それから十分ほどが過ぎたであろうか。氷の浮かんでいる黒い飲みもの二つを丸い盆に載せ、百合子が姿を現した。去っていったときの顔が仮面ででもあったかのように、ニコニコしている。気分の変りやすい女だ。先刻とはちがい、この時点では、私の提案したことに賛同してくれているものと想われた。その心を、確たるものにしたい。彼女を喜ばせることから、私は始めることにした。

「なんだなんだ。やればできるんじゃないか、きみだって。寛子が運んでくるとこしか、見たことなかったけど、さすがに妹だ。きみもなかなか素敵だぞ」

「そおお? 見なおしたあ?」

「まあ。ちゃんと俺の前に置けたらな」

 何かにけつまずきでもしないかぎりは、できて当然のことである。私はそのあとには何も言い足さずにおいた。百合子は、何か返してくるでもなかった。ばかりか、さらにも目を細めているように、見受けられた。私は気味が悪くなった。ちょうど口が乾いていたこともあり、前に置かれたばかりのタンブラーにさっそくで手をかけた。コーヒーの香がした。アイスコーヒーなのを信じ、味をたしかめもせずに流し込んだ。舌と喉、続いて食道がひりついた。

「グエッ。なんだこりゃっ? なに混ぜたんだっ? 酒かっ?」

「やっぱバレたかあ。ヘヘ。ウォッカだよ」

「そっちのにも入ってるのか?」

 百合子は笑顔を縦に動かした。

「まったく。それでも実の妹かね。ねえさんが手術して、大変だっていうのに。しかもまだ……昼前じゃないか。どういう神経してるんだよ?」

「いいじゃないのよお。かたいこと言わなくったってえ。きょうはヒロぽんを、お風呂に入れなくってもよくなったんだし。いま飲むんなら、真ちゃんだって、帰るころには抜けてるだろうし。それにヒロぽん、薬が効いてるうちは、三時間ぐらいは起きないんだよお」

「そうなのか? ……でも。……いや、やっぱりこんな時間から、酒を呑む気になんかなれない。それに、なんだってコーヒーになんか混ぜたんだよ? 酒なら酒だけのほうがいいのに。コーヒーとアルコールを一緒に飲むと、かえって目が冴えちゃうんだぞ」

「知ってるよそんなことお。そんだからいいんじゃんか」

「イヤだ。俺のはコーヒーだけのにしてくれ」

「こっちこそヤだ。一緒に飲んでくれないと」

 そこで百合子は、なぜか目を輝かせた。自分のタンブラーを掴みあげ、私のそれへと近づけてきた。

「ほらっ。カンパーイッ」

 ガラスとガラスをかち合わせることまではしなかったが、その言葉を自分への号令にでもするかのように、中身の半分ほどを、ぐびぐびと、立ったままで流し込んでしまった。

「カーッ。効くねえこりゃあっ」

「バカ。中年オヤジが生ビール呑んだあとみたいなこと言うな。行儀が悪すぎるぞ」

「ねえねえ。真ちゃんもさっさともう一口、飲んじゃってよお。親しき仲にも礼儀あり。つきあいってもんがあるでしょうが、つきあいってもんがあ。じゃないとあたしが、そこにある真ちゃんのぶんも飲んじゃうよお」

 ウォッカは、かなりの量が混ぜられているようである。タンブラーは、標準的なものよりも大きい。小ジョッキ、と同じほどに入れられそうだ。その二杯分をあおらせることになれば、さして酒に強いわけでもない百合子は、すぐにも酔ってしまうにちがいない。やむをえずで私は、指示されたほどのこげ茶色の溶液を、口中にふくんだ。ひどくまずかったが、我慢して呑みくだした。

「やったあっ。これでもうオッケーだあっ」

 百合子は、ガラステーブルにコップを置くと、私の隣に膝をついた。つづいて、横座りし、寄りかかってきた。彼女が何を画策しているのかは、ぼんやりとなら、私にも感じとれた。だが、立場上、黙っているわけにもいかなかった。

「おいなんだよっ? なにがもうオッケーなんだよっ?」

 喚いているうちにも、百合子は両手で、私の空いているほうの手を握ってきていた。あわてた私は、タンブラーをテーブルに預けると、返す手で、囚われているほうを引き出しにかかった。

