「ご苦労だったな。沢田さんは今朝、無事に日本にお帰りになった。事情はすべて、きのうの朝、沢田さんからのお電話でうかがった。放っておいてすまなかったが、警察に嗅ぎつけられる恐れも、あったんでな。ところで、きみはなぜ電話に出なかったんだ? きのうの午後からずっと、坂本君に電話させてたのに」

 坂本君とは、私の直属の上長、家族もちの先輩駐在員のことである。それはともかく、高山の言葉により、私は時間が気になった。壁時計へと目を飛ばした。十一時を少し過ぎたところだった。隣の部屋の窓からは、陽光が差し込んでいる。ということは、午前である。飲食はおろか、排泄もせず、二十四時間以上も眠りこけていたことになる。そうとわかると、俄然、下腹部が疼きだした。しばしの間を高山に求め、私はベッドから転げ下りた。

「昏睡状態に、あったってわけか。無理もない。言葉に不自由がない、機転の利くきみだったから、まだそれで済んだんだ。ありがとう。ほんとにご苦労だったな」

 高山は前方に向かって頭を下げた。儀礼的に感謝の気持を表したにすぎないことが、丸わかりであった。トイレでの用を終えたのちの私は、彼と横並びになっていたからだ。

「いや、任務をまっとうしたまでです」

「ありがとう。俺も今朝、ニューヨークから戻ったんだ。そのまま空港で待機して、沢田さんをお見送りした。そのあとに、沢田さんを空港までお連れした坂本君から、きみが電話に出てこないってことを聞かされて、すっ飛んできたってわけなんだ。でも無事で何よりだった。……女のことも、沢田さんはとても喜んでおられた。ニューヨークに行ってた俺の代役を、堅物の水谷君や坂本君に頼まないでよかったって、しみじみ思ってるんだ。あの二人だったら、沢田さんの楯になんか、なってくれなかったかもしれない。新人なのによくやってくれたって、ニューヨーク本店の大北社長も、すごく感心されてたぞ。俺も面目が立ったよ」

 あの野郎め、とだけ私は考えていた。他人を身代りに立てさせて難を逃れるばかりか、ぬけぬけと白人女の身体まで貪っていたことが、判明したからである。どういう神経をしているのかと、憤りを覚えた。同時に、それほどの図太い神経をしていないことには日本を代表する家電メーカーの頂点になど立てないのであろうと、合点が行く気もしていた。

「おいどうした?」

 そう問われ、我に返った。

「あ、すいません。それで支店長。僕はこれから、どうなるんでしょうか?」

「ああ。各支店に当たってみたけど、運がいいのか悪いのか、警察の厄介になったってのは、一人もいなかった。ほんとはいるのかもしれんが、俺はアメリカのナンバー2だ。まあ言わんだろう、そんなこと。それで俺は、ウチの支店にいる、現地日本人スタッフに当たってみた。第二倉庫の山上所長、あのひとが詳しかった。ほら、彼は大酒のみだろう? 捕まったことがあるとは、さすがに言わなかったけど、いろいろと教えてくれたよ」

 裁判を、私は受けねばならないということである。

 日本でも、過度のスピード違反で捕まった際などには、簡易裁判を受けさせられる。書類上のことだけで済む、文字どおりの簡易なものだ。そちらならば、私には経験があった。

「もちろん、俺にだってあるさ。だてにきみより二十年ちょっとも、生きてないよ。でも飯倉君、ここはカリフォルニア、アメリカなんだぜ。そんな甘っちょろいことで、済むわけがないじゃないか。まあ聴けよ」

 アメリカという国家自体が、一般市民から選定された者も何人か審判に参与するという制度、陪審裁判制度を採用している。州によって多少やりかたは異なるものの、陪審員の居並ぶ法廷に立たされることには、ちがいがない。とはいえ、私は初犯である。車に乗れないとどうにもならない国でもある。人権重視の国でもある。免許証まで召し上げられる心配は、まずない。陪審員の評決も、罰金刑ということでまとまるだろう。だが、被告になる以上、弁護士を立てる要はある……

「心配するな。罰金、弁護士費用、そのほか一切を、会社で面倒みる。当然だろう。なんたってきみは、トニーとの取引の影の功労者なんだからな。きょうじゅうに、ウチの支店の顧問弁護士に、俺から話を通しておく。きょうはきみ、ここで休んでてくれ。夜に俺から電話するよ。えーっと。今夜の、だな」

 そこまで言うと、高山は手帳を取り出した。そそくさとページをめくりはじめた。言葉尻からすれば、この夜のスケジュールを確認したいようである。私は彼の頭を疑った。

「あの。あした僕が会社に出てからでも」

「ええっ?」

 驚いた顔を向けてきた。

「いや。……そうかそうか。言い忘れてたことがあった。……今回の件は。表向きは、だな。きみの個人的な不祥事ってことに、なってるんだ。ああもちろん、俺と大北社長はちゃんとわかってる。わざわざ本社に報せる話でもないし。坂本君たちにも、ほんとのところは言ってないんだ。つまりその……。真実を知ってるのは、きみと沢田さんと大北社長と俺、四人だけなんだ。沢田さんからの要望もあってな。弁護士には、俺から説明しとく。だからきみも、内密にしといてくれ。この件に関しては、会社では、一言も話さないでもらいたいんだ。誰かから訊かれても、適当にやり過ごしてほしい。な。沢田さんのお立場は、きみもよくわかってるだろ?」

