〝つまりその.ざっくばらんに言えば‥‥.きみはその二人の婦警に,オモチャにされたんだ.イタズラされたんだよ.性病にせよエイズにせよ,尿と血液を採取すれば,保菌者かどうかはわかることなんだ.日本ではどう検査するのかを,僕は知らないけど〟

 私も知らなかった。知っていればもちろん、拒絶していたに決まっている。二人の婦警、しかも中年の肥満した黒人女たちに、なぶりものにされた。そればかりではなく、検査方法すら知らない土人、いや猿だとも、侮られていたに違いない。前にいる小男とて、そう思っているのではないか。言葉尻に、そんな気配もうかがわれる。私は逆上した。

〝そんなあっ.あなたは弁護士でしょっ.何とかしてくださいよっ.僕の人権が蹂躙じゅうりんされたんですよっ〟

〝落ち着いてくれよサック〟

〝モニカとフェイっていうんですっ.婦警たちの名はっ.モニカのほうは警部補って呼ばれてましたっ.二人とも6フィートぐらいありますっ,ひどいデブですっ.二人がいるのはトーランス市の警察署の監獄ですっ.それだけわかればどうにかできるでしょっ?〟

〝残念ながら無理なんだ,サック〟

〝どうしてですかっ? 教えてくださいっ〟

〝わかった話そう.ただし,きみが落ち着いてくれてからだ〟

 私は意識して深呼吸をくり返した。タバコを喫いながらでも話をしてくれるのかを、ややあってからセレスタインに尋ねた。

〝もちろんいいとも.そんなことを訊いてこられるようになったんなら,少しは冷静になれたんだろうね.‥‥じゃあ,ぼちぼち話そうかな〟

 血液検査を省くことで、婦警二人はイタズラに及んだ。個室が塞がっているということも、恐らくはデタラメであったものと想われる。事実そうであったとしても、独房か雑居房か、その選択権は私に保証されている。私が大部屋を拒んだ場合には、他の警察署の拘置所へ移送する必要があった。

 もとよりがイタズラであったため、私に検査結果を告げねばならなくなると、二人は困惑したにちがいない。そこで折よくも、病気がないという自己申告があった。嘘であろうが誠であろうが、私を検査部屋から出してしまいさえすれば、どうとでも言えるので、二人は同調した。

 そんなところではなかろうか、と言ってから、セレスタインは口調をゆるめた。

〝傷跡でも残ってればと思ったんだけどね.僕はきみの弁護士だ.当然のこと,贔屓目ひいきめに見た.それでもわからなかった.そうであれば,訴えることはまず不可能だ.酔っぱらって,夢でも見てたんじゃないのか.そう言われるのが関の山だ.医者の診断書が取れたとしても,デブの婦警どもにそうされたなんてことは,立証できるはずもない.だから僕は,イタズラした女どもに代って,同じアメリカ人として,きみに謝ったんだ.それに,相手は警察なんだぜ.あいつらが,自分たちを困らせるような事実を,おいそれと認めると思うかい? 日本の警察は,ちがうのかい?〟

 呆然としている私の頭に、大学三年のときの悔しい出来事が、浮かんできた。

 

 大晦日の夜を、帰省しない級友のアパートで過ごした。年が明けてから帰路に就き、自宅まで一キロほどという路上で、私は衝突事故に遭った。信号が青だったのでそのまま突っ切ろうとしたところへ、対向車が、交差点内で一時停止することなしに右折してきたのである。ハンドルを切る間もなかった。私の車の鼻先が、相手の車の左脇腹へ食い込んだ。

 助手席の男と後部座席の男が血達磨ちだるまになっているのが、ぼんやりしている目にも見えた。車は大破していたが、私は無傷で済んでいるようであった。ドアが開かなくなっていた。下から煙が湧いてきていたこともあり、フロントガラスのなくなった空洞から、私は車外へ這い出た。相手の車に動きは見られない。全員が気を失っているものと思われた。

 通りがかりのひとが連絡してくれたのであろう。消防車と救急車はすぐに来た。しばしの間をおき、パトカーも到着した。相手の車の乗員は、運転者以外、瀕死の状態にあるという。二台には水が掛けられ、怪我人たちは搬送されていった。

 警察の事情聴取が始められた。呑んだ帰りだったとのことで、私と同い年だという運転者は、嗚咽にまで酒のにおいを漂わせていた。

 事故現場、片側三車線の道路は、三つの市の境界線でもあった。そうであることによるのか、別の警察署からのものと想われるパトカーが二台、あとから駆けつけた。そのときには、事情聴取が終りかけていた。

 現場検証が行われることとなった。そこで、相手の運転者が、嘔吐したいのを言いだした。逃げられるのを疑ったのか、事情を聴いていた警官が一緒に付いていってしまった。私一人が現場に佇んでいると、一人の中年の制服警官が近づいてきた。何か質問でもあるのだろうと思い、無防備に構えていたところ、いきなり顔を拳骨で殴りつけられた。