「ヘヘ。お酒のんだうえでのあやまちなら、許されんだよお」

 尖った力で左手を噛みしだかれるばかりである。

「なんだおまえっ。……俺を誘惑する気でいるのか? カハハ。俺とはもうしないって言ったのは、おまえのほうだったじゃないか」

「事情が変わるってことだって、人間にはあるじゃんか。それに、一回こっきりのことなら、神さまだってヒロぽんだって許してくれるわよお。お酒ももう呑んだんだしい。ね」

 男に飢えているのかとも思った。しかし、「一回こっきり」という言葉に、私は何か引っかかるものを覚えた。ピンと来た。

「読めたぞ。おまえ、自分がワキガじゃないかどうかが知りたくて、そう言ってるんだろう? 俺とやったあと、自分のあそこから出た液を、タオルか何かで拭いて、それをどうかしようって企んでるんだろう?」

「なによお。わかってんならさっさと協力してよ」

「その必要はない。おまえがワキガじゃないってことは、電話でもちゃんと言ったろ? まだわからないのか」

「でも真ちゃんは専門家じゃないしい。ヨッパライ以下のクズかもしれなくっても、医者は医者だしい。……真ちゃんが言ったとおりのことして、ヒロぽん手術した医者に、いちおう調べてもらおうかなって。……あそこのことってことになると、安心して頼めるのは、さあ。……ねえ、どうしてもダメなわけえ? ……ねえ、いいじゃんかあ。真ちゃんだって気持よくなれんだしさあ」

 たしかに、願ってもないチャンスではある。私は喜びを催した。しかし、何としても断らなければならないという義務感のほうが、それよりも大きかった。姉妹の母親と会ったことが、その気持を支持しているようだった。

「そういう言いかたはやめろ。まったく勝手な女だな。はしたないって思わないのか? もう一回いっとく。おまえはワキガじゃない。それにワキガはうつらない。それから、寛子ももうワキガじゃない。馬鹿なこと考えるな。気持よくなりたいんなら、ほかの男とやってくれ。自分から勝手に、いきなり俺と手を切っといて。なんだいまさら。……この手もこう。こっちから切ってやる。俺にだって、男の意地ってもんがあるんだぞ」

「かたいなあ。もうあたしが嫌いなわけえ? ヒロぽんのことだけを、愛してるわけえ?」  

 どちらでもなかった。だが、この場においての私の考えは、すでに固まっていた。

「ああそうだ。寛子はおまえみたいに、恥しらずな女じゃないしな」

 私が立ち上がると、百合子が下から睨みつけてきた。どことなく青い顔をしている。それまでには見たこともないものであった。

「帰ってよっ。きょうはもう帰ってっ。あんたなんか顔を見るのもヤだっ」

 こちらとて同じ気持だった。さっさと一人、百合子に言い返しもせず、寛子に書き置きを残しもせずで、私は姉妹の部屋から出た。

 その後のことがどうなるのかなど、考えたくもなかった。宛もなく車を発進させた。

 

          二十六

 

 夜に百合子から電話が架かってきた。しばらくは、この日の昼前の出来事についての弁解が、くりかえされることとなった。

「そんなだったから、パニクっちゃってたんだよお。もううつっちゃってるかもしれないっていうのに、真ちゃんたらとりあってもくれないし。これからうつるかもしれないっていうのに、観察日記はやめるって言われるしで。少しはわかってくれてもいいじゃんかあ」

「そら。謝ってなんかいないじゃないか」

「ちがうって。あたしが悪かったのは認めるって。バカだったって。ごめんなさいって。ちゃんと謝ってるんだよお。けどさ、もう少しぐらい、あたしのことも心配してくれたっていいじゃんか。元カレなんだし」

「心配する必要がないから、心配しないんだ。どれだけ言ったらわかるんだよ。おまえ自分でも言ってたけど、そんなに心配なら、医者にでも診てもらえばいいじゃないか。笑われるだけだぞ」

「じゃあ真ちゃんは平気なわけ? 自分がワキガになっちゃっても」

「おまえ、寛子に聞えたらどうすんだよ」

「だいじょうぶだよお。また薬のんで眠ちゃってんだから。あそうそう。だからきょうのあたしとのことは、ヒロぽんに内緒にしといてね。あしたも来るんだからって帰ったって、そう言ってあるんだからね。あたしはいないんだから。ちゃんと口うら合わせといてね」

「じゃあもうあんなふうに、俺に迫ってこないだろうな? 約束するな?」

「そうそう。あたしが逆上した理由には、そのこともあったんだよ。まるであたしが汚いものにでもなったみたく、あたしからもワキガ菌が出てるみたく、手を払いのけたじゃんか真ちゃん。ちょっとまえまでカノジョだったっていうのに、あんまりじゃんかあ」

