片づけが終ったあとにも、ビデオにはつきあわされるものと、ぼくはあきらめていた。だが、食事中に同じく、テレビはテレビのままにされているのだった。こちらから催促したとあっては、いよいよノサカの口がやかましくなろう。ぼくは知らん顔を決め込むことにした。

 その状態で、1時間ほどが流れた。腹が膨れているせいでなのか、ノサカの口数は激減していた。眠たそうでもあった。

「じゃあそろそろ。マアさんも、お風呂に入ってきたらどうですか?」

 途端にノサカの目が険しくなった。

「あんだよおめえ? おれよか先い……」

 続く言葉が読めず、ぼくは黙っていた。

「そうだそう。カズヤン。またアイス、買ってきてくんねえか? きのうんのとおんなじの」

 ということは。でもまさか。自問自答していてもはじまらない。

「ひょっとして、換気扇を回したいんじゃ」

「ざっくばらんに言うとな。ダハ。ダハハハ」

 一瞬にして、希望の灯を吹き消されてしまった。ぼくはガックリきた。だが、相手に責任はない。自分の甘さを呪うしかなかった。

 懲役なのだから。そうであるにもかかわらず、作りたての旨いものを食べさせてもらえるのだから。横柄な男ではあるが、凶悪な男ではないのだから。何より、避けられることはないのだから。むしろ頼りにされているのだから。そんな言葉で自分を励ましつつ、ぼくはコンビニへとうつむきがちに歩いた。

 帰ってくると、ノサカは入浴中であった。あっちが終れば無断で風呂か。すっかり我がもの顔に振舞われているではないか。ぼくは腹が立ってきた。コンビニの袋をぶらさげたままで、居間のゴミ箱を覗きにいった。彼がそういう態度であるのなら、必ずやその内に、物的証拠が残されているに違いない。攻撃材料を得られるものと、考えたのだ。

 ところが、「言いつけ」のほうは、きちんと守られているのだった。少しだけだが、ぼくは嬉しくなった。蔑ろにされているわけではないということが、目で確認できたからである。

 浴室から出てくると、ノサカは目薬を求めてきた。見残したビデオは翌日に観よう。そうも言ってきた。

 共通の目的がなくなったときの常で、行き当りばったりの話を交わすこととなった。このときには、ノサカはアイスクリームを食べながら、こちらはビールを呑みながらである。

「しゅっぱいしちまったな。コンビニい行ってもらったときい、買ってきてもらやあよかった。けど、売ってっかどうかも、わかんねえしな」

 それまでにもノサカは、空いているほうの手で、頻繁に耳をいじっていた。耳堀りか綿棒のことだろうと想い、ぼくは訊いてみた。

「んなもんの世話になっほど、おらヤワじゃねえや。なあに。おめえにおせえてやりてえことがあってよ。ほれ。2つ目んビデオ、憶えてっか? カジノの場面があったろ?」

「なんだ、トランプのことですか。それならぼく、持ってますよ」

「ええ? だっておめえ。誰とやんだよ?」

 おめえみてえなボッチが。そう続けられるのを恐れ、ぼくは慌てて口を開いた。

「ふ、ふたり目のカノジョから、やりかた憶えるように言われたんです。もっとも、1回も手合せしないうちに、フラレちゃったんですけどね」

「そっかあ。……なんかワリイこと、聞いちまったみてえだな。……まあ。で、どいつなら知ってんでえ? バアヌキぐれえか?」

「馬鹿にしないでください」

「んなら、カネ賭けっやつはどうでえ?」

「ストレート、ロイヤルフラッシュ、フルハウス」

「あんだよおめえ。ヘヘ。へえくでけえしてくるたあ、味をやるじゃねえか。ええ? ヘヘヘ。よしっ。んなら、おれがこれ食いおわったら、さっそくおっぱじめようぜ。な」

「いいですけど。ぼく、実地でやるのは初めてなんです。はじめの何回か、ていうか慣れるまでは、賭けるのはなしにしてくださいね」

 ノサカがカードを切りはじめた。そちらの手さばきも、調理のときに同じく、堂に入ったものである。

「しょっぱなどっちが親になっか、1めえっつカードひいて、そいつの勝ち負けで、決めようぜ。あそうそう。エースは1じゃねんだあらな。キングの上、いってみりゃあ14だ。そいからよ。マークの強い弱い、おめえ知ってっか?」

