「コーヒー持ってきたあと、お母さんのまえで裸んぼになんだよ、いいね?」

「なに言ってるんだ、このエロババア。そんなことオヤジに頼みにいけよ。俺コーヒー飲むの、やあめたっと」

「あちょ。真一ってばあっ」

 砦に逃げ込もうとする敗残兵の足取りで、私は自室へと駆けあがった。ドアノブの出臍を押し、追手が来ることがあっても、すぐには踏み込まれないようにした。

 私は自分の身体を嗅いだ。たしかに、ほのかにではあるものの、消失したはずのくさみが、蘇ってきている。もちろんのこと、肌着は新鮮なものと取り替えてある。パジャマとて、家の敷地内からは一歩も出ていないものである。地肌だけが、うしろ暗い過去をもっている。私は着ているものを剥ぎにかかった。入浴後に習って確認してみることにした。

 異臭は、股のあたりを、その起点としているようであった。念入りに洗ったうえで、確かめもしている。即座には信じがたかった。他の部分を取り巻いている、靄のようなくさみを嗅いでいて、ピンと来た。迂闊であった。寛子の内に入ったときには、男の芯は突き出ていたわけである。そこの皮膚が伸びきっていたことになる。くさみを吸収してしまっている面積と、洗った面積とに、小さからぬ差異があるということに気づいた。その残滓が、胸の瘤起を思い描いたりして股に固いものをこしらえたことにより、存在を誇示しだしたのであろう。私はそう合点した。

 母親のほうは、いまだ入浴していないようであった。家中が寝静まったのを見計らい、改めて風呂場に行こうと、私は企図した。その際には、石鹸の泡を潤滑油がわりに、自家発電するようにして、擦り洗おうと心した。

 テレビでも観ているのか、浴室のほうからは物音ひとつ聞えてこなかった。私は暇を持て余した。椅子やベッドにくさみが移ることを恐れるのあまりで、座ることも寝転がることもできかねた。檻のなかの動物のように部屋のなかを歩き回っていた。そんななか、本棚に並ぶ幅のある一冊を、目がとらえた。

 それは、『身近な医学』という、病気や怪我の応急処置の仕方などが載っている分厚い書物である。専門的なものではないが、およそ人が悩みそうなことのほとんどが網羅されている。「禿」について書かれている数ページさえある。そのことをなぜ私が知っているのかといえば、その本のその部分には、黄ばんだ紙切れが挟まれており、赤ではなく朱の線がところどころに引かれているからである。そうしたのは、むろん私ではない。中学時代にその本の存在に気づいたときには、すでにそうなっていたのだ。「一時的避妊法」という部分に付箋を貼ったことだけが、私の仕業のすべてである。

 暇に任せ、手に取ってみた。ものは試しで索引を見てみた。「わ」を引くと、平がな三つを、瞬時のうちにも見つけられた。太字で扱われているのだった。

 恐るべき事実を、まず突きつけられた。「皮膚の病気」のなかに含まれている。「汗腺の病気」とも書かれている。病気、なのである。ともあれで、私はその三ページ分を読みはじめた。

 一々が、納得できる記述であった。「主症状」の項では、『極端なものでは顔を背けたくなるほどである。』とあったところで、私は頷いている自分に気づいた。「原因」、「治療」の項へと進んだ。『悪臭を根絶させる方法は、完全なる治療法は、現在は手術療法しかない。これは、脇の下の毛が生えている部分の皮膚を、完全に取り去るものである。そうするのは、においの出元であるアポクリン腺が、この部分の毛嚢に最も多くあるためであり、皮膚を切除することで、腺も除かれ、悪臭が出なくなるからである。アポクリン腺は乳首の周囲、臍の周囲、陰部にもあるが、脇の下の手術さえ完全なものであれば、全治せしめることも可能である。』とのことであった。くどくどしい文の影響もあろうが、何やら大変な病気であるように、私には想われた。

 半ば放心した状態で本を差しもどすと、私は急いでタバコを喫いにいった。病気は、遺伝的なもの、であるらしい。男を惹きつける外見を授けられている一方で、男を寄せつけない臭気をも受け継がされている寛子。神の悪戯とも思えるその酷い矛盾に、やりきれない気分が膨らみきっていた。彼女のことが気の毒でならなかった。

