式になっている。前後左右上下を外部と遮断されることからすれば、電話ボックスにも譬えられよう。「エアーシャワー」と呼ばれるもので、目を開けているのも困難なほどの強風を、上から下、その逆、右から左、その逆と、浴びせかけてくる機器である。そうすることにより、衣服に付着している、肉眼ではとらえられないチリなどを、吹き飛ばしてしまえるという。

 自社工場にはないものだ。しかし、私には、その箱に入った経験があった。精密機械を扱っている子会社の工場を見学にいった折に、なのであった。こちらでは蒲鉾、火にもかけられるような食品を、扱っているにすぎない。なぜにそこまでと思いながらも、私は、トガシからの身ぶり語に従い、ヒラヤマに続いた。

 全員がゲート風の施設を通過し終えると、ヒラヤマが、ガラス張りのクローゼットとでも言えそうな、扁平な箱に近づいていった。ドアを引こうとして、やめた。ドアの上に付いているランプを、見上げているようであった。そのでっぱりは、青い光を灯している。

「あれは、殺菌室になってるんです」

 動くのを再開したヒラヤマを眺めていると、いきなりで寛子の声が聞えてきた。驚愕した。そういう気配すら感知できなくなっている自分の器官にも、私は不安を覚えた。もやもやした気持を吹き飛ばしたくなった。

「なんだよいきなりっ。びっくりするじゃないかっ」

「ごめんなさい。でもそんなに怒らなくったって。いまあそこから、前掛けと手袋を出してるんです。それをつけたら、準備完了です」

「なんだと? このうえに、まだ何か着けるっていうのか?」

「ほんと気が短いんですねえ。あのランプが赤だったら、どれだけか待たされるところだったんですよ。あほらヒラヤマさんが」

 私に手渡された二点は、寛子のそれらよりも一回り大きく見えた。サイズが違うのが、着けてから判明した。

 前掛けは、首に掛ける部分と結ぶ部分のほかがゴムでできており、ゴム長の上半分を覆うほどに長かった。手袋は、薄手ではあるものの、やはりゴム製で、肘の手前までを覆うようになっている。ピッタリしているのが手首から先だけであることに、私はやや救われた気がした。過剰とも思われる管理体制、あまりの重装備で、肉体的にだけではなく気分的にも、窒息寸前になっていた。

 いよいよで「現場」に入ることとなった。出入口には、音楽スタジオのもののような、外部からの一切を遮断できそうな金属性のドアが、取り付けられていた。それを見てしまったことで、私の疲労はさらに募った。

 更衣室に至るまでと同じ並びかたで、生産ラインを進んでいった。

 手作業で魚を調理している一画は、割烹料理店の板場と大差なく見えた。ただそれは、その場所についてのみ、の感想である。宇宙服のようなものを着た、性別の判然としない

人間たちが、機械的に無愛想に、手だけを動かしている。場所のほかは、すべてが異様であった。不気味に思いながら、私は眺めていた。トガシが振り返り、左手を肩に並べた。

「ごらんのとおり、みんな素手でしょ。さすがにここだけは、手袋つけてでは、効率が落ちますんでね。……包丁で指でも切ったら、直後から休まされることになって、治るまでの賃金まで、切られるんでね。ハハ。みんな真剣なんです。ここのスタッフは、ほかでよりもいい給料が取れるんでね。なり手はいくらでもいるんです。私が命じなくっても、私語厳禁になっとりますよ。ハハハハ。……まあ、市から助成金が出てることもあって、母子家庭の母ちゃんたちを、優先的に就かせとりますがね。……ま、こんな具合です。じゃ、次へ行きましょ」

 形態こそ異なるものとして認識されたが、採肉機も水晒しタンクも脱水機も、裏ごし機もサイレントカッターも成型機も、どれもこれもが気味の悪い鉄の塊にしか、私には思われなかった。

 それらにも勝る不気味な存在が、私の心をとらえていたからだ。それぞれの機械を受け持っている人間たち、なのである。

 表情をうかがえるのが目だけだというのに、ちらりとも、首から上を我々には向けようとしない。刃物を操るほどの緊張感もないはずなのに、である。彼らの横で稼働している機械にも増して、無機質なものを感じさせられた。扱っているものは、魚のものとはいえ、いずれもが屍肉である。その事実が、彼らの人間らしからぬ佇まいに、一層の凄みを加えていた。噎せ反るような生ぐささにより、血の海を泳がされているような想いが、私にはあった。

 機械ほどにも形態の違いを認められない彼らを見るごと、私は吐き気を催すようになっていった。説明への相槌の回数を減らすことで、腹から昇ってくる黄色い唾液をなんとか、奥歯で堰きとめていた。

