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 過去を回想しているうちに入り込んでしまった路地、無我夢中で逃げ出してきた路地、なのである。それに至るための道順さえ、まるで見当もつかない。ぼくは泣きたくなった。堪えようと思うよりも先、目が潤んできた。ぼくは慌てて顔を下に向けた。

 空缶が震えているのが、見えた。

 どういう理由で、どういう馬鹿が、こういう場所に、こういう物を捨てるのだろう。まったく理解できない。でも、そういう奴ばかりではないから、街が空缶だらけにならないわけだ。集めて回る人が、ちゃんといる。そういうことなのだろうか。

 そこで、ぼくはハッとした。あっという間に元気になれた。空缶ではなく、中身の詰まっているショルダーバッグなのだ。拾う人は、必ずいる。そのことに思い至ったからである。 

 拾った人間が悪い奴であれば、おカネや、おカネになりそうなものを抜いたうえで、またバッグを捨てることだろう。しかし、次に拾う人間までが悪人とは限らない。

 普通の人間なら、どうするだろうか。盗るものだけ盗って捨てるということには、良心がとがめるはずだ。おカネのほかは、落し主に返してやろう。そう思うのではなかろうか。

 キャッシュカードやクレジットカードの暗証番号は、ぼくの頭のなかにしかない。母親の名前をもじったものであるが、そのことを察する手がかりさえ、バッグには入れられていない。おカネやカードのほかは、ぼくにしか役に立たないものらばかりだ。

 それでも、念のために、警察に紛失届を出しておこうか。

 いや、そうするにはまだ早いだろう。誰かのスマホを拾って交番に届けたときのことを、思い出してみろ。警官の手柄話にまでつきあわされて、解放されるまでに3時間もかかったではないか。

 拾得と紛失の違いはあるにせよ、書式は似たようなものであろう。どこで落したのかを、明確に述べる必要が出てくる。正確な場所は、ぼくには言いようがない。それならばと、警官は、付近にあった建造物について尋ねてくることだろう。ピンサロが並んでいる路地の。ぼくがそこまで言ったところで、警官はにんまりと笑い、口を挟んでくるに決まっている。別に恥ずかしいことではない、とかなんとか言ってから、自分の興味のあるほうへと、話を引っぱっていこうとするにちがいないのだ。

 加えて、である。どうして交番という所は、ああ臭いのだろう。高校まで、ぼくは卓球部に所属していた。それらの部室よりも格段に臭い。寮にも入っていたわけで、男の体臭には慣れていよう。だが、その臭気とも違う。

 いずれにしても、あんな臭い場所に長湯させられるのはゴメンだ。戸外でも、まだ暑い。交番にはエアコンも付けられていないので、ぼくの毛穴は確実に開かれるだろう。スポンジにでもなったかのように、あの臭さを、全身で吸収してしまうことになる。それを想うだけでも吐き気がしてくる。

 警官の対応の悪さ、交番の臭さを知っている者は、大勢いるに違いない。東京の人たちには、警察をてんで信用していないところがある。田舎者のぼくなんぞより、よほどよく心得ているのではないか。

そうであるとすれば、バッグを拾った人は、どうするだろうか。じかに落し主、つまりぼくと、連絡を取ろうとするはずだ。バッグのなかには、その行動を後押しするものが、わんさと入っている。スマホも含まれている。他人のそれを拾った折のぼくが、そういう事態になるまえから警官や交番の実情を知っていたのなら、やはり自分自身でどうにかしようと試みたことだろう。

 幸い、ジーパンの右ポケットの「コイン入れ」に居酒屋でのおつり、小銭を入れてある。500円硬貨が1枚、確実にあったはずだ。誰の世話にならずとも、マンションには帰り着ける。玄関ドアの鍵も……ある。ジーパンのベルトループにちゃんと引っ掛かっている。なので部屋にも入れる。

 万一の際に備え、10万円の現金が、台所のひきだしに隠してもある。だから、おカネに困ることはない。宅配サービスを利用すれば、ほとんどのことには不自由しない。

 居酒屋めぐりは中断するしかないが、1日か2日、自室で待機していたほうが賢明かもわからない。運転免許証やカード類を再発行してもらうのにも、手間がかかるからだ。あるていど待っても連絡がなかった場合にのみ、自分から行動を起せばいいだろう。そうすることに、ぼくは決めた。ひょっとすると、もうウチに電話が架かってきているかもしれない。歩きだすやで、そんなことも想われた。足早に駅へと向かった。

