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 『おれのおなかの上でクイクイと、優子りんにクリソツな女が動いてる。そのようすを見てて、おれはどうにもたまんなくなってきた。ああ。しあわせになりたい。女のことがおかあさんみたく思われて、おれは必死でしがみついた。』

 編集者みずからが酒でも呑みながら書いたにちがいない変な投書、エロ雑誌の文章を思い出すことで、ぼくは笑顔を偽造しつづけた。

 だが、その夜もやはり、1時間強が過ぎると、ぼくは苦しくなってくるのだった。メニューを繰って食べたいと思えたものらは、すべて頼んでしまっている。2口目からは、どれもが同じ味になっていた。

 従業員たちは、きびきびと接客している。けれども、彼らが、彼らのほうから、ぼくの注文を取りにきたり、空いた皿を片づけにきたりしたことは、1度たりともなかった。人目につきやすいカウンター席に、ぼくが着いているというのにである。

 2本目のビールが空いたのをしお、ぼくはその居酒屋を出ることに決めた。心の腹は、やはり満たされなかった。

「さあさっ。いかがですかっ? いまならホーテーエートのメンバーに似たギャルがっ。よりどりみどりですよっ。……お疲れさまです社長っ。……あちょっとっ。そこのカッコイイおにいさんっ」

 ぼくのことであろうか。期待半分でふりかえってみた。だが、キャバクラの呼込みのおっさんは、ぼくを見てはいないのだった。はっきりと違う方向を見ているのでもなかった。彼の目にぼくの姿も映っているということは、ほぼまちがいない。けれども、その視線は、明らかにぼくをまたいでいるのだ。首を前に戻して、ぼくは気づいた。ぼくの前を行く、ぼくと同じ年頃の男がいることに、である。腹立たしさが込み上げてきた。ぼくよりもかなり小さい、ぼくよりもぜんぜんショボい男なのが、しかと認められたからだ。せめてもの腹いせに、そいつを追い抜いてやろうと思った。ぼくは歩速を上げた。躍起になった。そんなときの常で、何の慰めにもならないことを、あれやこれやと考えはじめた。

 

 どうしてぼくは、こうまで避けられるのだろうか。いや、それは正しくない。無視される、というのとも、絶対に違う。そのことがわかるのは、そういう扱いを受けていた人間たちを、これまで24年の人生で、何度となく見てきているためだ。空気のように思われる、とでもいえば、聞えはいいだろう。だが、その実は、他者から意識されない、感情を催されない。「されない」のである。

 実の両親にまで「されない」徹底ぶりだ。

 ぼくは1人っ子である。溺愛されていてしかるべきだろう。それなのに、父母と一緒に何かをしたという記憶が、ほとんどないのだ。

 ぼくの世話をしていたのは、複数の大人の男女であった。彼らが使用人たちであること。毎日のようにお土産を買ってきてくれる男女こそが、自分の実の両親であること。そういった事実がぼくにも理解できるようになったのは、幼稚園に入ってからであった。お父さんとお母さんを描きなさい。先生からそう命じられ、しわまみれの顔の2人を描いたためだ。しかし、ぼくの生活には、何の意味もないことなのであった。本物の二親が、運動会や父兄参観に来ることは、その後にも1度としてなかったのだから。

 とはいえ、親は親だ。ぼくにさっぱり友だちができないということだけは、気にかけてくれていたらしい。学費の高い、全寮制の私立高校へ上がることを、勧めてくれた。3年も寝食を共にしていれば、友情が芽生えないわけがない。そう励まされ、ぼくもそれを信じた。嬉々として家を出たのだった。

 その3年間もまた、虚しく終ろうとしていた。ぼくは、それまでの自分をリセットしたかった。1から出直せる新天地を求めようと決めた。どうせなら、危険と同じくらいに希望もあろう場所、大都会がいい。東京の私立大学に進むことにした。

 幸い、高校は進学校でもあった。ぼくの学業成績は良くも悪くもないものであったが、いわゆる学校推薦入試というやつを、受けさせてもらえた。そのおかげでなのか、さほど根を詰めて勉強したわけでもないのに、合格することができた。早慶のような超1流どころではなかったが、ぼくは大いに満足した。東京に行けるのなら、大学名や学部など、どうでもいいのだった。

