「あの遠藤さん。どこででもかまいませんから、どちらへでもかまいませんから、横に折れていただけません? お話があるんです。さっきのこと、説明したいんです」

 目指すべき方角からすれば、左へと折れたほうが良さそうだった。だが、「左道」である。それではあまりにも己の節操のなさに適ってしまいそうで、私は気が進まなかった。面倒くさかったが、次の信号を右折することにした。

 直感に従って正解だった。開始を宣言されている催しには打ってつけとも思える環境、眠っている工業地帯に、入れたのである。

 運河なのであろう。道に沿って水が見えていた。それが臨める場所で、私は車を停めた。

「わたし、遠藤さんのことが大好きなんです。どうしても失いたくないんです。なのでどうか、わかってやってください」

 何を伝えたいのかは、わからなかった。しかし、へたに問いかければ要領よく逃げられてしまうような気がした。喫いたくもなくなっているタバコを咥え、私は口をふさいだ。

「男のひとって、どうしてすぐに、女のからだを手に入れたがるんでしょうか?」

 とどのつまりは、安く思われたくないだけだったのか。そう考えるまえにも、私の鼻はスタッカートで煙を噴いていた。舌打ちで追撃ちをかけてやろうかとも思ったが、それはやめた。助演男優をつとめてやることにした。

「そりゃあ。きみみたいなスタイルのいい美人を、自分のものにしたくない男なんて、いるわけないじゃないか。もしいたら、きっとそいつは病気だ」

 そう言ってから、どんな顔をしているのかをうかがってやった。薄闇のなかで目と歯を輝かせていることを、私は信じていた。ところが、その瓜実顔には、喜びを表すしるしが一つとして浮かんでいないのだった。むしろ、その皮下で悲しみを塞き止めているかのような、硬い表情をしている。何か言葉を足してやらねばならない気に、させられた。

「でもきみは、知り合ってすぐのうちには、イヤなんだろ?」

「いいえ。そういうわけじゃないんです」

 無用な忖度なのを言われた。その想いが、加虐の心を呼び起した。

「そうだよねえ。ゲスなこと言うようだけど、きみの身体は、そうは言ってなかったしね」

 寛子は俯いてしまった。泣かれることにでもなれば、話を打ち切らねばならなくなる。励ますつもりで、私は手を握ってやった。

「思うままを、言っていいんだよ」

「あのわたしっ。恐いんですとてもっ。遠藤さんに捨てられちゃうんじゃないかってっ」

「どうして?」

「だって。わたしって、とってもつまらない女みたいなんですもの」

「そんなことないよ。きょうのことだけでも、俺はきみに、グッと惹かれたよ。話だっておもしろかったし」

「そうじゃないんです。そっちのことじゃ」

 手を強く握り返された。私は理解した。

「キスだって、なかなかじょうずだったよ。だから俺、きみのお尻から、手を入れようとしたんだし。考えすぎなんじゃないの?」

「そうでしょうか? 遠藤さん、お気を悪くされません? わたしが自分の過去話、させていただいても」

「過去は過去なんだから、別に構わないよ」

 寛子が大きく息を吸ったのが、聞えた。

 口舌を絡めあう段階に入ると、男たちは決まって身体を求めてきた。自然なことと思い、拒まなかった。だが、一回交わっただけで、どの男にも捨てられた。黙って去っていったのまでいた。悲しみの蓄積によって臆病になっている。要は、そういう話なのであった。

「男を信用できないってわけだ。俺も含めて」

「いいえ。わたしのほうからおねがいして、おつきあいしていただいてるんですもの。遠藤さんにお求めいただけることは、光栄なことなんです。もちろん信じてもいます。頭と身体は喜びで一杯なんです。でも、心が……」

「じゃあ、どうしたらいいのかな? お互いに年寄じゃないんだから、行き着くとこは、結局は変わんないんだぜ。いや、むしろそれを済ませたあとから、ホントの恋愛が、始まるんじゃないのかな?」