 惚れられた女は、若く美しく性質もよく、そのうえにも金持の娘である。しかし、難病を患っている。すなわち「病人」なのである。その無念さが、私の手を二本目のタバコへと運ばせた。

 センチメンタルな気分にばかり浸ってはいられないということに、私は気づいた。病気であれば、二種類に分かれる。感染するものか、しないものか、である。そこからは、寛子のそれが「皮膚の病気」であるということが、私の頭のなかに大きくなりだした。みずぼうそう、とびひみずむし、いんきんたむし。交通標語のように、そんな「病名」が浮かんできた。選挙の候補者名のように、しつこく繰り返された。

 医学書には、感染の有無に関しては、まったく書かれていなかった。自分に都合よく考えれば、その心配がないので記述もなかった、とも取れる。しかし、「病源」が脇の下だと決めてかかっていることからすれば、実態を知らない医者なのではないか、とも疑えてくる。事実、ホテルと自宅で二度も洗浄したというのに、そのくさみは、依然として私の身体に付着したままなのだ。股のあたりにあるそれについては、因果が掴めている。とはいえ、ほかの部位からほのかに湧き出てくるそれについては、論理的な答を導き出せないままなのである。これは、と私は怯えた。居ても立ってもいられなくなった。タバコを躙り消した。年の功に頼ろうと思い、階段を踏み鳴らしはじめた。

 

          十六

 

 縫物をしている姿が、目に入ってきた。レンズの小さい、おもちゃのような老眼鏡をかけている。そのとぼけた仮面が、私の口を滑らかにしてくれた。

「ちょっと相談があるんだけどさ。さっき母さんが言ってた、ニオイのことなんだけど」

「そのうちきっと来ると思ってたよ。……あんた……女とやってきたんだね?」

 そう言って手を止めると、母親はアゴを引き、上目づかいに私を見てきた。目の下に引っ掛かっている小ぶりなレンズが、上からの灯りを反射させ、白目の大きさを強調している。どぎつい言葉を聞かされたこともあり、一転して私の口舌は、ぎこちなくなった。

「あ……う……」

「ちゃんとサック。いまはコンドームとかっつうか。着けてたんだろうね?」

「あの。それがその」

「ええっ? そんなくさい女を孕ますことにでもなったらどうすんのさっ」

「それは、ありえないんだ」

「ない? なんで? あそうか。ちゃんと外で出したってわけだね?」

 嘘で切り抜けるほかはなかった。

「んまあそんなら……。でも、もうその女とは、二度と関係しちゃダメだよ。ワキガってえのはあんた、うつんだかんね」

 尋ねるまでもなく、知りたいことを教えられる運びとなった。それは、私の両膝から力を引き抜くに充分な強さを持っていた。しゃがみこみそうになるのを、私は懸命に堪えた。

「なあに。一回関係したぐらいなら、心配するこたあないよ。風邪やなんかとおんなじで、かかりはじめなら、すぐに治るだろうからね」

 その言いざまからしても、やはり「病気」なのだった。その口ぶりからすれば、病院に行くほどのことはなさそうである。しかし、何かせずにはいられない気が、私にはしていた。それとなく探りを入れてみることにした。

「あの……。どうして母さん、そんなに詳しいわけよ? 誰かからうつされたことでもあるの?」

「失礼だねえ。あたしゃ犬みたいなあんたたあちがうよ。ほれ。あんたもおぼえてんでしょが? あんたがまだ小さかったころ、おとなりさんだった沼川さん」

 母親は、語り好きでもある。私は曖昧に返しながら、長くなるのを覚悟して腕を組んだ。

「あすこはもともとご主人だけがワキガで、くさいくさいって、奥さんが毎日あたしにこぼしに来てたのよ。こっちもあっちも、新婚ときからおとなりだったからねえ。ウチはすぐあんたが生まれたけど、あっちゃあ三年あとだったでしょ? あの聖子ちゃんがまだおなかんなかにいたころ、奥さんツワリがひどくってね。あたしがよく、めんどう見にいってあげてたんだよ、くさいのがまんしてさ。夏なんて、当時はいまとちあってクーラーなんてなあったから、扇風機じゃんか。ウチんなかじゅうにワキガのニオイが充満してて、あたしのほうが何度か吐きそうになってたよ。ホントひどかったよ。ワキガハウスって、お父さんにゃあ言ってたぐらいなんだあら」