「ええ。いちばん強いのがスペード。次がハート、その次がダイヤ。いちばん弱いのがクローバーでしょ?」

 応答がなかった。のみならず、ノサカは無表情で、カードを切りつづけている。ぼくは向きになった。

「あの、ついでなんで言っときます。上がり手は、弱いほうから、ワンペア、トゥーペア、スリーカード。ストレート、フラッシュ、フルハウス。その上がフォーカード、ストレートフラッシュ、ロイヤルフラッシュ。ですから、最強の上がり手は、♠のロイヤルフラッシュです」

 ノサカは目を細めていた。

「大合格だ。んじゃあしとつ、先生にひつもんすんぞ。5めえのカードが配られました。マークのこたあおいといて、3、5、7、8、9でした。おらあどうしたらいんでしょう? ポーカーヘース決め込んで、ハッタリかまして、勝負するっきゃねえんでしょうか?」

「いいえ。そこで下りないとアウトです。4種類のマークごとに4枚ずつある、エースジャッククィーンキング。合計16枚のうちの1枚もが、配られた5枚のなかに入ってなかったら、無条件で下りないとダメです」

「またしても大合格だ。てえしたもんだよおめえ、カズヤン。そのこと、知んねえやつがけっこういんだけどよ」

 褒められてうれしくないわけがなかった。が、ハッタリをかます練習で、ぼくは逆に、表情をこわばらせてみた。

「あんだよ、しかめっつらあこいて。まあいいや。練習で20回って、さっき約束したんだけどよ。おめえよくわかってるみてえだし。練習のときから、場代も掛金もありでやんねえか? 雰囲気が出ねえからよ。20回までのカネは、あとでおめえに返してやっからさ」

「自信たっぷりですね。ぼくのほうからマアさんにお返しするっていうことは、ないんでしょうかね?」

 ノサカは手を止めた。

「あるかもな。世の中にぜってえってこたあ、ねんだからよ。じゃ、いいんだな、本チャンみたくやっても」

「結構です」

 5枚のカードが配られる前に出さねばならない「場代」は、10円と決まった。双方とも、財布のなかにある小銭は少なかった。寝室に貯金箱ならぬ貯金「缶」を置いていることに、ぼくは気づいた。幸いにも、6種類の硬貨ごとに分けたうえで、貯めてある。お盆を持っていき、4つの円筒を運んできた。こちらで両替してやるのを言った。ノサカは千円札を差し出してきた。

「500円玉、ちゃあんと1めえ混ぜといてくれよ。こまけえなあどうせカズヤンから、せしめっことになんだあらな。ケヘヘヘ」

 10円玉を10枚だけに留め、ぼくはノサカに返金した。油断させておこう、すでに勝負は始まっているのだと、考えていた。

 10回目で、ぼくは「練習」を打ち切ってもらいたいのを言った。本当におカネを賭けてやったところで、負ける心配はないように思われたからである。

「いい度胸してんじゃねえか。……そら。これまでいおめえからせしめたバラゼニ。……ワリイけど、おら手加減とかしねえかんな」

 実地になってからも、ノサカの様子に、とりたてての変化は見られなかった。内なる思いが顔に出てしまうタイプであるらしい。本人はそのことに気づいていないようだが、手が好いときには目尻が垂れ下がり、悪いときには口角の一方が吊り上げられるのだ。それでも、念のため、ぼくは何回かわざと下りておいた。

