光の溜り場は、反対側の壁の下部にあった。そこには、見慣れた白い物体が蹲っていた。座式便器である。その色で、明かりを照り返している。スポットライトを独占しているのがそんなものであることを知り、私は笑いを催した。

 闇のなかにあるからとはいえ、やけに白く見える。なぜなのかと、私は考えた。ぼんやりと、部屋全体を眺めてみた。便器の光沢ほどに鮮やかなものではないが、ほかにも白いものがあることに気づいた。そのいずれもが、はるかに小さい。だが、わんさとある。私は目を細めてみた。

 それらは、人間の目玉なのであった。便器のまわり、ほぼ一メートル三方を避け、存在している。それがためで、便器だけが、私には際立って見えたわけなのだった。男たちのほとんどが黒人であることも、そのことに気づかなかった一因に違いない。私は固唾を呑んだ。その音を聞きつけたのか、何かが、私の右のふくらはぎに触れてきた。

〝おい,のっぽのチャイナマン.突っ立ててもしょうがないぜ.座んなよ〟

 目を向けてみると、私の足許から一メートルと離れていない所に、黒人が寝転がっていた。細面、小柄、痩身であることまで、認められた。彼はなぜ、私が東洋人であることを知っているのか。この部屋に容れられる様子を視ていたからだ。そう考えついたことにより、いまだ自分が大男に押し込まれたときのままでいるということに、私はようやく気づいた。自分が便器と同じ状態になっているにちがいないということも、予想できた。リンチするのに、それほど都合のいいことはないわけである。私はうろたえた。一方で、動揺しているのを気取られてはなるまいと、自分に言い聞かせてもいた。

〝俺は日本人なんだ.こんな所に座れるか〟

〝ヘヘ.そうかい.そんでもよ,空いてるとこなんか,ほかにねえだろ? おれはおめえよかちょっとまえにブチ込まれたんだけど,便器のまわりしか空いてなかったぜ.どうすんだよ?〟

 長期に渡って悲惨な境遇に追いやられてきたためであろう。黒人のワルには、白人のワルほどには、性悪なのが少ない。黒人の愉快犯というのがほとんどいないことからしても、その見方に誤りはないはずである。すなわち、白人ほどには、好戦的攻撃的嗜虐的な人種ではないといえる。心根がやさしい人間たちであるがゆえに、白人たちにいいようにされてきたともいえよう。

 反撃される恐れまであるとあっては、おいそれとは手を出してこないのではなかろうか。私はそう推測した。しかるに、絶対ということは、この世にはありえない。可能なかぎり確実に、自分の身を守らねばならない。不届きなことながら、彼らの祖先の血に働きかけようと、私は企図した。端的な一語が、頭に浮かんできた。それは、パトカーの白人警官が口にしたものであった。

〝俺は日本人だっ.カミカゼマンなんだっ.死ぬのだって恐くないんだっ〟

 静寂が深まった。恐れをなしているに相違ない。ここを逃すまいと、私は腹を決めた。

「おらおらっ。どけどけーっ。俺は神風だぞっ。どくんだーっ。神風だぞっ。侍だぞっ」

 そんなことを喚き散らしながら、私は足を進めていった。行く手に道ができていくのが、はっきりと感知できた。ぼんやりしている人間を引き上げようとする動きも、何度か見られた。そのおかげで、誰かを蹴ったり踏んだりすることも、しないで済みそうだった。

 トイレから遠い壁に行き着いたところで、くるりと、私は身体の向きを変えた。どっかりと、あぐらをかいた。周辺をうかがってみたが、何か仕掛けられるような気配は、とらえられなかった。しめしめと思いながら、壁に背中を預けた。

 人間、無反応でいられることほど、不気味なことはない。あとは、話しかけられようが突っつかれようが、一切に応じないでやればいい。眠らずにおくことだけを心がけ、私は身体を寛がせた。無数にあった白い小さなものが、段々に減っていき、やがては見えなくなった。

 深い静けさに、気がゆるんだらしい。心身の疲労も、大いにあったろう。あぐらをかいたまま、壁にもたれたままで、私は眠りこけてしまっていた。何者かに肩を揺さぶられたことで、そのことに気づいたほどであった。

 薄目を開けてみると、記憶にない明るさが、差し込んできた。とはいえ、鋭いものではなかった。訝しく思いながら、私はまばたきをくり返した。どんなに視ようとも、見えるのは、白い一つのみだった。座式便器だけである。では、自分に振動を加えてきたのは、いったい誰なのか。私は首を回した。黒いズボンの脚が、真横にそびえ立っていた。私をこの牢へ入れた大男のものであることが、見上げてみてわかった。

〝お目ざめかね? いい度胸してるな,おまえさん.みんなビビってたぜ〟

〝あの,ほかのひとたちは?〟

〝とっくの昔に出てったよ.おまえさんも,移送の必要はないんだ.私物を引き取ったら,帰っていいんだぜ〟

 私は立ち上がった。横田基地にいたことがあるという、黒人中年男のいる小部屋までの道順を、黒人大男に尋ねた。Bを出てすぐの通路をBよりも先へと進んでいけば、自然にたどりつけるとのことであった。巨体への畏怖感もあり、私は早々にその場から退いた。