 無事に帰宅できた。習慣で、部屋に入るとすぐ、ぼくはテレビをつけた。そうしてから、固定電話を見てみた。伝言の録音はなかった。

 ぼくは居間で呑み直すことにした。

 そうしているうちに、胸が躍りだした。観るともなく観ていた恋愛ドラマの影響も、たしかにあったろう。バッグを落したことで、第3の女もが、拾えることになるかもしれない。そんな期待を、ぼくは抱いてしまったのである。いつになく酒が進んだ。やがては、何をするのも億劫になった。そのままソファで眠りこけてしまった。

 チャイムの音で、ぼくは目覚めざまされた。薄目を開けてみた。窓辺が明るい。朝になっているのだった。起き上がることまでは、まだしたくない。訪問者にも心当りはない。飛んで出ていって宗教の勧誘員だったことが、これまでに何度あったことか。ぼくは居留守を決め込もうと思った。

 ところが、チャイムは鳴り続けた。たてつづけに鳴っている。宗教や新聞の勧誘員なら、多くても3度。郵便や宅配便の配達員なら、とうにドアをも叩きだしているはずだ。身内の者に何かあったのであれば、電話のほうが鳴っていよう。それにしたって、10回ぐらいがせいぜいだろう。

 チャイムの音は一向にやまない。あたかも、ぼくが内にいることを、見透かしているかのようだ。新たに生まれてくる音が、残響をなぞる。部屋のなかはやかましくなる一方である。間違いであれ何であれ、出ていかなければ、音の乱打は治まりそうにない。早く始末をつけて眠り直したほうが利口だ。億劫がる身体をなだめ、ぼくは重い足を玄関口へと運んでいった。

「どちらさまですかあっ?」

 ぼくがそう叫んでからもなお、チャイムの音は続いた。不思議に思った。同じ台詞を、前よりも大きな声で噴き出しながら、ぼくは玄関ドアにある穴を覗いてみた。

 見えたのは、何の変哲もない通路の風景、であった。そのことにより、ある記憶が、ぼくの頭に蘇ってきた。真上の部屋に住んでいる、4歳になるという男の子のことだ。3ヵ月に1度くらいの割合ではあるが、なぜかぼくの部屋のみを対象に、チャイムのボタンを押しまくりにくるのである。壁に全身を預けて伸び上がらなければ、彼の指はボタンに触れることができない。それほどに密着されていては、覗き穴からはとらえられないのだ。彼は、ボタンを押すことだけに命を懸けているようなので、ドアの内側から何を言われてもまったく反応しない。やめさせる方法は、ただ一つしかない。ぼくは静かにサムターンをひねった。いきなりで玄関ドアを押し開けた。

 彼がいるであろうほうに、ぼくは目を向けていた。居室内から眺めた際に同じく、そちらには、地震以外では動くことのなさそうなものらしか、認められなかった。おや。そう思った直後のことである。半開きにしていた鉄扉てっぴの向こう側、表側で、何かが動きだす気配を感じた。次の瞬間、大人の男の下半分が見えた。続き、その片側、左か右かが、ドアと壁で縁どられた縦長の空間へ、飛び込んできた。身の危険を感じ、ぼくは目をつぶった。

「うわあっ」

 叫んだ直後に、固い音が聞えた。ぼくの右手はノブを握り込んだままであった。驚いたことにより、上体が反り返ってもいる。鉄板と鉄枠とを勢いよくぶつけたために生まれた音。それであるものと解した。

「いてててっ。おうおめえっ。おれの片足つぶす気かっ。早くドア開けろっ」

 大人の男の声が、そう言ってきた。手と目を、ぼくはいっぺんに開いた。ドアが痩せていった。代りに、髭面の男が太りはじめた。

「ああいて。わざとやりやあったんなら、ゆっさねえかんな」

 聞き覚えのある声、口調なのだった。ぼくは目をしばたたいた。黒いTシャツ。それに描かれている何かの絵にも、見覚えがあった。下あごから力が抜けた。ピンサロ通りで脅された男なのである。