「わかってます。わたしもそう思います」

「自信なら、俺がつけてやるさ。それに、中年オヤジのセリフじゃないけど、いろいろと教えてあげるよ。自分で言うのも何だけど、俺は得意なんだぜ、そっちのこと」

 一緒に笑えるかと思って言ってみたのだが、寛子は下を向いたままであった。

「百合子から聞いてます。とてもおじょうずだって」

「なに、あいつそんなことまで話してんの?」

「ええ。わたしだって、早くかわいがっていただきたいんです。遠藤さんがもう、妹の彼じゃないっていう実感は欲しいんです。でもどうしても、心がゆるんでいかないんです」

 寛子に落涙の危機が迫っているように想われた。私は、預けていた左手を引き抜き、肩を抱いてやった。顔を上げるようにと囁いた。

「じゃあさ。きみの心がほぐれるまで待つよ。それでいいんだろ?」

「ごめんなさい。遠藤さんには、ぜんぜんかかわりのないことですのに」

「でもさ。大丈夫になったら、きみのほうから言うんだぞ。わかったね、寛子」

 何気ない一言が思わぬ失敗を招いた。よび捨てにされて嬉しい。寛子にそう言わせ、結局は泣かせてしまったのである。所在なくなり、私は車を発動させた。

 言葉のラリーが続くようになったときには、車はすでに川崎市内を走っていた。マンション近くの穴場のありかは、妹から知らされている。それと同じ場所で、その姉とも同じ行いをしようと考えていることに、私は罪悪感を覚えた。しかし、改めて寛子に尋ねてみる気にもなれなかった。割り切ろうと思い、主体となって雑談を重ねた。

 相手かわれど主かわらずの、公園での接触は、無事に終えられた。寛子をマンションに送り届けたのち、独りになったのちに天罰が下されることを、私は真剣に恐れていた。寛子を喜ばすことのできる次回を、提案してから帰ることにした。

「俺もきみのこと、呼捨てにしてるんだからさ」

「うれしいです。ありがとうございます」

「そういう言葉づかいも、次からはやめること。そんなだとお互いの距離が、一向に縮まらない気がするからね」

 その日は、それで別れた。何らの災いも振りかけられることなく、私は帰宅できた。杞憂にすぎなかったことを、軽く笑った。だが、奇跡であったという想いも、頭の外れのあたりから、ぼんやりと生み出されていた。

 

          十

 

 寛子は、職を持っている。その仕事は、不規則なものである。新宿との縁もほとんどなさそうだ。その妹である百合子とのときのように、会社帰りに会えることはないと、私は決めてかかっていた。

 ところが、初デートの次の夜の電話で、そののちの火曜と木曜の夜ごとに新宿で会うということを、寛子が提案してきた。そうすれば、あいだが三日と空くことはないのでと、理由を明かされた。休日に会うということが、ちゃっかりと前提にされている。私は頭のなかだけで笑った。とまれ、会う回数が増えれば増えるだけ、寛子の心が、そして身体が、開かれる時期も早まろうというものである。私はすみやかに承諾の言葉を返した。

 寛子と、初めて平日に落ち合った夜、何の気なしに地下にある居酒屋に入った。こぢんまりとしており、男女で呑んでいる客が目立っていた。訊けば、若いきょうだい四人でやっていると、返された。三番目だという唯一の女は、ことのほか愛想が好かった。出るまでには、その店を、平日の待合せ場所にすることを、私たちは決定した。

 私の給金は、同年齢の男の相場よりも安かった。やせ我慢には違いないが、デート費用の一切は、男である私が持つことにしている。百合子までで、貯金は粗方なくなってしまっていた。ホテル代は不要になっているが、その分、ガソリン代が馬鹿にならなくなっている。平日にも寛子と会うようになって二週目には、いよいよ財政が苦しくなった。

「どうして? なにか用事でもあるの?」

「いや、そうじゃないんだけど……」

 その週末には会えないことを、私は言っていた。

「やっぱり……。つまらなくなったの?」

 事情ある寛子には、そう解されてしまう。思い切って真相を告げることにした。

「ホント? ホントにそんなこと、だけからなの?」

 寛子は、なおも私を見ないでいた。手にしているバーボンの水割りのグラスを、親指で執拗に、撫でさすり続けている。内情を詳らかにしてやる必要を、私は感じた。

「だって考えてもみてくれよ。俺はまだ三十の、平社員なんだぜ。しかも会社は、一部上場とはいえ、メーカー、製造業なんだ。年収にしたって、四百万ちょっとぐらいしか、ないんだぜ。自社株は買わされてるし、関係会社の生命保険にも入らされてるし。それに車のローンもあるしで。独身だから、それでもいくらかは、自由にやってきたんだけどさ」

