2人分の代金、8万円強は、リカがぼくに請求してきた。それというのも、彼女たちの去る時間が近いというのに、ぼくとも関係したというのに、マスミとノサカが離れようとせずにいたためである。スーツ姿のマスミが、椅子になっているノサカの上に横向きに座り、間歇的に口唇くちびるを重ね合っている。公園で見かけるカップルのようで、ぼくはけた。

「あれあれ。いいのかなあ? こういう仕事のひとが、あんなふうに、お客と濃厚なキスなんかしちゃっても」

「なあに? それって差別? 好きになったんなら、キスしたっていいじゃないの。わたしもしたわよ、マアくんとは」

 つまり、この売春婦たちにまで、自分は好く思われていなかった。そういうことになる。後味の悪い思いをしながら、ぼくはリカにおカネを手渡した。

「領収書は。いる? ……そう。……女の扱いかた、マアくんに教えてもらったら? きょうからはもう、兄弟にもなったことなんだし。……ごめん。言いすぎたかな? でもうらまないでね、カズヤン」

 そこまで言うと、リカはマスミを呼んだ。2人とノサカが、ぼくの前を通り過ぎていった。

 カタカタと、ハイヒールを履いているらしい音が、聞えはじめた。それとは違う厚ぼったい音が、猛烈な勢いでぼくのほうへと迫ってきた。ノサカの正面が見えた。前を掠めていった。と思いきや、左耳に湿気を感じた。

「おうカズヤン。まさかおめえ、これでおありいすっつもりじゃねえだろうな。ほれ。ここのでんあばんごは? あいつらいあとでかけさせんだあら。ロハでヤリまくれんだぞ」

 早口でそうささやかれた。ノサカの手にあるものらが眼下に見え、彼がぼくの前を通過していったわけがわかった。

リカからの言葉で、ぼくはすっかり白んでいた。痴呆状態に陥っていたにちがいない。せきくしゃみあくびを出すのに近い感じで、固定電話の番号を告げた。それをメモすると、ノサカは玄関口へと走っていった。

 ガチャリという音、玄関ドアに鍵を掛けた音が、ぼくの耳に飛ばされてきた。ガステーブルの点火スイッチを押したときの映像が、頭のスクリーンに映し出された。そこで、全身が熱を帯びていることを、ぼくは自覚した。いつしか鼻息まで荒くなっているのだった。のしのしと、ノサカの歩いてくるのが見えた。

「満足満足大満足と。ヘヘ。おめえもそうだろ? マスミのほうあじゅっちゅうはちく、でんあかけてくっだろうから、ダチ1人つれてくるようにって、おれから頼んでやっよ。……さあてと。んじゃあおれ、先い風呂はいっからよ」

 熱かった。そうであるというのに、ぼくの身体は震えだしていた。両手を握りかためているということも、認められた。腹の奥底から何かが噴き上がってきた。

「ふざけるなっ。おれがっ。おれが先に入るんだっ」

「ヘ?」

「女のカネも払ってないっていうのに何だっ。おれが出てくるまでキサマはここで待ってろっ」

 ぼくはノサカを追い越した。洗面所兼脱衣所へと飛んでいった。内に入るや、ドアに鍵を掛けた。そうしてから、おもらしをした女の子のように、膝を合わせたままで床に尻餅をついた。涙が頬をつたった。そのことで正気づいてからもなお、ぼくは泣いた。わあわあと、声まで放って泣きつづけた。

 

          四

 

 いよいよで懲役の終る日、7日目となった。

 前夜、入浴を終えたぼくは、その事実だけを居間に向かって短く叫ぶと、寝室に引きこもった。

入浴前に泣きわめいていたぼくのことを、気づかってくれているのか、ただ単に触りたくない腫物のように思っているのか。ノサカは、ぼくの様子をうかがいにくるでもなかった。ばかりか、足音すら忍ばせているようで、彼が入浴したのかどうかさえ、ぼくにはわからないほどなのであった。