「だから。ワキガ菌なんてないんだよ。うつらないって言ってるだろうが、しつこい奴だな。俺の言うことが信じられないんなら、医者に行ってくれ。それから。もうおまえとは終ってるんだよ。正直に言おうか? お母さんと会うまえだったら、どうなってたかわからないけど、もう無理なんだよ。以上だ」

「なんでママが関係あんのよお? ひょっとして、ヒロぽんと結婚する気でいんの?」

「おまえの言うことやることは、支離滅裂だな。どうしようと勝手じゃないか、そんなの」

 ようやくのことで、百合子が黙った。通話を終えてしまうには、この機を逃す手はない。

「とにかくだ。納得が行かないんなら、病院に行ってくれ。あしたからは俺、会社がある日には、どんなに急いでも八時ぐらいにしかいけないだろうから、寛子にそう伝えといてくれよ。俺のほうはそれだけだ。何かあったら、例のノートに書いて、ダイニングのテーブルに載せといてくれ。それじゃあな」

 会社の終業時刻は、建前では、午後五時である。しかし、事前に上長や周りに申し出てあったとしても、時間ちょうどに職場を離れることは、実際には難しい。挨拶せずに帰るわけにもいかない。タイムカードを押せば打刻音が響く。いやいや仕事をしている女子社員たちに気づかれ、ひがみによる恨みまで買う恐れもある。二番鳥となるのが好ましい。

 そんなことから、平日に寛子の面倒を見にいく初日、退社できたのは結局、午後六時ちかくになってからであった。

 会社のある新宿からマンションのある川崎市の外れまで、電車を利用できないこともない。だが、乗換えが煩わしそうなうえに、各線相互の連絡も悪そうである。目的地に着いて終りならばまだしも、そこでは「任務」が待ちうけている。いろいろと気も使わねばならない。役目を果したのち、一時間に数本しかなくなっているものを乗りつぎ、慣れない風景のなかを自宅まで帰らねばならないとなると、精神的にも重労働となってしまう。とても気軽には続けられなくなる。しかし、どう疲れようとも「解任」を求めることなどできないのだ。約束した以上、男の意地がある。

 とはいえ、自分の心身のことも考えるべきに違いなかった。先方への到着時刻が多少おそくなろうとも、帰りのことを気にせずに済むほうが、自分の車を利用したほうが、負担は軽そうなのである。そういうわけで、私は通常どおりに帰宅することを選んだのだった。

 母親には何も伝えていなかった。

「あらあんた。どうしたのよこのところ。あのバカ優子とのことがおじゃんになったんで、会社にいづらくでもなってんのかい?」

「いや、そんなつまらないこととは、まったく関係ないよ。そうだ母さん。今日からはね、月水金の三日、だいたいこの時間ぐらいには、帰ってくるから。こういう時期を、有効活用しようと思ってさ。週に三日、会社の研修所に通うことにしたから」

「あそう。でも今日は、まだお夕飯の用意ができてないんだよ」

「メシはいらないよ、これからも。ただ帰ってくるのが夜中になるだろうから、車やガレージの音がうるさいだろうけど、それは勘弁してよ。オヤジにも言っといてよね」

 汚れてもかまわない服に着替えおえると、私はすぐさま自室から出た。

 世の景気はいい。その週明けの、午後七時ごろである。力仕事に関係している車、外回りで帰社が遅れている車などで、道が道でなくなっていることが想われた。だが、そんな状態にあろう幹線道路の一本、川崎街道を行くよりほか、目的地には辿り着けない。

 寛子に電話してから出発したほうがいいのを思い、私は、忘れものをしたのを装い、降りきっていた階段を昇りはじめた。片足を三段目に掛けたところで、ハッとした。寛子は電話を受けることができるのか。それへの答を知らない自分に、気づいたのであった。時間をかければ、自力のみでもベッドから起きあがることができる。そのことは、本人が言っていた。そこからすれば、受話器を取りあげるという動作も、遅々としてであれば可能なのだろう。しかるに、相手の状況を考えれば、遅れるという通知を受けさせられるより、ただ待たされるほうが、ずっと楽なことにちがいない。二階のトイレで用を足すだけで、私は出かけてしまうことにした。

