ポリス・セル。そう返されてくるものとばかり思っていた。
私は法学部を卒業している。警察署内にあり、逮捕した被疑者を一時的に囲うものであれば、「留置場」のはずなのである。「拘置所」というのは、未決囚、いまだ判決の下っていない被告人を、拘禁するための施設なのだ。
とんでもないことになっているのを想い、私は愕然とした。頭の中が真っ白になった。
〝俺は忙しいんだ.さあサックズウ.あのドアを入っていくんだ.その先のことは,あっちで尋ねてくれ.ほら受け取れ,おまえの免許証と財布だ〟
片手が重くなったかと思うと、背中を突き押された。その力でトコトコと、私は前のめりに歩きだした。
〝いい子でいるんだぞっ.ハッハッハッ〟
ドアの前まで来ていた。尿意に揺り起され、半醒半睡のうちにトイレに至ったときのような反射的な動きで、私はそれを引き開けた。
ホテルのクロークが見えた。いや、正確には、その場所に似た佇まいが、目に入ってきた。カウンターがある。その向こうには、白髪の冠をいただいた、痩せた黒人の男が立っている。
〝おいおい.そんなとこに突っ立ってないで.さっさと入ってドアを閉めろ〟
ひときわ白く見える黒人の団栗眼が、私の顔から足、足から顔へと、すみやかに上下した。私は半回転してドアを閉め、さらに半回転して彼に向き直った。
〝よおし.まずそのベルトだ.それをはずしてここに置け.済んだら靴を脱げ.そいつらも,このカウンターに載せるんだ〟
もとより頭はうつろになっている。私は言われたとおりにした。
〝よおし.さっきから片手に持ってるそれは何だ? ん? 財布みたいだな? それもここに預けることになってる.載せろ〟
革製品に押し付けてあった、防水加工された一枚が、そこで剥がれた。
〝なんだこりゃ? おお免許証か.サックゾウ・イークーラ.ああ,やっぱり日本人か〟
この国の人間から、本来の呼びかたで呼ばれたのは、初めてである。私は正気づいた。
〝よくぞ正しく読んでくださいました〟
〝ああ.俺は若い頃,ヨコウタ基地にいたことがあるんだ.イークーラは,ロポンギの近くだよな.ヨコウスカとロポンギには,よく遊びにいったもんだ〟
〝よくご存知ですね〟
〝まあ無駄話はさておき.この免許証は一旦こっちで預かるからな〟
私がにこやかに頷くと、黒人の中年男は顔を引き締めた。
〝ここは遊園地じゃないんだぞ.両手を見せてみろ〟
私はすみやかに従った。
〝指輪は,してないな.腕時計もなしか.首に何かアクセサリーは付けてないか?〟
頭を振ってから、私は彼の目的を問うた。
〝金属のものはすべて出せ.そうだ.おまえ車のキーはどうした?〟
それと小銭とを、私はズボンのポケットから穿り出した。前にいるこげ茶色の男は、種類ごとに硬貨を数えたのち、私からは見えない位置にある何ものかに、集計結果を書きつけたようだった。金属製のものらと財布とを、手際よく小ぶりなビニール袋一つに収めた。
〝これだけだな?〟
私が答えるのを待たず、黒人警官は、左の肘から先をカウンターの下に沈めた。印刷された紙が挟まれている手板を、出してきた。またかと思った。
机なしに書きものをせねばならない倉庫会社の作業現場でこそ当り前の代物であるが、日本では、それほど一般的な文具とはいえない。コンテナという容れもの、サイズが二通りしかない箱を考えだしたのも、アメリカ人である。つくづく規格を定めることの好きな人間たちとみえる。銘々の考えに任せる。そういうことができないのは、多民族国家だからなのだろうか。窮屈な国だなと思ったのち、私は鼻から呼気を噴出させた。
〝茶色の,革製のベルト.バックルは‥‥真鍮製らしい.裏には‥‥リーヴァイスの商標の焼印あり.で次は‥‥〟
黒人男は、私から取り上げたものら、それらの特徴を、いちいち言語化して口から出しながらで、手板の上にある紙に記していく。その行いもまた、ホテルのクロークや、クリーニング屋の受付にいる人間たちのやることと、何ら変わりがなかった。規格に合格した人間が、規格に適った物品を用い、規格どおりのことを行っている。この国のことを嫌いになりそうで、私は顔をよそに振り向けた。
〝おいイークーラ.俺の言う一々に返事は不要だが,双方での確認作業なんで,ちゃんと目視していてもらわんと困るな〟
また一つ、自由を奪われる結果となった。
終ったようで、こげ茶色の顔がきっぱりとこちらに向けられた。ほとんど同時に、顔よりも焦げ目の多い手が、プラスチック板を逆さまにした。それに鮮紅色の五つが乗り、私のほうへと滑走してきた。
