マンションまで走りつづけた。5分ほどで着いただろうか。刑事の言葉どおり、部屋の前には制服姿が立っていた。ぼくがぼくであることを示し、引き取ってもらいたいのを言った。本署と無線連絡がとれるまでは。そう返され、並んで待機させられる破目になった。

 玄関ドアに鍵をかけると、ぼくはキッチンへと急いだ。身体を洗い清めたいのを思いながら、うがいを繰り返した。そのうえで、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、ペットボトルからコップ、そして体内へと、流し込んだ。

 居間に向かった。野坂は、来訪時の衣類を身につけ、それで空いたビニール袋に着ていたものを収め、持っていったのであろうか。見覚えのある状態で残されていたのは、毛布だけであった。

 寂寥感が押し寄せてきた。虚脱感もあった。ぼくはソファに身を沈めた。

 おまえは裏切り者だ。仲間を、この世でただ1人おまえのことを必要としていた仲間を、売り渡したのだ。しかも、ゴミ箱ならぬブタ箱に、棄てたのだ。いや、仲間などという、よそよそしい間柄の男ではなかろう。女体を媒介として契りを結んだはずの、「兄弟」ではないか。そんな無二の男を、予告もせず、臭みのまっただなかへと突き落したのだ。おまえは最低の男だ。男のクズだ。そんな心根だから、友だちも女もできないのだ。これから先にも……

 いつしかぼくは、頭を抱え、目を閉じていた。泣いているのだった。

 だが、あるところで、ハッとした。いったん帰宅してから、法律書を買いに出かけるつもりではなかったか。口語訳基本六法全書なら、寝室の本棚にある。まずはそれを見てみようと、走りながら考えたのではなかったか。涙もそのままに、ぼくはソファから跳ね上がった。

 恐喝罪の条項を読んでみた。野坂のやったことに当てはまるような気もしたが、どこかズレがあるようにも思われた。やはり、刑法について詳しく説かれている本を、買いにいくしかなさそうだった。

 重みを本棚に戻そうとしたとき、裏表紙が見えた。何かのスタンプが捺されている。それに目を凝らした次の瞬間、ぼくの口から唸り声が噴き出してきた。両親の会社、そして我が家の、顧問弁護士の事務所のものだったのである。わらにも縋るような思いで、ぼくは固定電話へと走った。受話器を引っ掴んだ。

 刑事が相手だったときとは違い、ぼくは事実の一切を、包み隠さずに話した。野坂の日課に至るまでもである。警察で聞かされたことも伝えた。1時間ほどかかった。

「ほうだったかね。ほんでも一也君、恐喝罪いうのは、シンコク罪だでねえ」

 親告罪、なのであった。強姦罪などと同じで、被害者からの訴えがなければ、犯罪として成立しないものだ。そう弁護士は説いた。

「ほんだであれだわ。訴えを取り下げるっちゅうことも、可能なわけなんだわ」

 喜びのあまりで、ぼくは震えていた。

「ほんでもだわ一也君。その野坂いうひとは、常習者だ言わしたわねえ? ほれにだわ。あんたが賭博さしたっちゅうことも、かいしゅんさしたっちゅうことも、野坂いうひとにバラされとるかもしれんがね。ほうすっとさゃあが、警察のほうでも、ちょこっとのことでは耳かさんて」

「先生にこっちまで出てきていただくことは、無理でしょうか?」

「できんことはにゃあけど。……ほんでもなにい? あんたの話からするとさゃあが、一也君は、これからもその野坂いうひとと、つきあっていきたゃあんだわねえ? 高級料理たべからかしとるあんたが、うみゃあ思っとったんなら、ほれはきっと、たゃあした腕だっちゅうことだ思うし。もったゃあにゃあわなあ」

「そうなんです。だからいずれは、彼も立ち直れるんじゃないかって。ここで犯罪者にしちゃ、いけないんじゃないかって。だから先生。先生のお力で、なんとかお願いしますよ」

「ほうかね。……ほうか。…………ほしたら。………………うーん」

「先生っ」

「静かにしたってちょ。いま考えとるんだで」

 2分ほどが流れたか。

「ん? ……ほう、ほうだわ。閃いたがや。……んん、よしよし。なあ一也君」

「は。はいっ」

「名案がひとんつだけあるわ。わしがそっちに、出向くまでもにゃあことだし。ご両親も、あんたがほうされることのほう、喜ぶんでにゃあかねえ? あんたにツレのできんこと、わしに会わっせるたび、こぼされとるんだし」

 弁護士との通話を終えると、さっそくでぼくは行動を開始した。

 翌日の午後までには、1つに絞ることができた。都心からはやや離れることになる。だが、家賃には、これまでの住居との大きな差異はない。2LDKだ。

 居住所の1室に野坂を住まわせてやること、ぼくが彼の身元保証人になってやることを、警察に約束する。それが、弁護士から授けられた「策」なのであった。転居先を決めるや、ぼくは銀行へと飛んだ。

「オーナーさまも、ことのほかお喜びでした。なんせ水谷さまの場合、ご実家が名古屋の優良企業でいらっしゃいます。そのうえにも、ご実家の顧問弁護士であられる加藤先生より、署名捺印された意見書まで、PDFピーディーエフファイルで、メールとともに頂戴しておりますからね」

 手付金を支払うことで、不動産仲介会社から「証明書」を発行してもらった。

 野坂が受け入れるかどうかは、皆目わからない。彼本人のみならず、担当のサラリーマン風刑事にも、怒られるだけに終るかもしれない。正直、ぼくは恐かった。だが、そうなってもかまわないとも、思っていた。その試練に耐えることで、生まれながらに自分が覆われているもの、透明に見られてしまう膜のようなものを、剥がせるのではないか。そんな期待もあるのだった。

 警察署への道中、歩道橋の上で、久しぶりに夕陽を見た。いかにも嬉しそうに、街全体が頭を、橙色だいだいいろただれさせている。その光景を目にして、日課を済ませたあとの野坂の、まだ赤みの残されている笑顔が、鮮明に思い出された。提案を喜んでくれるのではないか。そう想われ、ぼくは足の回転を速めた。

 いかめしい建物しか、目に映らなくなった。ぼくは覚悟を決め、ジーパンの右の尻からスマホを取り出した。担当刑事に電話を架けた。

 野坂の要求した金額がぼくの出身地、名古屋、から弾き出されたものであったということを、相手はまず、誇らしげに言ってきた。ぼくが賞讃の言葉を返さなかったためでなのか、途端に語調を改めた。用件を、ぶっきらぼうに尋ねてきた。ぼくは縮み上がった。いよいよだと、息を凝らした。

 その直後のことである。体内に淀んでいる空気が、一瞬にしてニオイを帯びたように感じられた。交番や取調室がどうして臭いのか。その理由がそこで、ぼくには掴めたような気がした。

                                      ( 了 )