生まれて初めての、単独での要人接待は、どうやら成功したようであった。

 閉店時刻が近い。彼我のほかに客はいなくなっている。二つの情報を聞かせることで、お開きにしたいという意思を示してみよう。私はそう企図した。

「あれれ? なんかママ、がらんとしちゃってるねえ」

「ああん。お気になさらなくてもかまいませんよ。トニーの沢田社長なんてビックなおかた、日本じゃ経済新聞でしか、しかもお写真でしか、拝見できないんですもの。明るくなるまでは帰しませんよ、ねえみんな」

「そうですよお。沢田先生、さっきあたしとお約束されたこと、おぼえてらっしゃるでしょ? あとで先生のおハンカチ、ご署名入りで、おさずけくださいね」

「ずるいずるい。マコにも何かちょうだあい」

「待って待って。コズエにもお」

 かえって薮蛇になってしまった。沢田は、嬉しそうに胸を反らせている。それなりの地位に就くまでは女に不自由していたにちがいないひどいアバタ面を、腐ったオレンジの皮のように爛れさせている。

「そう言われてもなあ。それにきみ、ヨウコちゃん。僕のハンカチを進呈するなんて、言ってないよ。言うはずがないんだ。僕はほら、ご覧のとおりのデブっちょだろ? カリフォルニア、とくにロスは暑くてかなわん。ハンカチは必需品だからね」

「ウソですう。わたしがお隣に付いてたときには、そうおっしゃってましたよ。先生の浮気ものお。サユリのこと、お気に入りになったんでしょお? 腕なんか組んじゃって」

「まあそう言わんでくれよ。酔っぱらってるからか、ママ以外はミスユニバースに見える。じゃあこうしよう。みんな僕のまえに並んで、スカートまくり上げてくれるか? パンティのお尻に、サインさせてもらおう。ママも並んでいいよ。ガーッハッハッハッ」

「まあ。ホント気さくなおかたですこと。日本一の家電メーカーのお社長さんのご発言とは、とても思えないソフトさですわ」

 本心でなのか演技でなのか、四十代なかばらしいママは、白目を剥いていた。

「冗談はさておき。おいわが息子。いま何時なんだ?」

 彼の左手首には18金のロレックスが食い込んでいる。居続けを決め込むつもりであれば、黙ってそちらを見たことであろう。とうとう催したのかと、私は心の中でのみ笑った。問われたことだけを答えた。

「そりゃ大変だ。大事な会議に間に合わなくなるところだった。それじゃ飯倉作蔵君。おいとまするとするか。な」

 頻繁に利用しているナイトクラブである。請求は月毎、まとめて会社のほうへ行くことになっている。誰の目があるともしれないので、駐車場までは送りにこないでもらいたい。そのことだけを、私はマダムの左耳に囁いた。

 店を出ると、背伸びするようにして、沢田が肩を組んできた。

「テキサスで大口の注文があったことは、きみんとこの、高山支店長から聞いてるか?」

「はい、もちろんでございます」

「かなりの量が動くんだ。アメリカでの、ウチの製品の物流は、きみんとこの現地法人が一手にやってる。入出庫料だけでも、かなり儲かるんじゃないか?」

「存じております」

「高山君から聞いた話だと、きみはなかなかの切れ者なんだってな。大学出て一年しか経ってないのに、アメリカ駐在ってことからしても、だいたいのとこはわかるけどさ」

「社長。高山のほうから、すべてうかがっております。すでに手は、打たさせていただいております。まだ一時間ちょっとございますが。午前四時までには、お部屋のほうに」

「あそう。で、支払いのほうは?」

「もちろん、手前どものほうで」

「ご苦労。キャッシュはチップぐらいしか、持ち歩かんようにしてるからな。悪く思わんでくれよ。で、どんなのだ?」

「イングリッドバーグマンがお好きだと、高山から知らされましたんで、ほうぼう回らせていただきました。三人を面接いたしました。必ずやお気に召すものかと」

「おいおい。面接だけだろうな。還暦ちかい俺が、きみの弟になるなんてのはごめんだからな。ガーッハッハッハッ」

 沢田は、日本の航空会社しか信じていないらしい。アメリカ国内での移動には、列車かレンタカーを使っているという。ここ、ロサンゼルスにも、みずからの運転でやってきた。

 駐車場に着くと、私たちは各々の箱に乗り込んだ。

 ロングビーチに宿を取ったのは、この私である。沢田は、世界的な大企業の社長だ。万が一にも関係者、あるいはマスコミの目に捕えられぬようにとの、配慮からであった。そこらのモーテルのほうが逆に無難なのではないかと、日本の本社やニューヨーク本店からは、言われていた。しかし、一般人が銃を持てる国であり、やはりそれは憚られた。中心地を離れた、警備の効いた高級ホテルを、私は探した。その結果が、日本人ホステスの付くナイトクラブ、ダウンタウンから約一時間の場所にある、そこなのだった。