 トガシが足を止め、振り返った。左手を肩に並べ、自信に満ちた目を私に向けてきた。またしても別の機械のくだくだしい説明を始められるのかと、私はうんざりした。興味がないということを示すべく、目を逸らしてやろうか。そう考えているうちにも、トガシは頭部を近づけてきた。それまでとは異なり、幾本かの深い筋を、両目の外側に刻んでいる。

「お疲れさまでした。こっからはぐっと楽になりますよ。まっすぐに歩くだけですんでね。ちょっと蒸し暑くはなりますけどね」

 ドラム缶を縦に半分に切り、丸みのあるほうを上にして縦に繋げたような、長々とした蒲鉾形の金属製の管。そんなものが、我々の横手には寝そべっていた。そのなかでは、ベルトコンベヤーが動いている。板への盛り付けが済んだ粘液質のものを、次々に運んでいる。そういう説明を、成型機の所で聴かされていた。

 会議室での講義によれば、次の工程は加熱である。蒲鉾の場合には蒸す、とのことであった。機械から漏れ出る蒸気でむんむんしているのを想いつつ、私は背を向けたトガシに従った。透明の壁で覆われている、しかしドアや戸はない別区画へと、入っていくこととなった。

 すぐに熱の襲来を感じた。それまでに見たものとは比較にならないほどの、大形な機械が見えた。だが、私の目がそれに興味を覚えたのは、ほんの一瞬にすぎなかった。単なる倉庫だと思って入った所が、実は飛行機の格納庫であった。そんな単純な驚きでしかなかった。

 目から脳へと退屈さが広がりはじめた。そこでふと、温度や湿度の変化のほかを、私は知覚した。においである。

 魚の生ぐささは薄らいでいた。代りに、それとは別種の、しかし同様に深く記憶に刻み込まれているにおい。どこか懐かしさを覚えるにおい。くさいほうの「臭い」ではなく、香と呼ぶにふさわしいほうの「匂い」を、嗅ぎとったのだ。何と似たにおいなのかは、なかなか割り出せなかった。いや、割り出せてはいるようであったが、言語化できないのだった。甘い膜のようなもので、記憶中枢と言語中枢とを遮られている。もどかしかった。トガシの説明に生返事を繰り返しながら、私はその膜を除去することに躍起になっていた。

 ぼんやりしていたためであろう。寛子のものだったのか夫人のものだったのか、女の胸にしかない柔らかな瘤起で、私は背中を押された。出来事そのものには、何も思わなかった。だが、その接触により、背中の皮膚が勝手に引きつっているのを、私は自覚した。次の瞬間には、頭のなかの膜が消滅していることにも、気づいた。何と似たにおいであるのかが、言葉になっていた。熟れた女の実が滲ませる、液というか汁というか露というか。あの水分、いわゆる「愛液」の、あの爛れたような匂いと、そっくりなのであった。

 それが判明したことにより、私は連想の渦に引きずり込まれてしまった。蒲鉾。蒲というのはわからないが、鉾というのは槍のことだ。槍を持っているのは男のほうだ。それが形づくられる過程、男の芯を槍ほどにも先鋭にする過程で、女の実の湿った匂いが必要となるのも、しごく当り前である……

「加熱装置については以上です。この先には、冷却装置と、真空包装装置があります」

 冷やされると、男の槍は白い塊に変わる。なぜだ。放たれるのが、槍そのものではなく、白い粘液だからだ。つまり、蒲鉾とは、男の液を固めたもの、だったのか……

「ほら。そっからあそこ、透明の壁の向こうまで、またトンネルが続いてるでしょ? ですがね、あの部屋は専任者以外、立入禁止になっとるんです。あれ? 遠藤さま?」

 名前を呼ばれたことで、ようやく口を動かせるようになった。

「ご気分でもお悪いんですか? まあじきに終りますから、もうちょっと辛抱してください。……病院にもありますけど、無菌室ってご存知ですか?」

「あ、ええ。入ったことはありませんが」

「それと同じ環境になっとるんです、あっちの部屋は。他の場所より気圧を高くしてあります。それでもって部屋の空気を、一時間に二三十回、循環させとります。空気の吸い口と出し口には、除菌フィルターも付けられてましてね。その設備で99・9パーセント、無菌化できとるんです。器具や包装紙にも、万全を尽してあります。ですんで、残るは人間の問題なだけなわけです。決められた人間以外を入らせなければ、それも解決できます。幸い、これまで一度もトラブルは起きてません。ほかよりも体調管理がやかましい分、あのなかにいる連中も高給とりでしてね。……でもまあせっかくですし。外からちょっと、覗いてみましょうか? ね」