 ポーカーの誘いには、あるていど時間が経てば、やってくるのではないか。そう想い、きっぱりと断ってやるべく待ちかまえていた。だがそれもなかった。

 ドアに鍵を掛けてから2時間ほどが過ぎたところで、ぼくの膀胱は我慢の限界をむかえた。寝室から飛び出したときには、居間はすでに闇に呑み込まれていた。

 ノサカが何時に出ていくつもりでいるのかは、ぼくにはわからない。しかし、最終の新幹線が午後10時に東京駅を出ていくということは、経験で知っている。そこからすれば、遅くとも9時半までには、このマンションを出ていかねばならない。ただ、それで間に合わせられるのは、慣れているぼくだからだ。ノサカには無理である。時間に余裕をもって行動したほうがいいことは、彼にもわかっていよう。日が変わらないうちに名古屋駅に行き着ければいい。そういうことでもあるまい。あちらで要するであろう時間も、考慮に入れておかねばならないはずだ。宵の口までには出ていくのではないか……

 しかしだ、とぼくは思い直した。目覚しを掴み上げた。それが鳴ってからほぼ5分後、午前10時半ちょっと過ぎに、なっていた。ノサカがぼくの部屋を訪ねてきた頃合によれば、厳密には、「1週間の懲役」はとっくに終っていることになる。すなわち、約束は果しているのだ。こちらから堂々と、彼に退去を求めてもいいわけである。

 権力を手中にできたように思われ、ぼくは俄然、勇気が湧いてきた。ベッドから転がりおりると、ラジオ体操第1をはじめた。それには含まれていない、屈伸運動、アキレス腱のばし、腕立て伏せも、追加した。寝起きのトドになど、むざむざとやられる道理などないではないか。そう自分に言い聞かせながら、呼吸を整えた。もどかしくなってきた。まっすぐにノサカの許に向かおうと、ドアのノブに左手を投げつけた。

 利き手でロックを解こうとした、そのときである。そこまでのものとは違う考えが、突如として頭の真ん真ん中に落ちてきた。あまりの衝撃で、ぼくは身動きが取れなくなった。

 ポーカーの借金とセックスの代金とを、名古屋から帰ったあとで払いにくる。ノサカがそう言っていたことを、ぼくは思い出したのだ。彼がおカネに細かいことからすれば、ありえない話ではない。つまり、これが今生こんじょうの別れになるかどうかは、この時点ではまだ確定していないのだ。寝ていたところを無理に追い出されれば、ノサカでなくとも恨むに決まっている。おカネのことはおカネのこと。その論理でいけば、返済後の彼の胸中には、ぼくへの恨みだけが残されてしまうわけである。陰湿な嫌がらせをしてくるような男でないのは、まずまちがいない。だが、それであればなおさら、彼の気は晴れないことになる。時を経るにしたがって、ぼくを恨む気持が液体化、さらには固体化していくのではなかろうか。

 いずれにせよ、とぼくは結論した。穏便に別れておいたほうが無難なのである。といって、ノサカの腰が重くなっても困る。そう思ったところで、名案が閃いた。ぼくは両手に動きを再開させた。前日までと変わりない歩速で、居間へと向かっていった。

 ガラステーブルから、折られた毛布の両端と、毛むくじゃらの手足とが、生えていた。それも、この日が見納めとなる。そう思うと、ぼくは一抹の淋しさを覚えた。だが、構わずに進んでいった。

 視界が狭まると、ぼくは驚かされた。この日にも買出しのメモが、ガラステーブルの上に置かれていたからである。ノサカが勘違いしていることが想われ、足を急がせた。その腹に載せられている毛布を、まず引き抜いた。

「マアさんっ。……マアさんっ」

 揺さぶると、ノサカの片目にわずかな隙間ができた。

「お。おお。……マスミかあでんあか?」

「ちがいますけど。きょうが名古屋へ行く日なんですよ。わかってますか?」

「わあってる。けどよ。もうちきっと。な」

 ぼくはホッとした。自分のプランを伝えた。

「んまあ。んでも。もうちきっと」

 聞きたくないと言わんばかりに、ノサカは横向きになった。テーブルの下で身を丸くした。その背中を押しながらで、ぼくは続けた。

「そんなこと言ってないで。……さあ。……駅前に旨い寿司屋があるんです。生ものはこの1週間、まったく食べてないんですからね。……名古屋への出発式、ちゃんとやりましょうよ。……ほらほら。早く起きて」