 この土地に居を構えていたこともあるとかで、沢田には、ホテル名を伝えるだけで済んだ。怪しげな白人女が、早朝に彼を訪ねていく。そのことがまかりとおるように、ホテル側には、ドアボーイに至るまで、それなりのものを握らせてある。残された私の役目は、沢田が無事にホテルまで行き着けるかどうかを、確認することだけだ。

 フリーウェイを、二台は走りだした。

 私は、二流倉庫会社の、ロサンゼルス駐在員の端くれにすぎない。しかも、二十四の若造ときている。当然のこと、誰の目にも恭しく見えるであろう車間距離を保ちながらで、沢田のマスタングに付き従っていた。

 時間が時間ということもあり、車は少なかった。気が急くのか、沢田はやけに飛ばしている。異国にあろうとも、たいがいのことは好き放題にできない身の上の男である。私は鼻からの吐息を震わせた。

 ややあってから、いきなりで、彼は速度を落した。右のウィンカーを明滅させた。いまだ道なかばにあるというのに、である。身体に不具合でも起きたのか、車に異常でも生じたのか。どちらとも知れなかったが、私も同じ側のランプを作動させた。沢田の車に先んじ、四車線を、最も左から最も右へと移っていった。きっちりと、うしろでガードしている。そのことを、彼に示すためであった。五本目、路肩だけは、前の車を追って侵入した。

 マスタングに倣ってシビックを停めた。二台に代り、私が駆けだした。

「社長っ。どうかなさったんですかっ?」

 運転席の窓はすでに空けられていた。照れくさそうな笑顔を、向けてきている。沢田の具合が悪いのでないことは、それでわかった。

「故障でございますか?」

「ちがう。きみはどこで下りるんだ?」

「アパートは、カーデナにございます。しかし私は、社長をホテルまでお見送りしてから、帰らせていただきます」

「いいよそんなの。このまんまアパートに帰ってくれよ」

「いいえ、そうは参りません。道中で、何かおありになるといけませんので」

 沢田は表情を曇らせた。

「あのねえ。俺はここに、住んでたぐらいなんだよ。爺さんでもない。並の五十九の男より、健康状態だっていい。きみも男ならわかるだろ? ひとりで鼻唄でも歌いながら、気分を高めたいんだよ。言っちゃ悪いけど、ありがた迷惑なんだ」

 私は退かなかった。

「よし。んじゃあこうしよう。きみの会社のひとたちには、きみが俺を、ホテルの部屋まで、きちんと見送ってくれたって言う。約束する。それでどうだ?」

「しかし。お酒もかなり召し上がってることですし」

「きみもしつこい男だな。……んん? ……ヘヘ。いいこと思いついたぞ。きみがきみの言葉どおりに、俺を見送ることができたら、なんかきみにくれてやろう。そうだなあ……。よしっ。ロスではきみにとても世話になったって、きみんとこの本社の社長に、俺が直筆で、礼状を書いてやろう。どうだ? へへ。またとない褒美だろうが」

 話が妙な方向へと転がりだしているのを思いながら、私は沢田を見詰めていた。

「ヘヘ。でも安心するのは早いぞ。俺はこの土地に、十年ちかく住んでたんだ。フリーウェイを使わないで、ロングビーチのあのホテルに辿り着ける道だって、ちゃあんとわかってるんだ。アメリカじゅうを走りまわってるんだぜ。運転のほうにも自信がある。果してきみが、くっついてこられるかね?」

「また社長、悪いご冗談を」

「冗談なもんか。ほら。出発するぞ。……フェアプレイといこう。きみが乗り込んだところで、ゲームスタートだ。早くいけ」

 そう言うと、沢田はマスタングの左ウィンカーを点し、ギアノブに手を掛けた。顔も前に向けている。いまにも発進しそうである。私はシビックへと駆け戻るしかなくなった。

 沢田は、停まるまえにも増して飛ばしだした。フリーウェイから下りる素振りを見せたかと思うと、一転し、ウィンカーも出さずに二つの車線を跨いだ。低速の車の影に隠れたりもする。本気で、私を振り切ろうとしているようだった。

 日本の高速道路は、無法地帯に等しい。警察という組織に、縄張り意識が強いためである。それぞれの所轄を越えてまで、自署のパトカーを走らせることは、滅多にない。速度チェックのカメラが設置されている場所を除き、スピードは出し放題だ。検問でもやっていない限り、飲酒運転がバレることもない。

 ここはアメリカである。高速道路、つまりフリーウェイを、この国の警察がどう扱っているのか。それについてまで、私は知らない。