 学費や家賃はこちらで支払うが。何かあったときに困るだろう。友だちと遊ぶのに使ってもかまわないから。そんなことを両親は言い、ぼくが東京に出るのに際して、ぼく専用の預金通帳とキャッシュカードを作ってくれた。だが、それだけだった。都内の1等地に1LDKのマンションを借りることやら、そこでの生活に必要なものらを方々から買い集めてくることやら。そういった面倒なことのすべてをやってくれたのは、両親の会社の若手社員たちなのであった。

 ともあれ、ぼくの東京でのひとり暮し、大学生活が始まった。

 ところが、やはり、何の変化も起きないのだった。相変らずで、ぼくはボッチ、ひとりぼっちなのである。寮生活のときには存在した疎ましい2人。管理人のおじさんとまかないのおばさんすら、ここにはいない。勢い、ぼくは内向した。大学へいく以外は、本を読んだりパソコンで動画を観たりして過ごすようになった。無意識のうちにひとりごとを言う癖が、ますます悪化していた。

 そんな生活を送るうちにも、ぼくは成人した。大人になったのである。もううかうかしてはいられないと思った。「本当の男」になろうと決めた。そのための情報なら、定期講読している3種の猥褻わいせつな雑誌で、ふんだんに仕入れてある。

 少しのお酒を呑み、たくさんのおカネを持って、ぼくは浅草のはずれにある色町へと向かった。勇気をふりしぼり、特殊ソープ浴場ランドの1軒に突入した。

 相手をしてくれた女は、ぼくの好みのタイプではなかった。けれども、ぼくが知っている人間の誰よりも、ぼくにやさしくしてくれた。ぼくは、心まで包んでもらえた気がした。それでなのか、「本当の男」にも、すぐになれた。時間が有り余っているので、もう1回どうか。そう問われたが、ぼくは断った。そんな時間があるのならと、身の上ばなしを切り出した。ぼくの一言一言に、女は大きく相槌を打ってくれた。途中からは、手まで握ってくれた。

「そっかそっかあ。……でもなんでだろうね? タッパもあるしスリムだし、イケメンなのにい」

 色町用語なのか、意味のわからない言葉がときおり出てくる。

「ああ。せたけのこと。何センチ?」

「181です。ぼくって、イケメンなんですか?」

「うん。ホントとなら、こういうとこに来なくっても、済むひとなんじゃないのかなあ。カノジョができなかったのは、ずうっと、男子校にいたからじゃないのお?」

「でも大学に入ってからは、違うわけですし」

「なるほどお。……あそうそう、スマホのあれ。出会い系とかは、知ってるでしょ?」

「もちろん知ってます。でもぼく、スマホは、通話するときにしか使わない主義なんで」

「ふーん。……あのさ。あたしきょうはもうこれで上がりだからさ。どっかこのあと、呑みいいこっか? どおお? それとも、あたしなんかじゃイヤ? アハハハハ」

 そんなことが縁で、ぼくは生まれて初めて、友だちらしい友だちを得られたのだった。しかも、異性の、である。それからしばらく、ぼくはそのマヤ、本名が恵子けいこという3つ年上の女に、没頭することになった。いや、ハマりまくった。

 まだ若いくせに、身体ではモノを言ってこない。いつもビクビクしている。退屈だ。恵子からそう詰られ、ぼくはかなり落ち込んだ。さらには、もう会いたくないとまで言われた。ぼくは自己改革を誓い、1週間だけ猶予がほしいと縋った。

 その日のうちから、ぼくは『高麗人参マカまむしスッポン粉末』の服用をはじめた。口髭を蓄えだした。手品の道具を買い込み、大学をサボって憶えた。

 しかし、すでに遅かった。

 7日目の朝に恵子と連絡を取ろうとしたところ、彼女のスマホのみならず、部屋の固定電話までもが、通じなくされていた。その702号室のあるマンションへと、ぼくはタクシーで飛んでいった。

 彼女は引っ越してしまっていた。勤め先も訪ねた。そちらは、5日前に辞めているのだった。

 恵子の代役を求め、ぼくはさまよいだした。他の特殊ソープ浴場ランドへも行った。ピンサロやキャバクラにも入ってみた。誰かが付きっきりで話し相手になってくれるのであれば、どんな施設でも構わないのだった。だが、そんな店、そんな女を、見つけることはできなかった。