 ぼくの胸の前に、髭面男の手のひら、肉太の左手が、差し出されてきた。

「なあまんごせんはっぴゃくえん」

 聞き返そう、とは思った。だが、ぼくの発声器官は、依然として機能不全に陥っていた。

 男は、同じ言葉を放った。7万5千8百円を出せ、ということであるらしい。

「バックレようったってダメだぜ。おめえはよお、刑法261条、知んねえのか? ……おう。なんとか言えよなんとか」

 男は、長い指の1本の先で、ぼくの胸をつついてきた。その新しい刺激により、ぼくの呪縛が解けた。

「あの……」

「ヘッ。知んねえみてえだな。刑法261条ってえのはな、器物損壊罪のこったよ。3年以下の懲役、またあ30万円以下の罰金だ。おめえはおれのスケの、他人たにんさまの物をこあしたんだ。器物損壊の犯人なんだよ。きのうの夜も言ったろうが、ただじゃ済まさねえって」

「あの……」

「けどよ、おらサツってとこがでっきれえなんだ。マッポどもときたら、ハジキ持ってんだけで偉そうにしやあんだろ? 中身はエロいっしきのクセしてよ。そば寄っとブタみてえなニオイがすっしよ」

 ところどころに意味不明な言葉が出てくる。しかし、警官のことについては、共感できる部分がある。軽くだが、ぼくは頷いた。

「そんでだ。おれがわざわざ、示談交渉にきてやったっつうわけだ。おめえだって困んだろ? 前科モンになっちまうなあ。……だあらよ、さっさとなあ万5千8百円よこしな。おめえが出したとこで、清算はすっからよ」

「え? 清算?」

「おうよ。おうおめえ、ドアおせえときな」

 その指示に従うため、ぼくは一歩前に踏み出した。髭面男は、彼がチャイムを鳴らしていたときの場所のほう、隣室との境目あたりへと、遠のいていった。何かを取りにいったことが、そのうしろ姿にも察せられた。

 ぼくの両眼と頭脳が直結したときだった。

「せえふがへえってたろ? これんなかによ」

 男が抱えていたのは、なんと、ぼくのショルダーバッグなのである。ここまでやってくることができた理由も、それで飲み込めた。

「2千円、そっから前借りしてんだ。電車賃とかメシ代とかよ。だあら、おめえがカネだしたら、この場で2千円、耳そろえて返してやるよ。もちろんこのバックもだ。ゲンナマがねえんならギンコ行っておろしてきな。ここで待っててやっからよ」

 意外に生真面目な奴なのが、その言葉でわかった。財布には、3万円ほど入っていたはずである。真の悪人であれば、そのすべてを使いきり、知らん顔をするはずだ。何より、彼がそう言っているからには、おカネはそのままになっていたということになろう。バッグの第1発見者が彼であることは、ほぼまちがいない。ぼくは少し嬉しくなった。

「どうなんだよ? じれってえ野郎だな」

「あの。財布のなかに、いくらありました?」

「さあ。たしか万札が、2めえはあったぜ」

 ほぼ、が取り除かれた。面倒なことの一切から解放されたわけである。3万円ほども戻ってくる。髭面男の言う示談金とやらが、ぼくにはそれほど高くないように思われた。

「ちょっと待っててください。たしか家賃のぶんが、まだウチに残ってたと思いますから」

 そう嘘を言い、ドアから手を放した。閉まる音が響いただけで、男が入ってくる気配は感じられなかった。ぼくは奥へと急いだ。

 台所のひきだしから、まず万札7枚を取り出した。そこで初めて、5千8百円という半端な額を、不審に思った。面倒なので、10枚ある千円札を、ぼくは鷲掴みにした。4枚を戻し、カッチリと木製の箱を押し込んでから、玄関口へと向かった。

 ぼくが13枚のお札を渡そうとすると、男はズボンの右ポケットをまさぐりだした。

「いいですよ、200円ぽっち」

「ぽっち? いけねえよそいつあ。勘定あ勘定だ。な」

 やがて彼は、ぼくにもう一方の手を出すように命じた。100円玉2枚をそこに載せてから、ぼくが差し出しているものを引き抜いた。片手だけで器用に、紙幣を数えだした。2つに分けた。親指と人差指で挟んでいるほうを引き抜けと、ぼくに言ってきた。千円札2枚なのは、確認するまでもなかった。