 金の切れ目が縁の切れ目、という言葉が、頭の中央に落ちてきた。寛子に投資した額と、寛子から得られたものとに、いまだてんでバランスが取れていないという事実に気づき、私は焦りを覚えた。慌てて言葉を継ぎ足した。

「俺だってきみに会いたいんだよ。でも、使えるカネには限りがあるんだ。だったら、会う回数を減らすしか、ないじゃないか」

「ごめんなさい。わたしがばかだったわ」

 そう言ったかと思うと、寛子はグラスをカウンターに置いた。その横顔は、その自己否定の言葉とは裏腹に、やけに晴れ晴れしている。薄気味わるさだけが、私には見えた。

「これからは、おカネはぜんぶ、わたしが出すわ。だって、つきあってもらいたいのは、わたしのほうなんだもの。でも、ホントにそれならいいの? 別な理由が、あるんじゃなくて?」

 寛子は二十三歳、しかも女である。その仕事は、色気を売物にするものではあるが、脱ぎもせず触らせもせず奉仕らしい奉仕もせずで、ある意味で「名誉職」のようなものだ。その稼ぎがどれほどのものなのかは想像だにできなかったが、私以下であろうということは容易に推察がついた。ピンと来た。妹が嫌がっていたことを、姉のほうは敢行する気でいるのではなかろうか。

「問題がカネのことだけなのは、たしかだ。だけど、きみにしたって、そう持ってるわけじゃないだろ? 親からもらったおカネを注ぎこむぐらいなら、会う回数を調整したほうがいいんじゃないのか?」

「百合子から聞いてるのね。大丈夫よ。真一さんが気にすることじゃないわ。わたし、こう見えても、やりくりじょうずなのよ。貯金だって、すぐにお嫁にいけるぐらいは、持ってるもの」

「でも、それに手を付けるのも、やめといてくれよな。なんか圧迫を、感じるからさ」

「とにかくいいの。……じゃあ、こうしましょうか? わたしがホントに真一さんのものになれたら、それからは割勘にしましょ。ね」

「なんか変だよな、それも。普通なら、いまこそ割勘で、そうなってからが男持ちだろ?」

 とは言いつつも、背に腹はかえられずで、私は寛子の案を受け入れたのであった。惚れられているのだから貢がせても当然だというような、やにさがった気持は欠片もなかった。同時に、申し訳ないことだとも、私は思っていなかった。相手の過去を飲んでやっているのだから、こちらの過去を飲んでもらうのも道理である。そういう考えも、確かにあるのだった。

 居酒屋を出たあとには、それの上にある雑居ビルを、私たちは決まって利用した。事務所だけのフロアに上下を挟まれている階段のなからまで上がっていき、その薄闇のなかで口舌を交わらせていた。

 寛子が心の変化を言ってくることはなかった。本格的な性交渉については、まったく進展がない。瞭らかに、私の男は焦れていた。接触での高まりにより、男の液体の一種、涎のようなものを、下着に漏らしてしまうこともたびたびであった。

 善人ぶらなければよかったと、後悔する夜が増えていた。寛子に会った帰りには、特にひどかった。男を解消したい気持が萎んでいかず、知らず識らずのうちにも、電車のなかにある若い女体に目を食い込ませていた。挙句には、自宅への最寄り駅で降りるや、こそこそと猥褻な雑誌を買いに出向いた。帰宅し、自室に籠るやで貪りはじめた。その行いによる疲労で、後悔の念は、いっそう膨らまされるばかりであった。悪循環でしかなかった。 

 寛子とのつきあいを始めてから一ヵ月半が過ぎていた。限界だった。何か画期的なことを仕掛けないかぎりは、半年先にも、一年先にも、あるいは永遠に、寛子の女を自分のものにはできない気が、私にはしていた。会うことによって発生する費用は、全額負担してもらえるようになっている。ガソリン代すらもである。だからといって、そういったことが、私の真の欲望、健康な若い男としては当り前の欲望を、充足させることはありえない。私は対策を練りだした。無理矢理にでも寛子の口から身体を合わせたいのを言わせる方法について、知恵を絞りはじめた。