 どうやら、この施設のなかの通路は、コの字型に延べられているらしい。そんなことを想いながら、進行方向に目を定めたときであった。先が行止りになっているのが見えた。大男に騙されたのを思い、私は身を翻した。そこでいきなり、天井から声が降ってきた。

〝おいイークーラ.こっちでも観てるから,心配するな.そのまま前進しろ〟

 私の希望に近い呼びかたで私の名前を音声化できるのは、所持品あずかり係の中年男をおいて他にいない。私は安んじて歩みを再開させた。

 行き当たると、壁に見えていたもの、鉄の扉が、のろのろと引き上げられた。はるか前方に鉄柵のあることが、見えてきた。そこが、この施設に連れ込まれてすぐの場所、白人の巨漢、デイヴに、手錠を解かれた場所であることも、私には把握できた。やはり、施設内を一巡させられたようであった。

 小部屋へのドアを開けると、所有権が私に属する物らが、ある程度の間隔をあけ、カウンターの上に並べられていた。受け渡しに要する時間を省きたいのでそうされていることを、私は悟った。手板に挟まれた紙とボールペンを差し出された。改めてから署名欄にサインするように言われたが、直後に私はペンを手にした。手板もろとも逆さまにして返すと、黒人中年男の目尻に浅いシワが浮き上がった。

〝僕の車はどこにあるんでしょうか?〟

〝飲酒運転した奴らの車を,留めておくべき場所にだ〟

〝ですから,それはどこに?〟

〝ここを出た所で警官たちが立ってるのは,入ってきたときにわかってるだろ?〟

 私は短く返した。

〝だったらそいつらに訊いてくれ.そんなことより,早く身繕いしろ.ゲートを開けてやるのまでが,俺の仕事なんだ〟

 晴れ渡っており、戸外はひどく眩しかった。しかし、目が慣れるのを待つ気にはなれなかった。さっそくで、私は内での指示に従うことにした。出会った一人目、ショットガンを捧げ持っている白人警官に、自分の車のありかを問うた。茫漠とした方角を指し示されるだけに終った。

 台数が少なかったのが幸いであった。すぐに私は乗り込んだ。レッカー車で牽かれてきたようで、誰かが運転した形跡はなかった。トランペットもそのまま、助手席の下で眠っていた。こちらは、まだ眠るわけにはいかない。気を引き締め、私は車を始動させた。

 アパートの部屋に帰り着くや、堪えに堪えていたものを排泄した。奔出に苛まれているというのに、穂先の痛みは、想っていたほどではなかった。そのことと、すっきりしたこととで、いくらか心は安らいだ。それらにより、何をするのも億劫だという気持が、かえって強められた。パンツだけになると、私はベッドに身を横たえた。何かにすがりつきたくなり、うつぶせになった。自分のにおいを嗅ぎ取ることができた。帰るべき場所に帰ってきたのだ。ここでなら、死んでも構わないのだ。そんなことを思ったのを最後、私は意識を失った。

 何者かが、私の両肩を掴み、揺さぶっている。その時分には、心身ともに回復しつつあった。自分がひとり住まいであるということに、私は考え及んだ。相手が物取りであるなら、対策を練らねばならない。どれだけか時間を稼ぎたい。目蓋に隙間を入れてみた。上にある両腕に、ほとんど余白なく入れ墨のあることが、とらえられた。リーゼント・スタイルに撫でつけられた金色の頭。その前髪を振り乱しているのも、やがては見えた。若い頃に『地獄の天使たち』なる悪名たかき暴走族のメンバーだったという、アパートの管理人のほかには考えられなかった。私は目を全開にした。揺れが治まった。

〝おお.よかったぜ.生きてやがった〟

〝どうしたんですかあっ?〟

〝おっと.ほかの住人もいんだから,大声はりあげんじゃねえよ.見てみな〟

 そう言うと、管理人は、先端に割れ目のあるアゴを横にしゃくった。そちらへと、私は目を流した。スーツ姿の痩せた中年男が、立っていた。笑顔を向けてきていること、禿げあがっていることも、認められた。我が社のロサンゼルス支店長、高山である。

「気づいたか飯倉君。ちょっと待っててくれ」

 上着の内ポケットから財布を取り出した高山は、最高額紙幣の一枚を抜き出し、管理人に差し出した。

〝こんなにはもらえねえよ,いくらなんでもさ,旦那さん〟

〝いや,まあそう言わずに納めといてください.これからも,このイイクラに限らず,ウチの独身社員たちが,お世話になることでしょうし.そうそう.できれば,私の車を見張っていていただけると,ありがたいんですがね.ここのゲートは,管理人さんの許可がないと,警察でも通れませんか?〟

〝あたりめえさ.なんだい? 旦那さんかこの坊やが,犬ッコロに追われてるんかい?〟

 高山は、私に内密な話があるのを告げ、管理人に引き取ってもらいたいのを言った。暴走族あがりは、眼下に広げられていたベンジャミン・フランクリンの肖像画を引き抜くと、ジーンズの前ポケットに捻じ込んだ。

〝とにかく任しときなって.ポリ公の勝手になんか,絶対にさせねえからよ〟

 管理人が出ていったのを見届けてから、高山は私に近づいてきた。ぶかぶかのズボンのももを股間へとずり上げてから、ベッドの一辺に腰かけた。