 私は早くも焦れた。口を挟んでやる必要を感じた。

「それで? 何が言いたいのかよくわかんないなあ」

「そう、それでね。とにかく暑いわけよ、ウチんなかがさ。奥さんは汗まみれなんだけど、ご主人の帰りの遅い日が続いててね。そのころはもう、聖子ちゃんが生まれるひと月まえぐらいだったから、ひとりじゃお風呂に入れないわけさ。転ぶと大変なんでさ。いまと違って、一般の家庭にシャワーなんてありゃあしない時代だったろ。そんであたしが、一緒に入ってあげんことにしたってわけさね。ただ、ワキガハウスのお風呂じゃ、あたし自身が耐えらんないと思ったんで、奥さんをウチへ連れてきたんだよ」

「それで? そんなの,ただの母さんの思い出ばなしじゃんかよお」

「ちょっと黙ってなさいよ。こっからがミソなんだから。……でね。……服を脱がしてあげたあとんなっても、奥さんからワキガのニオイがぜんぜん消えてかないんだよ。変だなって思ってさ、奥さんの背中の汗を、タオルで拭いて嗅いでみたらさ。そしたらあんた、ナマのワキガのニオイがするじゃないか。そんであたし、あわてて奥さんに言ったの『ちょっと奥さん、あんたワキガんなっちゃってんじゃない?』って。言ってから『しまった』と思ったよ。ショックのせいで、赤んぼが出てきちゃったらどうしようって。したら奥さん、照れくさそうに笑って『そうなのよ奥さん。結婚して一年ぐらいしたら、主人のが、すっかりうつっちゃった。こうなると、カオルっていう自分の名前が、うらめしいわ』って言ったの。それ聞いてあたし、自分のお節介なのを、ホント後悔したわよ。あたしんまでうつされちゃうんじゃないかって。でも洗ってあげなきゃすまないじゃんか、言い出したからにはさ。あとで手を消毒すればいいやって、割り切ることにしたんだよ。そんでも、あたしが恐る恐るで洗ってたかあ、奥さん気まずかったんだろうね。聞きもしないのに、自分から話しだしたのよ。『病院には行ってみたの。でももう治らないって、そう言われたの。死ぬような病気じゃあ、ないんだしって。ホクロができたと思って、あきらめなさいって。同病あいあわれむって言葉も、あるんだしって。ただ、おなかのこの子がふびんだわ。男の子であることを、毎日ご先祖さまにお祈りしてるのよ』ってね。そんで女の子だったんだもんね、かわいそうにね。被爆二世じゃないけど、聖子ちゃんもきっと、ワキガ二世なんだろうね。世のなかってホント、神も仏もないんかねえ。あたしゃあんたみたいなろくでなしの母親だしねえ」

 そこで溜息を吐き、母親はあらぬほうへと目を向けた。彼女の話したいことは、ようやく終ったらしい。だが、私の知りたいこととは、ズレがある。沼川夫人は病毒のなかに暮らしていたわけで、感染しないほうがおかしいのだ。私のケースの参考にはならない。

「それで母さんは、そのあとどうしたんだい?」

「もちろん手も消毒したし、ウチのお風呂場にも消毒剤まいたさ。お父さんてあんなブタみたいな男なのに、すごい神経質でしょ。『うつったらどうすんだ』ってすごい剣幕で怒られてさあ。気の毒だったけど次の日、もう洗ってあげらんないって、あたし奥さんに言いにいったんだよ」

「消毒か」

「そこまでは、する必要もなかったみたいだけどね。あとでほかのひとに聞いたら。段々にしかうつらないんだって。……なんでも毛穴からうつる病気らしいよ。あんたその白んぼの女と、やったあと、いっしょにお風呂んでも入ってきたんかい?」

 女という種族は、自分勝手に想像したことを、決定事項にしてしまうものであるらしい。母親にワキガ女、寛子との共通点を見出したので、私は軽く笑った。

「ヤだねえ。思い出し笑いなんかして。とにかくもう、その白んぼの女たあ関係しちゃいけないよ。……だけどあんたもホント、さかりがついた犬みたいに見境がないねえ。優子のクソとの婚約がパーになったかと思ったら、またすぐに遊びだして。……そうだそう。あの毎日のように電話してくるナカタニさんて女の子。あの子とはどうなってんのよ? はじめのうちはなれなれしかったのが、急に礼儀ただしくなったんで、あたしびっくりさせられたんだけど。どういう子なのさ?」