「つまんねえじゃんかよ。張れよカズヤン。ほれほれほれ。いっけえ目は、50円にしといてやっからよ」

 ノサカは、目を垂らしていた。ぼくの手は、ひどかった。だが、賭場になっている床に、ぼくは100円玉を置いた。かけせんをつりあげたわけである。それもまた、作戦のうちだった。

「ヘヘ。おっきく出てきたな。ええ? よしっ。んならこっちも50円追加だ。……んでと。何めえとっかえっこすうんでえ?」

 ぼくは2枚、ノサカは1枚だった。

「よしと。んじゃあ、もう50円うわのせだ」

 ぼくは応じるだけにしておいた。

「んじゃあ、これでオープンだ。どら。……ケヘ。あんだよ。5のアンペアじゃねえか。こっちゃ8の、スリーカードなんだよ。ケヘヘヘ。いただきだぜ」

 その数回あと、ぼくにもそれと同じ手ができた。ノサカは、賭けるまえから口を歪めていた。案の定、下りた。ぼくが親になれた。

 そこからは、ぼくの勝ちっぱなしとなった。もちろん、そうそう好い手ばかりができるわけではない。何度も芝居を打っていた。

「クソッ。ダメだ。下りとく。またハッタリなんじゃねえのか?」

「いや。ほら、ストレートでしたよ」

「みろこれだ。あぶねえとこだったぜ」

 そこでノサカは、得意げな顔を見せる。それでまた、彼の判断力は、さらに鈍っていくこととなる。

 一方、ノサカの目尻に変化が見て取れたときには、ぼくはどんどんおカネを張り込んでいった。500円を超えてまで続けようとすると、彼は決まって下りる。

「あんだよっ。こっちゃあ初めてフラッシだったっつうのによっ」

 スリーカード以上の手が、彼のほうにはなかなかできなかったこともあろう。だが、それにしても、その身体に似合わず、ノサカは気が小さいのだった。

 負けることに酔える人間というのが、いるらしい。そういう者もいるおかげで賭事は成り立つわけだが、ノサカもそれであるようだった。やめようとしない。ばかりか、熱中する一方である。気が小さいということは、セコいということにも通じているのだろうか。捕られたぶんだけでも捕り返すのだと言い、躍起になっている。

 午前2時になった。お開きにしたいということを、ぼくのほうから申し出た。

「きたねえぞカズヤン。勝ち逃げじゃねえか」

「そんな。逃げるわけじゃないですよ。この続きは、またあしたやりましょう。そのための時間は、いくらでもあるんですからね」

 ノサカのみっともないさま、悔しがるさまを、観て楽しむことができる。そのうえにも、おカネまで稼がせてもらえるわけである。つまらないビデオをうるさい解説つきで観させられるのに比べれば、ぼくにとっても、格段に愉快なことに違いないのだった。

 ノサカを起すまえに一仕事ある。ぼくは目覚しを10時30分にセットした。寝室の灯りを消しにいったとき、ふと、部屋の壁の一所ひとところにある突起物に、目が行った。日めくり、なのであった。繁華街での事件当日の数字から、そのままにされている。ぼくはそれに飛びついた。

 あってはならないことなのだった。日めくりを剥ぎとって捨てる。それが、眠りに就くに際しての、ぼく本来の儀式なのだ。規則といってもいい。誰に命じられたものでもないが、子供の頃からずっと続けてきている。旅に出るときには持参することに、病床にあるときには枕許に置くことにも、してきている。めくり忘れた記憶は、たったの2回しかない。女たちに振られた当日、2日だけである。