 やがて、ぼくにも悟るときが来た。誰も彼もが、ぼくとではなく、ぼくの持っているおカネと、友だちになりたがっている。そのことに気づいたのだ。恵子だけが、特殊な人間だったのである。ぼくは一遍にシラケた。法外な送金を続けてくれていた両親に、あやまりたくなった。話したくて気が狂いそうになったときにのみ、女の奉仕を得られる店にいくことを、自分に許すことにした。

 最終学年を迎えた。就職先を探す必要は、ぼくにはなかった。両親が営む会社に入ることを、決められてしまっているからである。

 だが、大学を卒業してすぐに仕事に就くという気には、どうしてもなれなかった。たった1人だけでもいい。実家に戻るまえに、友だちと呼べる存在をつくっておきたい。そんな思いで一杯なのであった。東京に居座る口実を、ぼくは探しはじめた。

 文学部国文学科を、卒業することとなる。それを楯に取ることを、ぼくは思いついた。小説家を目指したいのだと、両親に言ってみることにしたのだ。28までなら。身内の話を書かないのなら。そういう条件で、了承を得られた。

 小説を書く気など、頭からないわけである。

 大学が終ってしまうと、いよいよぼくは時間を持て余すようになった。夜には、酒を呑んでばかりいた。もちろん、ボッチでだ。

 それは、大学を出た年の夏の終り、去年の8月下旬のこと。繁華街に映画を観にいった帰りのこと、であった。

 騒々しいのが嫌いだというのに、その手の店が苦手だというのに、ぼくはついふらふらと、居酒屋の1軒に入ってしまっていた。呑みながらで夕食を済ませたい。そういう考えが、頭のどこかにあったのかもわからない。

 一方、通常どおりの考えも、あるにはあったようだ。レストランに行ってもそうしているように、対面式の席には着かなかったからである。前に人が座っていないのを認めながらでは、食も酒も進まない気がしていたに違いない。

 カウンター席はL字型になっており、その内側では、頑固そうなおっさんが焼鳥の串を回していた。先客が1人いた。若い女だった。好みのタイプではないというのに、ぼくの目はそちらへと吸い寄せられた。座ったとき、図らずも目と目が合ってしまった。照れもあり、ぼくは慌ててよそを向いた。食べることと呑むことにのみ、神経を傾けようと心した。

 いつしか、ぼくは呑むだけになっていた。そろそろ帰ろうかと思ったところで、であった。あろうことか、先の女が、ぼくの許にまでやってきていた。一緒に呑まないかと言う。ははあ、勘定を持たせようという魂胆なんだな。そう思ったぼくは、代金を計算しながら呑み食いしているのだと、その女に嘘をついてやった。

「じゃあ。いっしょに呑みだしてからのおカネは、あたしが払います。ちょうどきのうお給料日だったし。それならいいんでしょ?」

「でも……。なぜなんですか?」

「デヘ。訊くだけ野暮ってもんでしょうが。ビナンシってえのはどうもあのこの、頭の血のめぐりが。ねえお嬢さん」         

 口を挟んできたのは、頑固そうに見えたおっさんである。承諾を得られたものと思ったのか、女は勝手に、ぼくの隣に座りにきた。

 その夜からのぼくは、恵子がいたころのぼくと、同じになってしまった。その女、安江やすえが、ぼくの生きる楽しみになってしまったのだ。

 1年が過ぎた。会社から帰ってくる安江を、彼女の住むマンションの前で、毎晩のように待った。上司に叱られたという日などは、涙まで流して喜んでくれた。うまく行っているものと、ぼくは信じきっていた。一緒に棲まないか。そう言ってみようと決心した矢先のことだ。彼女もまた、恵子と似たような言葉を最後に、ぼくから去っていった。2週間前のことである。

 2度あることは3度。そう思いながらも、3度目の正直を、ぼくは願っているのだった。安江に声を掛けられたのは、居酒屋である。そんな理由だけで、ぼくは毎晩、前の晩のそれとは違う店へ、足を運んでいるのだ。きのうも今日も。きっと明日あすもあさっても……

 