 予想どおりの混み具合であった。休日のほぼ倍、二時間半を持っていかれた。

 マンション前に車を留めたところで、答のわからないことが、またしても頭のなかに湧いてきた。寛子が玄関のドアを開けられるのかどうか、という疑問である。寝すごさないためで、寛子は鎮痛剤を服むのを控えていることだろう。一刻も早く安らかにさせてやりたいと、私は思った。なあに、肘から下ならば動かせるのだから、ドアノブの鍵を回す程度のことなら、自在に行えるのだ。そう決めつけ、さっさと車から降りてしまった。

 足早に私は、マンションの出入口とつながっている短い石段を昇った。自動ドアを通り抜けると、右側に管理人室の窓がある。人気がなかったので、立ちどまることなく、エレベーターホールを目指した。数歩を進めたのち、赤い物音が、背後で噴きあがった。

「あのおっ。ちょっと待ってくださいっ」

 見覚えのある高年の男が、走り寄ってきた。

 「観察日記」をつけあうことについては、すでに断ってある。しかし、自分本位な百合子のことだ。こちらの意向を無視し、勝手に始めたのかもわからない。もしもそうであるのならと、私は身構えた。ノートそのものを受け取らずにおこうと、考えていた。

「あの。おたくさん遠藤さんですよね? 中谷さんご姉妹のお部屋へ、出入りなさってる」

 それが正しいことのみを、私は返した。

「お預かりしてるものがあるんです、妹さんのほうから」

 そら来たと、私は心中で指を鳴らした。

「ノートかなんかですか? それとも、大判の封筒か紙袋に入った……」

「ええ。封筒には、入ってますけどね」

 そう言うと、管理人はズボンの右ポケットに手をつっこんだ。涼しげな音が揺れはじめた。そう思っているうちにも、手紙用の、しかし上下には二つ折にされている封筒が、私の眼下に差し出されていた。

「これなんですがね。お部屋の鍵じゃないでしょうか? 鈴かなんかが、付けられてるみたいですし。なんでも、お姉さんのほうが、両腕に大ケガをなすってて、ずっと横になられてるとかで」

 赤の他人への説明にも、心が配られている。百合子にも相応の思いやりはあるのだった。身勝手な馬鹿女だと断定していたことを、私は反省した。その分だけ慇懃に、管理人に礼を述べた。頭を低くしたままで、畳まれた状袋を受け取った。

 エレベーターの扉が完全に閉まるのを待ち、私は手にあるものを引き伸ばした。赤いキーケースに白紙が巻きつけられているのが、上から見えた。逆さに振って中身を出した。包装の外側には、フェルトペンの拙い字で大きく『よろしく』とあった。内側にも文字の並んでいることが認められたので、めくってみた。『帰るとき管理人さんに返してってください。あした合カギつくります。』と、ぶっきらぼうに書かれていた。頬が重くなっていることで、私は自分が微笑んでいることを知った。

 ドアを開けると、淀んだ空気の出迎えを受けた。灯りも点けられておらず、静まりかえっている。不法侵入者ではないことを寛子に報せてやろうと、私は腹で息を吸った。その準備が整うと、遊び心が生まれた。

「ヒロぽーんっ。あたしだから起きなくっていいよおっ」

 裏声を響かせた。それに呼応する音が、遠くで起った気がした。だが、耳を澄ませたときには何も聞えなくなっていた。靴を脱ぎ、電灯を点けながら、私は歩を進めていった。

 寛子の部屋のドアは、あくびしかけていた。腕一本分ほどの隙間を、その口に挟んでいる。一方、私は廊下の灯りを背負っている。いきなり進入しても、瞬間的に驚かせるだけで済むように思われた。

「俺だよ。遅くなってごめんな」

 百合子なのを信じていたらしい。部屋の電気のスイッチを押すと、ベッドの上で寛子がもがいているのが見えた。隠れ蓑にしている岩をいきなり持ち上げられ、明かりに曝されて蠢きだした虫たち。それらの様子と、そのさまは酷似していた。ワキガ虫かと、私は心のなかで笑ってしまった。

「不用心だぞ。なんで灯りを点けないんだ?」

「イヤですよ、真一さんたら。明るくしてあると、いろいろと気になることも、出てくるじゃありませんか。たとえば、時間とか」

「遅くなったのを怒ってるのか? 悪かったよ。道がすごく混んでたんだ」

 寛子は、起きあがろうとしているようだった。独りの場合にはどうするのかと思い、私は眺めていることにした。