「カネのこたあ、これでおあったよな?」

 ぼくはただうなずいた。それを見届けてからで、男はズボンの尻におカネを突っ込んだ。

「よし。そいじゃ次だ」

 ぼくはただ聞き返した。

「ばかおめえっ。甘ったれんじゃねえよっ。罰金が安くすんでんじゃねえかっ。懲役が残ってんだろっ。懲役のほうがよっ」

「ええっ? どういうことですかそれっ?」

「どういうことっておめえ。……おめえはあれか? 牢屋にぶちこまれてえってわけか? ああ? どうなんでえ? そんならこのなあ万5千8百円、ここですぐに返してやらあ」

「そ。そんなあっ。ぼくのことっ。警察に訴えにいくって言うんですかっ?」

「困んだろ? 前科モンになんのはよ」

「困ります、絶対に困ります。なんとか穏便にお願いします。おカネですか? それならこれから親に電話して、なんとかしてもらいます」

「だからあ。……カネのこたあおあったかって、おらさっきそう聞いたろ? したらおめえはそれに、ウンてこっくりしたろうがよ」

「でも懲役なんて。そんなの、そんなのイヤですよ。3ヵ月も監獄に入れられるなんて」

 そこで男は、顔をよそに向けた。ボリボリと、左手であご髭を掻きだした。心配になったぼくは、彼のそちらの腕に手を掛けた。

「なんとかしてくださいよ。お願いします」

「だからあ。……30万の罰金が、なあ万5千8百円で済んだわけだろ? したらよ。3ヵ月の懲役ってのは、どうなっと思んだよ?」

「わかりませんよそんなこと」

「1週間の懲役。つうことになんだよ」

「じゃあやっぱり、どうしてもぼくを牢屋に入れる気なんですね? そうなんですね?」

「バーカ。おまありや検事がよ、んなみじけえ懲役なんかで、済ますもんかい。けっこう頭ワリイんだな、おめえは。かあいそうだあら、教えてやらあ。おれよ、名古屋いくんだ、れえ週からよ。それまで1週間、おめえの部屋に泊めろ。懲役のかありなんだから、おれのメシ代とかは、もちろんおめえが払んだ。ま、ヤならいいんだけどよ」

 ぼくは正気づいた。変だと思った。この際だから訊いてしまおう。そんな気にもなれた。

「あの。でもほら。自転車の持主、女のひとには大丈夫なんですか?」

「そこよそこ」

 そう言いながら、髭面男ひげづらおとこは、ぼくの顔に向けて左の人差指を突き立ててきた。

「おめえにぶっこあされたチャリンコのこって、女と大ゲンカになっちまってよ。ボデーガードのくせに役たたずだって、さんざっぱらののしられてよ。ついカッとなって、ひっぱてえちまったんだ。男ならわあんだろ? ……まあ、そらあそれだ。で、どうなんだよ? ヤならいいって言ってんだろ、おらあよ」

 とにかく、警察に行かれては困る。前科者にされてしまっては、親に面目が立たない。ぼくは髭面男を招き入れることにした。靴を脱いだところで、男はバッグを渡してくれた。

 トイレにいきたいのを言われ、ぼくは案内した。大きいほうだからと、わざとらしく付け足された。外で待っていられるのが嫌なのだろう。そう察し、ぼくは居間に向かった。

 バッグの中身を調べてみた。想ったとおりで、何1つ失われてはいなかった。喜びが爆発した。赤の他人が家に居着くことになるというのに、ぼくは寛いだ気分になれた。

 トイレから出てきた男は、あご髭を掻きながら名乗った。ノサカマサオ、というらしい。

「みんなにゃあ、マアくんて呼ばれてんだ。おめえもそう呼んでくんな。おめえはたしか、水谷みずたに……」

 ぼくは自分から名を告げた。

「そうだそう。んじゃ、一也かずやって呼ぶかんな」

 外見はプロレスラーのようである。口も悪い。だが、悪人ではなさそうに想われた。おカネに几帳面なこともわかっており、ぼくは気を許した。ノサカもソファに腰をうずめた。

「んじゃ一也よお。なんか飲みもん、持ってきてくれっか? ジュースかなんかねえか?」

「りんごジュースで、いいですよね?」

 ぼくは取りにいった。自分のどこかが燥いでいるのを、自覚した。ジュースをコップに注ぎながらで、探りを入れてみた。友だちが遊びにきているような気が、しているのであった。