「だあらもうちきっと。……おめえが出かけっしたくできっまで」

 いつまでそうしているつもりなのかが、図らずも明らかにされた。つきあってやっているだけ時間の無駄である。あっさりと、ぼくはその場を離れた。まずトイレへと向かった。

 着替えまでを済ませたのは、それから30分ほどのちのことである。衣裳保管用の大ぶりなビニール袋に収めてあるもの、ノサカの来訪時の衣服を抱え、ぼくは寝室を出た。彼が出かけられるようになるまで、テレビでも眺めていよう。そう考えていた。

 再びで驚かされることとなった。ノサカが、すでに起きあがっており、所在なさそうに胡坐あぐらをかいていたからだ。この部屋にやってきてからというもの、そんなことは1度としてなかった。懲役なのを言って上がり込んだくせに、滞在中の礼でも言う気でいるのか。そうぼくが想ったのには、2つの理由があった。彼が、ソファの上にではなく、板張の床の上に座っていたこと。変なところが神経質なこと。それらによってである。おかしさを噛み殺しながら、ぼくは近づいていった。

「自力でも、ちゃんと起きられるんですね。はいこれ」

 ビニール袋を差し出した。

「おお。すまねえな、何から何まで。……カズヤンよお。ちきっとソハーにすあってくれっか? 聞いてもらいてえナシが、あんだよ」

 想ったとおりだ。そう思いながらも、ぼくは聞き入れなかった。面映ゆかったのである。

「何ですか? あらたまって。なんかキモイなあ。立ったままでもいいでしょ?」

「んならまあ。……あのよ。せっかくメモったんだから、きょうも買出しい、行ってきてくんねえか? とっときのメニュー、考えてあんだよ」

「だって……。生もの、寿司は食べれないとか、なんですか?」

「すし食いねえの江戸っ子だよ、おらあ」

「それなら……。最後の日にまで作ってもらうのは、なんか気が引けますよ」

 この日がどういう日であるのかということを、わざと織り込んでおいた。

「いんだって、んなこたあ。実あよ。わらあれっかもしんねんだけど……」

 引き取ってやらねばならないと思った。

「マスミさんからの電話を、待ちたいんですか?」

 とんだ失言だということに気づいたのは、口にしてからであった。

「ヘヘ。するでえなカズヤン。ほれ。ここい来たとき、女とケンカしちまったなあ、おれ言ったよな? ヨリが戻っかどうかなんて、わかりゃあしねえだろ? だからゲットしときてえんだ、マスミをよ。おめえだってわかってんだろうが、あいつの味ゃあ。ケヘヘヘ。ちゃあんとオススワケ、すっからよ。な」

「でも、名古屋に用があるんじゃ……」

「なあに。んなもんはヤボ用よ。別にきょうじゃなくっても、かまやしねえこっなんだ」

 そういうつもりでいるのか。さりげなく確認してやることにした。

「でも、今日かかってくるかどうかだって、わからないでしょ? 名古屋からここに、電話してくださいよ。マスミさんの連絡先は、ぼくが聞いて、ちゃんとメモしときますから」

「そうあいうけどよ。ここにおれがいなあったら、あいつだってシラケっだろ? おれがガチじゃねえっつうこっが、わかっちまってよ。女のうらみはこええんだぜ、カズヤン」

 はっきりした。その場では、ぼくは適当に応じておいた。彼の要求を飲んだということを装うためで、買出しのメモを摘みあげた。

「だあらよ。この袋のおれの服あ、そんときまで、おめえがあずかっといてくれよ。な」

「んええ。あとで片づけますから。とりあえず、ソファの上にでも載せといてください」

 財布を取りにいくべく、ぼくは寝室へと歩みを起した。迂闊だったと、その直後に自分でも思った。寝室に戻るのであれば、その折にでも、ノサカの衣服の入っているビニール袋を片づけてしまえるわけだ。不審に思われて当然である。悪いことにも、玄関へと向かうためには、居間を掠めねばならない。問いただされることになるのではなかろうか……

 しかし、ぼくの動きをずっと見ていたはずなのに、ノサカは何を言ってくるでもなかった。まったく疑っていないようである。

「じゃあ。行ってきますからね」

「おうっ。顔とか洗って、待ってっかあよ」

 好都合だと思いながら、ぼくは靴を履いた。目にも見える物音のほかは、聞えなかった。前日までの6日間と同様、玄関ドアのロックをいじることなく、居室の外へ出た。せかせかとマンションの通路を歩きだした。