 もはや私はどうでもよくなっていた。機械人間たちを見つづけた吐き気と、妄想によるそれとで、一刻でも早く生産ラインから逃れたいという思いでいっぱいだった。透明な壁まで行き着いたところで、夫人に助けを求めた。トイレを我慢するのが限界なのを言った。

 ふたたびの更衣室では、脱ぎ散らかすのを許された。教えられた場所へと、私は脇目もふらずに突き進んでいった。無論のこと、正当な用などなかった。個室のほうに駆け込むや、タバコに火を着けた。紫と白、二種の煙での、全身の燻蒸をもくろんでいた。

 息苦しさを覚えるようになってから、もののついでで、小用を足すことにした。和式便器の喉元に狙いを定めるのは、なかなかにむずかしい。前の壁に寛子のグラビアが貼られていることに気づいたのは、迸りが滴りにまで、なってからであった。手にしているものが、私の目を、二つのUの字から一つのVの字へと、引きおろした。蒲鉾でさえ出せるあの匂いを、蒲鉾屋のあととり娘が出せないでいる。紺屋の白袴と同じではないか。そんなことを思い、状況もわきまえずに笑ってしまった。腹の揺れで的が狂い、便器の外に零してしまった。本来なら、グラビアの股間に鼻糞の一つも塗りつけてやるところだ。その気持を抑えてやったのだから、文句はあるまい。そう考えつつ、私は前を閉じた。水を流すことさえせず、個室を出てしまった。トイレからも飛び出た。

 経過時間を考え、じかに工場長室へと向かった。案の定、全員がそこで待機していた。

「さあ遠藤さん。次へ参りましょう。予定よりもかなり時間が過ぎちゃってるんです」

 じたばたと全身を揺らしながら、夫人がそう言ってきた。この部屋までの通路を歩いていた間に、私の頭には一つの考えが固まっていた。それを言ってしまおうかとも思った。だが、社長としての夫人の立場を慮り、ここにおいては、ただうなずくだけに留めた。

 

          三十九

 

 第三工場の表玄関へと歩いているうちにも、濃緑色のジャガーが見えてきた。陽の加減によるのか、どことなく艶のない色をしている。待ちくたびれているように、私にはとらえられた。

 地肌が覗いている二つの顱頂に見送られ、我々三人は車に乗り込んだ。私の隣席には、このときにも変わらず、夫人が就いた。

「さあ急ぎましょう。ねえセキグッちゃん。第二には、連絡しといてくれたでしょうね?」

「もちろんです。でももう……二十分も遅れてますからね。もう一回電話しときましょう」

「いいわ。ちょっと停まってて」

 次いで夫人は、私に顔を向けた。私の側の窓を開けてほしいと、頼んできた。外にいる二人のいずれにともなく、第二工場に連絡を入れておくようにと、命じた。直接に鼓膜を刺激されたからであろうか。そこでそのことを耳にしてから、気づいたように、私は慌てた。のそのそとだが、車も動きだしている。門を出てしまってからでは遅いのを思った。猿の鳴き声にも似た奇声を、私は発していた。トイレから工場長室へと向かっていくなかで固まった考え、一旦は喉までで押えつけた考えを、吐露してしまった。

「どうされたんですかいきなりっ?」

「だからっ。もういいですよっ。わかりましたからっ。それに僕は工場見学に来たわけじゃありませんっ」

 夫人は噤んだ。私も続けなかった。進路を見失ったように、車も停まっていた。次の声は、やや間をおいて、右前方から生まれた。

「せっかくのお休みなんですもんね。ママも一方的すぎよ。こんなことだと真一さん、もう二度と、銚子には来てくださらなくなるかもしれないわ。あのカッコさせられるときには、娘のわたしだって、いつもうんざりさせられるもの。……ママの仕事への熱意は、わたしにもよくわかるわ。ほかならぬ真一さんに、蒲鉾のことをより深く知っていただきたいっていう、造り手としての情熱も。でもねえ……。ねえ真一さん。わたしからおねがいがあります」

 寛子は上体を捻り、後部座席に顔を向けてきた。彼女がそうしていることを意識するだけで、私は顔も目も向けずにおいた。返しもしなかった。安易に言葉を発すれば、夫人のほうでも口を開ける。二人がかりで丸め込もうとしてくるように、想われたからである。

「真一さんのお気持もわかります。でも、母の気持も、くんでやっていただきたいんです。いかがでしょう? あと二つ回るっていうのは、やめてもらいますから、どちらか一つの工場に行くってことで、折れていただけないでしょうか? いかがでしょう?」