 名字が同じなので、百合子と寛子とが、母親のなかでは同一人物になってしまっているようだ。かまわない。要らぬことは言うまいと、私は心した。病気に関する情報も、すでに聞きだせたことのうえには、何も得られそうにない。あとは、みずからで解決法を導き出すだけである。独りになりたくなった。

「大金持のお嬢さんだよ」

 それだけを返し、その場から去ろうとした。

「ちょっとあんたあ。しばらかあ湯船に入んないでちょうだいよ。あたしたちにまでうつったらかなわないからさ」

「へいへい」

「しばらくは、お風呂はいるまえパンツだけになって、あたしに検査させんだよ。大丈夫んなったら言うから。いいね?」

「イヤなこったエロババア」

「このおっ。親に向かってなんだよおっ」

 黄色い号砲が轟く数秒前、私はその場から逃げ出していた。

 

          十七

 

 階段の途中で、母の話では合点の行かない存在がいることに、私は気づいた。百合子である。沼川夫人に同じく、「病毒」とともに暮らしている。それにもかかわらず、病気のニオイを、かすかにもさせていなかった。姉に同じく、ふんだんに香水を使っている。だが、シャワーを浴びさせたうえで汗をかかせたのちにも、臭わせることなどなかったのだ。

 免疫力とでもいうもののちがいによるのか、病気を招き寄せてしまう人間と、そうでない人間とがいる。同じ水を飲ませても、腹を下す者が出てくる一方で、びくともしない者もある。この場合には、前者が私、後者が百合子。事実によれば、そういうことになる。自分のことが、男のくせにひどく脆弱な人間であるように、思われてきた。

 自室のドアを閉めるなり、そんなはずはないと思いながら、私は視覚と視界を遮断した。学生時代にはずっと運動部に所属していたのだ。社会人になってからも、婚約者だった女と知り合うまでは、週に最低でも二回、ボクシングジムに通っていたのである。そのおかげか、病気らしい病気をした憶えもない。過労で寝込んだこともない。会社の健康診断でも常にS、最上の評価をもらってきている。並の男よりも、ましてや女よりも、身体が弱いなどということはありえないのだ。タバコは、一日に三十本は確実に喫っている。ウィスキーなら、一晩でボトル一本を空けられる。吐いたことも二日酔いになったことも数えるほどだ。毒物に対しての抵抗力という点においても、決して人後に落ちない自信がある。

 どうやら体力とは関係がなさそうだと思い、私は安堵の溜息を噴き出した。両目に意識を及ばせた。閃きを得ようとするときの常で、タバコに手を伸ばした。体力ではないとすると何による差異なのか。体調も、このところの自分は良好である。「体質」という言葉が、頭に浮かんできた。それのちがいによるのではないかと、紫煙を白煙に変えることをくりかえすなかで、思い至った。

 百合子は、むっちりとぽってりとの、ちょうど中間にあるような身体をしていた。そのせいでなのか、若い女にしては稀なほどの汗かきであった。合体のさなかには、私が適時、彼女の顔や胸や腹を、タオルで拭ってやることが慣例になっていた。私までもが水浸しにされてしまうからであった。

 私はといえば、暑がりなほうではあるものの、内面の反応だけに終る場合が多い。自分でいうのも何だが、犬などと似ていると思う。身体に不要な熱は、たいがい呼吸によって放散させてしまう。よほどのことでもない限り、皮膚の表面までを濡らすことはない。   

 汗という物質が、鍵になっているように思われた。毛穴から、ニオイの毒素は体内に侵入するらしい。なるほど、そこから多量の水分を体外に排出していれば、その浄化作用により、感染する道理はなくなるわけである。手を打つ代わりに、私はタバコで灰皿の縁を打った。

 続いて頭に浮かんできたことには、具体的な解決策が含まれていた。アルバイトでバキュームカーの助手を勤めたという友人の話を、思い出したのだ。身体にこびりついた汚物のくさみを抜くためで、仕事のあとには、欠かさず熱湯に浸かって大汗を流した。そういう話を、である。それによって私は、自分がこののちに為すべきことを、決定できた。

 しかし待てよ、とも私は思った。自分に染みているのは、彼の場合のような単なる悪臭ではなく、「病毒」なのだ。おいそれとは抜けていくまい。湯に浸かっていられる時間にも限界がある。一度の大量発汗では済まないかもわからない。