 1枚ちぎるごと、ぼくは目を閉じた。店晒たなざらしにしてしまった過去3日に、心のなかで詫びを述べた。災いが起きないことを祈った。

 それを終えると、ノサカの訪れから2日が過ぎているという事実が、強烈に意識された。想っていたよりも早い。そんな気が、ぼくにはした。ポーカーで勝ちどおしだったことが、心に作用しているのかもしれない。そう考え、気を引き締めようと思った。「懲役」が終るまでにあと何日あるのか。そのことを、映像として頭に染み渡らせておくべく、5日先までを、ぼくはゆっくりとめくっていった。そこでは改心できた。しかし、一時的なものにすぎないようにも、思われた。何か手応えがほしい。その5枚目を横に折った。蹴り上げさせた足を、薄紙の束から、はみ出させておいた。

 その後の3日は、2日目と、ほとんど変わりなかった。

 ぼくの期待は、早々に裏切られていた。ビデオ観賞の時間帯にまでポーカーをやろうとは、ノサカは言ってこないのだった。観るものが尽きれば、借りにも行かされた。

 ノサカが日課を欠かすこともなかった。5日目には、動かない映像を求められた。汚されてもいい数冊を、ぼくは提供しておいた。

 ポーカーではないもの、たとえばブラックジャックをやろう。その提案すら、受け入れてはもらえなかった。

 負けないことがわかりきっている賭事ほどつまらないものはない。退屈のあまりで、ぼくは時々わざと負けてやった。しかし、そんなことをした次の回に限って、強力な手が、ノサカのほうにできてしまったりする。親の権利を取り返すのは、たやすかった。だが、彼に夢を観させること、勢いづかせることには、なってしまっていた。そして、そうなることがわかりきっているというのに、ぼくは故意に負けたがる自分を抑えられないのであった。悪循環でしかなかった。

 あれほど喜んでいた2度の食事にも、嫌気がさしてきていた。内容が落ちたわけではなかった。唯一の喜びまでをノサカに支配されているということに、ぼくが耐えられなくなっていたのかもしれない。

 日めくりの1枚目をちぎって捨てる。眠るまえのその儀式にのみ、ぼくは救いを覚えるようになっていた。あと4日の辛抱だ。あと3日を残すのみだ。そんな言葉で自分をなだめていた。1日も早く懲役が終ることを、心の底から望んでいた。

 変化は、6日目の2食目のあとに、訪れた。

 2人してあと片づけを済ませた。ソファへと戻っていくなか、ノサカが肩を組んできた。

「なあカズヤン。ビデオ見ながら、ポーカーやんながら、おれずっと考えてたんだけどよ」

 嘘をつけと、まずぼくは思った。彼の熱中ぶりからすれば、ありえないことなのだ。何かからぬ話に違いない。そう決めつけながらも、問いを投げかけてやった。

「ほれ。おきみやげのこったよ。おめえのケッペキショーなおせる薬、めっけたんだよ」

「ええ? でもぼく、潔癖症なんかじゃありませんよ。どうせまた、変なこと企んでるんでしょう?」

「いやあ。……あっち行ってかあにすっか」

 ところが、腰を落ち着けたあとにも、ノサカはもじもじするばかりなのである。こちらから尋ねても、テレビに目をやったりして、一向に答えようとはしない。

 ぼくはピンと来た。この日には、彼の日課が、まだ果されていない。そちらがらみの話であろうことが、読めた。しかし、新しいエロビデオを注文させられたとしても、新しいエロ本を買いにいかされたとしても、ノサカがよろこぶだけのことだ。ぼくにとっては難儀でしかない。だが、彼の言によれば、こちらにも何らかの益のあることであるらしい。置土産。潔癖症を治す薬。そんなものでありつつ、彼の快楽にもつながるもの……

 血の気が引いていくのを、ぼくは感じた。ソファから跳ねあがるや、台所へと走った。

 柳刃庖丁を手にした。居間へと1歩だけ進んでから、切っ先が肩の高さに来るように構えた。そうしていることを知らせるためで、呼掛けの言葉を大声で放った。ノサカは、まず顔だけを振り向けてきた。そののち、ねじれている首の反動を利用するようにして、すっくと立ちあがった。

「あんだおめえっ。おれをヤル気かっ?」

「やられるまえにやりますよっ」