〝確認してから,いちばん下にある署名欄にサインしてくれ〟
ボールペンも突き出されていた。財布の紙幣だけを、私は改めることにした。自分をここに連れてきた白人警官たちに中身をいじられたからだ。そう言い、目に見える顔がゆるむことを期待した。何の変化も生まれなかったので、うつむいての作業にかかった。
署名を済ませると、その小部屋の奥にあるドアを指し示された。黒人警官はあいそ笑いを見せるでもなかった。そそくさと、私は歩みを起した。
次の小部屋にいたのも、黒人の男であった。同じように警官の制服を着ている。前のに比べて若いだけである。その年頃までは、異人種なのでわからない。やはり、カウンターのようなものが、私とのあいだを隔てている。
〝よし.そこに座れ.背筋を伸ばして座るんだ.顔と目はまっすぐにこっちへ向けとくこと.無表情のままでいること.いいな〟
〝あの.僕は何をされるんでしょうか?〟
眼前の男は歯並を煌めかせた。
〝決まってるだろ.おまえの頭部の写真を撮るのさ.こっちにあるボタンを押せば,おまえの頭部の三面,つまり前と右と左が,いっぺんに写せるようになってるんだ.そんな優れた装置は,ヴィエットナムにはまだないだろうけどな〟
〝僕は日本人です〟
〝そうか,そいつは失礼.じゃあ準備はいいな? 動くなよ〟
衣ずれの音のほかには何も聞えなかった。
〝よし次だ.こっちのカウンターに来てくれ〟
こっちもそっちもあっちも、カウンターは一つだけである。黒人の真向いに進むことのみ、私は心がけた。
〝よし.両手を出せ.‥‥よし.叩いてから,何回か擦り合わせろ.‥‥よし.手のひらをここに載せてから,こっちの上に載せろ〟
「ここ」には、ゴム製らしい板がある。縦横が三十センチ、厚みが五ミリほどのものだ。「こっち」には、白い堆積が二つ、並べられている。薄い紙が層を成しているようである。三センチほどはあろうか。厚みが異なるだけで、二つを合わせた面積は、板のほうのそれとさして変わりがない。
〝指紋でも採るんですか?〟
〝そのとおり.まずは左からだ〟
左手を、私はゴム板らしきものに載せた。吸い付けられる感じがあった。粘り気が、ペンキを連想させた。白紙へと移すまえに、手を翻してみた。色は認められなかった。
〝透明なんだよ.早くこっちに載せろ.左って書いてあるほうにだ〟
なるほど、よく見てみると、白い薄紙の堆積それぞれの前に「左」、「右」と書かれている。こんなことについてまで、個人の判断を許さない組織なのか。それでは、いったい何のためで、おまえはここに居るのだ。ただの指示マシンではないか。そう思いながら、私は前にいる男の顔を見上げた。急かされるだけであった。
右手のほうも終えると、透明のポリエチレンの包みを差し出された。白い内容物が見える。これまたで、規格品の「お手ふき」なのであった。
〝拭き終ったら,そら.そっちにあるゴミ入れに捨てろ.そのあとは,そら.そこのドアの向こうへ行け〟
自分という人間は、ベルトコンベヤーに乗せられた半製品であるのか。そんなことを思いながら、私は湿気を帯びているソックスの布地を踏みつけた。
次のドアを開けると、カウンターは見られなかった。部屋も広かった。ごちゃごちゃと、様々な器具が置かれている。
そちらに目を奪われたせいでなのか、人間をとらえるのが後回しになっていた。ここにいるのも黒人だった。しかし、男ではなかった。水を飲みすぎたガマガエルのような、見るも無残な太りかたをした、若くない女である。警官の制服に針を刺せば、一瞬のうちに爆音とともに消えてしまいそうな身体をしている。黒人男たちがいずれも痩せ型であったために、そう見えているのではないのか。私は一回、目蓋を強く閉じた。だが、我が目を疑った理由は、ほかにもあった。肥満した黒人女の姿が、ダブって見えていたのである。
〝なんだい眠いのかい? でもまだまだ当分,眠れないよ〟
〝ああ.フフ.ずっと眠れないかもな〟
しゃがれ声に続いたのは、澄んだ声であった。同一の女のものとは思えない。私は目を見開いた。体型の酷似した、背丈も髪型も同じような黒人女が、間違いなく二人いるのだった。片方が美顔なので、かろうじて区別を着けられた。
〝あんたサックズウって言うんだろ? 無線で聞いたよ〟
〝フフ.ホントおもしろい名前だよな〟
しゃがれ声が美顔でぶの、澄んだ声がブスでぶのものであった。
〝そいじゃサックズウ.この紙コップに,サックしたものを,出してきな.トイレはあそこのドアの向こう.ズウがそのまま出てきたら,大声であたしらを呼ぶんだよ〟