 平社員の悲しさで、折れるしかなさそうである。だが、喜んでとは、私にはとても言えなかった。無意識のうちにも、大きな溜息を噴き出していた。

「日本で前科者になるわけじゃないんだ。な。こっちでだって、弁護士にうまいことやらせる。な。本社に知れることは絶対にない。もちろん、きみの業績にも反映させるつもりだ。な。……あそうそう。大北社長が、来週にでも褒美を出すって言ってたぞ。たぶんカネだ。夏休みも兼ねて、ベガスにでも行ってきたらどうだ? パーッと。もっとも、裁判のほうの目処が、着いてからの話だけどな」

 皮肉の一つも言ってやりたくなった。屈辱的な検査をされたことが、頭に蘇ってきた。

「あの。病院代も、会社で持ってもらえるんでしょうか?」

 高山は、笑顔を横へ傾けた。

「病院? 監獄で殴られでもしたのか?」

 当てこすりにすぎなかったので、私はよそを向いていた。いきなり脚の一方を掴まれた。

「まさかきみっ。あれそのっ。うしろから乱暴されたのかっ?」

 暴力をふるわれたのかどうか。それを訊いてきているのでないことは、彼の言回しからでもわかる。私は噴き出してしまった。

「そんなわけないじゃないですか。ブタ箱っていうぐらいで、汚い所に入れられてたんです。僕はただ、変な虫にでも刺されてたら困るんで、そう言ったまでですよ」

 高山は私の脚を掴んだままでいた。瞬きすることも、やめてしまっている。

「ほんとか? ほんとにちがうのか? 妊娠することはないにせよ、一大事にはちがいないんだ。俺が夜に電話したときにでもいいから、隠さずに言うんだぞ飯倉。わかったな? 男が男を犯すことだって、あって当り前の国なんだからな、ここは」

 自分のいる国が日本ではないことに気づき、私は慌てさせられた。再度きっぱりと否定しておいた。迂闊なことは口にするまいと、自身にも誓った。

 その日の午後九時ごろ、高山からの電話はかかってきた。弁護士の予定が詰まっており、初回の面談が翌々日の午前になるということ。それまでに、弁護士が警察側の資料を集めておくということ。二つを伝えられた。

「彼の事務所には、きみはまだ行ったことがないだろ? あしたの昼休みにでもこそっと、詳しい住所やなんか書いた紙、渡すからさ。あそれから……。くどいようだけど乱暴、レイプは、されてないんだろうな?」

 このときにも、私は一笑にふしておいた。

 弁護士と面談する当日は午後から出社すればいいことを、紙面で、高山から言い渡されていた。

 二十四の私は、自国でも、法律家というものに対した経験がなかった。それが、異国で、事情を説明しに出向く、厄介になるわけである。社会の掟でメシを食っているような人間であれば、何かにつけて小うるさいのではないか。そんなことが想われ、私は寝起きから緊張していた。相手の心証を害することがないよう、入浴し、正装して出かけた。

 セレスタイン弁護士の事務所は、ダウンタウンのヴェンチュラ通り。カリフォルニア銀行ビル七階、にあるのだった。フリーウェイで渋滞に巻き込まれることもなかったため、約束した時刻よりも大幅に早く着いてしまった。建物の地下に駐車場があることも、高山からのメモには書かれていた。

 ぶらつくということが、私は苦手である。またそんな心境でもなかった。待たされるのを覚悟して七階へ上がっていったところ、奇しくもすぐに会ってもらえることとなった。

 受付に姿を現したのは、四十代前半とおぼしき、白人にしては小柄すぎる男である。黄色い長髪と口髭をたくわえ、赤いポロシャツを着ている。その見てくれのみで、会うが会うまで張り詰めていた心の糸を断ち切られたような気がし、私はあっけにとられてしまった。そんなうちにも白い小男は、何かを放り上げるようにして私の右手を握ってきた。

〝ラッキーだったね.もう一人の予定があったんだけど,急にキャンセルになってね.午前中はずっと,きみにつきあえそうだよ〟

〝はじめまして〟

〝気楽にいこうよ.サックって,呼ばせてもらっていいかい? 僕のことはジミーって呼んでくれ.‥‥ああシンディ.これから面談に入るから,よろしくね〟

 柄に似合わず、かなり一方的な男であるらしい。そう思いながら、彼の視線の先へと、私は目をやった。すでに一度は話している受付嬢が、先と変わらず低みにいた。栗色の長い髪をした若い女は、私と目が合うとほほ笑んだ。それもまた職務の一部なのだと言わんばかりに、すかさず顔の皮膚を引き伸ばした。デスクの引出しから縦長の紙を取り出すと、天板に載せられている四角い箱へ差し入れた。その瞬間、聞き覚えのある音が、響き渡った。タイムレコーダーのものである。大学時代に耳にした話、弁護士は三十分単位でカネを取るという話を、私は聴覚によって思い出した。ところ変わっても、会社の顧問弁護士であろうとも、やりかたのケチくささに違いはないようだ。そんなことも思った。

 執務室に私を招き入れると、セレスタインはドアに鍵を掛けた。

〝きみのプライバシーはこれで完璧に保護されることとなった.僕がタカヤマさんに何かを話すこともない.だからサック,僕にだけは真実を話すんだ.僕のことを医者だと思ってくれ.いいね?〟