 額が汗まみれになっていた。ぼくは足を止めた。ハンドタオルを、ショルダーバッグのなかで探った。

 タオルに視界を遮られなくなったところで、ぼくは軽く驚いた。いつの間にか、人どおりの少ない路地に、入り込んでいるのだった。右側にはピンサロ、ピンクサロンが、軒を連ねている。呼込みの声が響いている。ちょっとそこのお兄さん。そんな声も混じっている。フン、どうせぼくのことじゃないんだろう。そう思うと、とろ火になっていた怒りの炎が、再びごうごうと燃えだした。ぼくは幽霊や透明人間じゃあないんだ。そのことを、この場で、どうにかして、誰にともなく、知らしめてやろうと思った。

 タオルをバッグに戻してから、ぼくは腕組みした。あたりを睨みつけた。ピンサロ群の対岸が駐輪場になっていることを、認めた。手近なところに、1台だけ、他とは違った向きにめられているものがあった。その自転車に、ぼくの目は釘づけにされた。それがあたかも、ぼく自身の姿であるように想われたからだ。憎らしさと恥ずかしさで、全身が震えだした。

「くっそおっ。こうしてやるっ」

 そう叫んだときには、ぼくはその自転車を持ち上げていた。憎らしさのほうが、重たくなった。渾身の力で、自転車を道路に叩きつけた。細身で非力なぼくのことである。ぶん投げた勢いで、1回転してしまった。肩に掛けてあったバッグも、どこかへふっ飛んでいた。

 駐輪場にある2台の谷間に、バッグが落ち込んでいるのが見えた。当然のこと、投げつけたもののほうが近くにある。自分の所有物を拾うのはあとに回し、ぼくはさらなる攻撃を開始した。道路に仰向けになったままで、自転車を蹴りはじめた。

 その数回目に、ぼくはあることに気づいてしまった。その蹴りかたと、平泳ぎするときの脚の動かしかたとが、そっくりだということにである。自分のことが、いきなり裏返しにされたガマカエルのように思えてきた。何たるぶざまさであろうか。泣きたくなるほどに腹が煮えた。ぼくは脚を交互に動かしだした。その代り、蹴る速度を上げた。

 自転車の悲鳴がかまびすしくなった。駄々っがおねだりしているときの声。そんなものででもあるかのように、ぼくの耳には聞えた。おもちゃ屋の店さきに寝そべって脚をばたつかせている子供の様子が、頭に浮かんできた。イボガエルの次はそれか。自分に経験のないことまで想ってしまうのは、蹴ることに集中できていない証拠だ。足を飛ばすごと、ぼくは罵声を噴き上げることにした。

「てっめえっ。……このクソ野郎っ。……ふざけんじゃねえっ」

 コラッ。次にそうののしろうとしたとき、あろうことか、その言葉が上から落ちてきた。ぼくは驚愕した。動けなくなった。直後、固く閉じていたはずの目が、開いていることに気づいた。あご髭のある男の顔が、ぼくを見下ろしているのが見えた。

「おうおめえ。おれの女のチャリンコに、何こいてやがんだよ。おお? ただじゃ済まさねえかんな。……おら。さっさと立ちな」

 怒鳴られはしなかったが、ドスの利いた声ではあった。

 相手がTシャツ姿だからといって、ヤクザでないとは限らない。ましてや、繁華街の裏側、ピンサロが並んでいるような通りに、いるわけだ。いずれにせよ、ただでは済まされない、のである。そこまでを考えたところで、ぼくは片腕を掴まれた。

「ボサッとこいてんじゃねえよ」

 男の手に、こちらを引き立てようとするほどの力は、感じられなかった。こちらが逃げないことを見越しているかのような、甘い握力しか、かけてきていない。チャンスだと、ぼくは思った。両方の靴底が道路を踏みしめ、腰に力を入れられるようになったところで、ぼくは男の手を払い除けた。

「あこらあっ」

 徒競走であれば、間違いなくフライングであったろう。男の声が爆ぜたとき、ぼくの両脚は、すでに大回転をはじめていた。走ることしか考えられなかった。一目散に逃げた。

 人どおりの激しい往来に、ぼくは飛び込んだ。ジグザグに小走りしたうえで、うしろをうかがってみた。追ってくる姿は、どこにも見られなかった。

 ビルの1つに寄り掛かってから、ぼくは足を止めた。深呼吸を繰り返しながら、下あごにまつわり付いていた汗の玉を、手の甲で払った。本格的に顔を拭こうと思ったところで、はたと気づいた。駐輪場にめり込んでいたショルダーバッグを、拾わずに来てしまっているのであった。