「何すんだよおっ」

 路上に倒されたままで、私は抗議した。

「バカ野郎っ。ヨッパライ運転なんかしやがっててめえこの野郎っ。しかも元日そうそうになんだっ。俺らをそんなにコキ使いてえのかっ。警察ナメやがってこのガキャアッ」

「俺じゃないっ。俺は直進してたほうだぞっ」

「このウソつき野郎っ」

 そう言うと、その中年警官は私の太ももを蹴った。さらに蹴られそうなので、私はその膝下に抱きついた。

「放せよコラッ。おめえの相手はっ。今ごろ病院でおシャカになってらあっ。見ろあの車をっ。あんなんなってて助かるわけねえだろっ。放せってんだよっ。この人殺しがっ」

 そこへ、他の警官たちが駆け寄ってきた。私が直進車の運転者であることを言った。殴ってきた中年警官は、あわてて私から離れた。他の警官の許へと、頻りに足を運びだした。同じ制服制帽姿である。どうにか私の目を晦まそうと計っているのが、明らかだった。スーパーやデパートの店員のように胸に名札を付けているわけでもない。奴の外貌を、私はしっかりと目に焼き付けた。メハフタエ、クチビルアツメ、ヒゲハコイ。奴の名前を、警官同士の話に耳を澄まして聞き取った。「タカハシ」と呼ばれていた。

 私の過失は「前方不注意」のみ。そういうことで、事故そのものは処理された。

 だが、もちろんのこと、私はそれだけでは引き下がらなかった。人定もせずに鉄拳を見舞ってきた相手、顔を腫らされた相手を、何としても見つけ出そうとした。何らかの処罰が為されて然るべきだと思っていた。外科医の診断書も取ってあった。事故現場には、殴ってきたのも含め、警官が六人はいた。その内の数人は、所属する警察署が異なる者らである。暴行を働いた当人が否定したとしても、誰かが証言してくれるに違いない。なぜなら、彼らは警察官、正義の味方だからだ。私はそう信じていた。いや、信じきっていた。

 しかし、その期待は、ものの見事に裏切られた。私が足蹴にされているのを間違いなく目にしていた、運転者双方から事情聴取をした警官までが、口を噤んだのである。

 結局、野犬に噛まれたのと同じで、泣き寝入りせざるを得なくなった。殴られ損に終らされた。悔しさだけが、私の心に深く刻み込まれることとなった。

 

 灰が落ちそうだという、セレスタインの低い声が飛ばされてきた。それで、私は現実に引き戻された。タバコを消してしまった。

〝ショックなのはわかるよ,サック.でも諦めるしかないんだ.客観証拠もないし,証人もいないし.だけどサック,きみの飲酒運転の罪を消滅させることだけは,僕は確約するよ.だってあいつら,きみに酒が入ってたっていうデータは,何一つ採ってないんだからな.はじめにも僕は言ったが,きみが僕に言ったことは,すべて言わなかったことにするんだ.いいね? そのほかのことは,僕のほうでうまく片づけるから.わかったね?〟

 こののちに彼のやろうとしていることが、そのあとには語られた。陪審員の過半数を買収し、一切の私の罪を揉み消す。要はそういうことなのであった。

〝それじゃあサック.この次は裁判所で会おう.進捗状況は逐次連絡するし,裁判の前日にも電話するよ.もし何か不明な点が出てきたら,遠慮なく電話してきてくれ.‥‥あそうそう.実はこのシンディは,僕の秘書なんだが,僕の妻でもあるんだ.もし僕がいなくても,彼女に伝言を頼んでくれ.僕自身からじゃないかもしれないけど,必ず回答するからさ.‥‥大丈夫だよ.すべてうまく行く.だから元気だしてくれよ,サック.過ぎたことを悔やんでも,何も生まれやしないよ.これから,いやちがう,もう今からだ.前に延びている時間を,楽しく生きていくことに専念するんだ.わかったね?〟

 受付の前でそう言われると、初めて顔を合わせた際に同じく、握手を求められた。私は上の空で応じた。セレスタインの事務所を出たあとにも、エレベーターに乗ってからも、頭のなかの半分ほどは白いままであった。

 地下で車に乗り込もうとしたとき、キーホルダーに目を奪われた。なぜなのかはわからなかったが、釘づけにされた。

 両手で腰を挟み、胸を反り返らせているミッキーマウス。それが、私の右手の親指と人差指の谷間で、寝転がっているにすぎない。その陽気な顔が、弁護士の気休めの言葉に、似合いすぎているからなのか。そんなことを思っただけで、私は動きを再開した。頭に立ちこめていたもやがすっかり取り除かれていることに気づいたのは、左手でドアを閉めたときであった。身体も熱くなっていた。

 視界が揺れはじめた。腹が膨らんだかと思うと、吐息がスタッカートを切った。下目蓋に重みを感じた。泣きだしていることを、そこで私は自覚した。だが、それを阻もうという意思は、まるで湧いてこない。透明の目蓋が迫り上がってきた。その上から、私は目に暗幕を掛けた。男の泣き叫ぶ声が聞えてきた。頭部すべてが耳になってしまっているように想われた。鼓膜への振動と、喉で起きている振動とが、重なりあっているのだった。

 疲れてきた。涙を拭ったティッシュペーパーで鼻をかんだ。それを機に、号泣していた原因を、私は自分に探ってみた。

 キーホルダーのミッキーマウスに、誘発されたのだった。そのポーズに、太った中年黒人女どもにオモチャにされていた自分の姿が、かぶさったようなのである。自分は女どもに犯されたのだ。性器の未開の部分に、女の怨念を捻じ込まれたのだ。もう自分は、清い身体ではなくされてしまったのだ。そんなことが思われ、私は目を固く閉じた。続いて大きく息を吐いた。