 休日のどこかで、芝居を打つよりほかなさそうだった。寛子との言葉がどう進んでいくのかを知るべく、私は想定されるやりとりを実際に書きおろしてみた。読み返す都度、自分の台詞に手を加えた。それの精度さえ高めれば、相手からの返しが限定的なものとなるからであった。

 脚本が納得できるものになると、次には、場面ごとの演技について考えだした。相手は女である。たださえ観察力に秀でている。さらに、男に言い寄られることに慣れきっている女、でもある。陳腐な動きをすれば即座に見破られるように思われた。何か考えつくと、私は没頭するあまりで、その場で確認してしまうことがままあった。それが会社や電車のなかででの場合もあり、想わぬ失笑を買うことにもなっていた。

 しかし、いざ万端が整うと、私はすべてをご破算にすることにした。同じように考え、実践した男が、あるいは寛子の過去にいるのではないか。そう危ぶんだためである。馬鹿としか言いようがなかった。狂ってしまっている、男の液が頭のなかにまで充満している気がした。できるだけ早いうちに解決させておく必要を、あらためて認めるだけに終った。

 

          十一

 

 そして次の休日、土曜を迎えた。いつに変わりなく、車で寛子を拾いにいき、出かけた。二ヶ月目に入ってからというもの、どこに行くのかを、事前には決めないようになっている。それをいいことに、私は車を、大宮方面へと向かわせた。片側三車線の国道沿いに、まるで縁日の露店のようにラブホテルが並んでいることを、かつての婚約者との休日により、知っていたからである。最終的にはそのどれかに入れることを念じつつ、私はこの日のコースを頭のなかで組み立てていた。

 埼玉には、手つかずになっているような土地も多く、つがいのための場所は方々にあるといえる。荒川のほとり、秋ケ瀬公園での口舌の絡め合いは、抱き合ったうえでのそれという数えかたをしても、すでにその日の三度目のものであった。昼と呼べる頃合も、そこらあたりで終ろうとしていた。人的なものを除いた条件は整えられているように、私には思われた。男を抑える苦しみを、少しだけ大袈裟に、寛子に見せつけてやる気になった。

「真一さんっ。いきなりどうしたのっ? おなかでも壊してるのっ? しゃがまないと我慢できないほどなのっ?」

 その言葉で、二人がデートするきっかけとなった通話の冒頭を、私はまず思い出した。体調不良の一切は大腸のせいだと考える女なのではないかと、次には大笑いしたくなるのをこらえた。さらには、幸いに思った。笑いを噛み殺していることによる無言の間、小刻みな身体の揺れが、そこでの自分の佇まいに、いかにもふさわしいような気がしたからである。興に乗りかけた。

「そ、そうじゃない。……きみの、これまでの彼氏で、こうなったひと、いないのか?」

 悪乗り半分で、私はその台詞、この日のどこかで芝居を打つために暗唱までした台詞を、口にしてみたのだった。寛子の顔の爆ぜていることが、そちらへと流した薄目にも、とらえられた。演技の有効なことが見て取れたわけである。利用しない手はないという気になった。台本にあった、その後の自分の言葉を思い出すべく、私は記憶中枢をつつきだした。

「あれ。……あれだ。……きみは、男の身体のしくみを、知らないのか? 無理もないか。女ばっかりの、ウチの子だもんな」

 突風に横顔を張られ、私は口を閉ざした。毛だるまになっていた寛子は、あごのあったあたりで右手を大きくすると、前髪をかき上げた。

「どういうことなの? キスしたことと、なにか関係でもあるの?」

「ああ。その先のこと、あんまり我慢してると、男はこうなるんだ。知らなかったのか?」

「その先のことって……」

「きみ、まだその気になれないのか?」

 寛子は黒目を落した。が、直後に拾い上げた。先生に当ててもらうことが叶った子供のように、すがすがしい顔をしている。それは、シナリオにはない反応であった。

「ううん平気。もう大丈夫よ。わたしも言おうと思ってた矢先だったの。いままでありがとう。じゃあこれから。しましょう」