そのときである。揺らめくように歩いていくうしろ姿が、私の脳裏に映し出された。検査部屋からの通路を、とぼとぼと歩んでいた自分なのではないか。当初はそう思った。しかし、丸まった背中が一つではないことに、ほどなくして気づかされた。いずれのものにも見覚えがあった。私は息を吸えなくなった。

 この自分に処女を奪われた少女たち、そして無慈悲に捨てられた彼女たち。それらのうしろ姿にちがいないのだった。まるでベルトコンベヤーの上を歩かされているかのように、いずれもが前に進みあぐんでいる。彼女たちのその悶えが、私の体内に押し寄せてきた。ひどい息苦しさが、申し訳ないことをしてしまったという気持を、瞬時に膨らませた。

 救われたい一心によってであろう。私は合掌していた。そこで、頭のなかに観えていた一切が消え失せた。円滑な呼吸も可能になった。弁護士の最後の言葉が、また蘇ってきた。このときには、それを気休めだとは思えなかった。

 

 どういう工作が行われ、どれだけのカネがばらまかれたのかは、わからない。記録の残っていたスピード違反を除き、私は罪を免れることとなった。

 

 それから一年ほどが過ぎた。帰国したいことを、私は本社に申し出た。私が監獄で囚人の男たちに輪姦されたらしい。そういう噂が、全米の店に広められてしまったからである。出元は明らかだった。しかし、吹聴したのは、その上にいる男であるように、私には想われた。定期的に各支店を回るのが、その男の務めだからだ。先手を打ち、私の口を封じてしまう。そうすることで、沢田に恩を売り、トニーとの取引を拡大しようと計ったのではあるまいか。

 それでかどうでか、私の希望はすぐに容れられた。噂というものは、たっぷりと尾鰭を付けられ、あとから泳いでくる。恐ろしい泳ぎっぷりで、太平洋ですら渡ってくるのが、目に見えていた。帰国するや、私は倉庫会社そのものも辞めてしまった。

 ロサンゼルスのアパートでの失言を、悔いる気持もないではなかった。だが、セレスタイン弁護士の励ましの言葉を思い出すことで、私は乗り越えた。次の勤務先も、海外駐在の経験を買われたらしく、想っていたよりも早期に見つけることができた。

 倉庫会社の同期たちとは、その後にも交流を保っていた。退社してから三年後の酒席で、高山ロサンゼルス支店長が急死したことを、唐突に聞かされた。それから二年後の酒席では、私が在籍していた当時のアメリカ社長、大北氏の事故死が、話題の一つとなった。

 わずか五年のうちに、恨めしい二人の訃報に触れられたわけである。この世はやはり、正義が勝つようになっているのだ。二人目のを聞いた夜中、私はベッドでうれし泣きした。

 しかし、巨悪が相手の場合には、束にでもなってかからないと、正義にも勝ち目はないものとみえる。

 帰国してから十年が過ぎ、私は三つ目の会社へと通っている。

 沢田だけは、相変らず経済新聞のなかで微笑んでいる。世界屈指の家電メーカーの社長としてではなく、その会長としてだ。ほぼ毎朝のようにである。その写真は、彼が社長になってからというもの、一度として取り替えられたことがない。 

                                  ( 了 )