 ノサカは咽を鳴らして飲んだ。

「くあーっ。……うめえっ。こいつあげえこくのジュースだろ?」

 ぼくは誇らしい気分になった。ジュースとワインだけは、それぞれの専門店まで、わざわざ買いに出向いているからだ。

「飲みますか? もう1杯」

「あとでな。もってえねえからよ。……そうだそう。おめえはあれ、ヤニはこくんかい?」

 言葉がわからず、問い返した。タバコを喫うのか。そういう意味なのだった。

「そいつあよかった。おらガキんころからあれがダメでよ。鼻がアレルビー起しちまんだ。こくんなら、おれのいねえとこでやってもらおうって、そう思ってたんだ」

 こちらからも質問してみることにした。

「だけどマサオさん」

「マアくんて呼びな、キモイからよ」

 明らかに年長とわかる相手を「くん」づけで呼べるほど、ぼくは無神経ではない。マアさん、にしてもらった。

「ぼくが部屋にいるってことが、よくわかりましたね。あんなにしつこくチャイムを鳴らしてたんだから、なんか確信があったんでしょ? どうしてわかったんですか?」

「あんな。ワリイんだけどよ。おれおめえの手帳、読んじまったんだ。なんだか日記みてえなこっが、ぐっだぐだ書いてあったろ? ……それ読んで思ったんだ。こんなボッチが、でえじなバックなんかなくしたら、部屋んなかでおいおい泣いてんに決まってってよ。ケヘヘヘヘ」

 侮蔑されたのを思い、ぼくは本気で怒った。後先なしに立ち上がりもした。

「ああおっかねえ。んなに怒んなよ。悪かったよ。……それによ。どうせおめえ、プータローなんだろ? 手帳によっとよ。おれがここにいんのは、1週間だけなんだ。なかよく、楽しくやろうぜ。な」

「それならさあっ。ぼくのことボッチだとかもう言わないっ?」

「わあったよ。口が裂けても言わねえから。機嫌なおして座れよ。な、一也。ほれほれ」

 催促されるままに、ぼくは座った。

 冷静になれたのは、ややあってからだった。言い返した甲斐があったように、まずは思われた。ノサカが、聞く耳を持つ男であるということが、わかったからだ。ヤクザなのかどうかは、いまだはっきりしない。刑法に詳しいことからすれば、そうである可能性のほうが大きい。しかし、何かにつけて暴力をふるってくるようなチンピラでないことは、この一件で判明したわけである。一緒に過ごすに当たっては、彼が何であるかということより、彼がどういう気質であるかということのほうが、大きな問題に違いない。穏やかにやりたいと、ノサカみずからもが言っている。こちらでも譲れるところは譲ろう。ぼくはそう決めた。

 手帳を読んだからなのであろう。ノサカは、ぼくに関してのデータを、ほとんど知っているのだった。初めのうちこそ嫌な気がしていたものの、いつしかぼくは、そのことに喜びを覚えるようになれた。話題にされる人物が常に自分、ぼくなのである。そんなことは、生まれてから1度も経験したことがなかった。誰よりもぼくのことを知っている人間にして、ぼくではない人間。ノサカとの間柄が、とても近しいものに思えてくるのだった。

「マアさんは身長、いくつなんですか? そんなには、ぼくと変わらないと思いますけど」

 たまさかで、ぼくのほうからも質問した。

「おらあ185チンポだ、ハハハ。おめえは……。181の62キロだったよな、手帳によっとよ。目方めかたあ、40キロぐれえ違うな」

「ええっ? 100キロ以上もあるんですか?」

「おうよ。この仕事やってっと……」

「そうそう。お仕事、何されてるんですか?」

 突っ込んだ質問に発展させると、必ずや一旦、彼は口を噤んでしまう。そしてまた、それまでとはまるで無関係な、ぼくについての話を、思い出したように始めるのであった。