〝そうじゃないよ.きみにわかりやすいように説明しただけさ.ていうか,見る側の好みの問題で,どっちがいいってわけでもないんだ.バルク型は戦車みたいにはなれる.だけどそのぶん,鈍そうにも見られるわけだし〟

 初めて彼を見たときのことが、まざまざと思い出された。頭のなかに用意されていた言葉を、私は酒と一緒に呑み下した。

〝実際そうなんだよ.コンテストでも,バルクかディフィニッションかなんて,どうだっていいことなんだ.美しさが大事なだけさ〟

〝ヘ,なに言ってやがる.チンポが美しいわけねえだろうが〟

 大男の顔が、にわかに引きしめられた。

〝しつこいな! ていうか,いつまでチンポにこだわってる気なんだ.おれが言ってるのは,美しいものは美しいってことじゃないか.きみはギリシャの神々の彫像を美しいとは思わないのか? なかにはディフィニッション型の神、控えめな筋肉の神だっているし〟

〝女神たちのふくよかな曲線のほうに,俺はグッと惹かれるね.豊かなオッパイに何も感じなくなったら,死んだほうがマシだな〟

 一方の口の端を吊り上げてみせると、大男は、何やら挑戦的なまなざしを向けてきた。

〝よしわかった.きみに見せたいものがある.ちょっと待っててくれよ〟

 カニの甲羅のような背中が、テレビ画面のあるほうへと遠退いていった。

 画面では、パンツ一丁の男たちの、これでもかと言わんばかりに筋肉を見せびらかしている様子が、映され続けていた。皮膚に塗りたくられたオイルがぬらぬらと、ライトの光線を反射させている。黒い、黄色い、あるいは白い肌の魚が、代るがわるに、海面で陽光をはね返している――そんな光景を彷彿とさせた。色や形が一様ではないにせよ、魚は魚でしかない。大男の説明、見せもの小屋の解説にも似た熱狂的で過剰な説明にも、私は辟易していた。勢い、ブランデーが進んだ。回ってもいた。露骨にあくびをして見せてやったりもしたが、彼にはまるで通じなかった。

〝どうだいこのフレディリパートンの大腿部だいたいぶは! 噴火を待っている火山みたいじゃないか! 美しいとしか言いようがない!〟

 自分勝手に興奮している大男の両眼の白い部分には、いつしか赤い稲妻が走っていた。

〝そんなにいいもんかねえ? 俺にはどう見ても,ガマガエルの脚にしか見えねえがな〟

〝どうしてなんだ! なんでこのすばらしさがきみにはわからないんだ! さっきはフィルゴンザレスのことをカブトガニみたいだって言ったり! 美がわからないのか!〟

〝そう見えたんだから仕方ないじゃないか.きみはナルシシストであるだけでなく,ファシストでもあるのか?〟

 大男は子供っぽいふくれっ面を見せた。

〝形の美しさ,ていうか,造形美ってものが,きみには理解できないのか?〟

〝俺はプラトンと同じ意見なんでね.動きの速いものこそが美しい.そう思ってるんだ〟

 大男の、頬がしぼみ、唇が横に引かれた。その隙間からは白い歯並が、こぼれてもいた。

〝そう言うんなら‥‥わかった.ちょっと待っててくれ〟

 ブランデーを口に含んでいた私の横を掠め、かかっている映像もそのままに、大男は勇んでスーツケースのほうへと歩いていった。別の「筋肉ショー」のDVDを探しにいったのではなかろうか。そう想われ、私は予定的にうんざりした気分を味わわされた。

(ビリヤードの腕はいざ知らず、やっぱりこいつ、頭はかなり鈍いんじゃないのか……)

 感心したことを、帳消しにしたくなった。

 プレーヤーの引出しに新たな円盤を納めた直後から、なぜか大男はそわそわしだした。テレビ画面はいまだ黒いままだというのに、先走って興奮しているようで、さかんに脚を組み替えたり、置いたばかりのグラスを掴み上げたりしている。他方、私に話しかけてくることは、しないでいる。こちらでも黙っていることにした。

 髭面の、むくつけき男が現れた。それまでに見た魚もどきの男たちと同様、パンツ以外には筋肉しかまとっていない。ただ、上がっていく先が違っていた。観衆で沸いている光に満ちたステージではなく、見守る者の一人もいない殺伐としたリングなのであった。その一角から、画面の男は正方形のなかに入っていった。虚空を、突いたり殴ったり蹴ったり、しだした。その動きは、格闘の始まりを、私に予感させた。

 対角から、別の一人が上がってきた。日焼けしていることを除き、これといった特徴のない若い男である。パンツ姿であることは、髭面に変わりない。しかし、その体つきのほうは、比較にならないほど弱々しい。武術の心得があるようには、とても見受けられない。

〝何なんだこりゃ?〟

 不可解さが、私の口を開かせた。それに対しての答は、一向に返されてこなかった。

〝おい,なんとか言えよ〟

 私が顔を向けると、大男は虚を衝かれたような表情をした。やはり、自分の世界に浸りきってしまう癖が、あるらしい。目が合ってからは、穏やかな顔になった。

〝あのさ.きみは一週間に何回やるんだ?〟

〝はあ? 何をだ?〟

〝オートマニピュレーションをさ〟

 初めて聞く言葉だった。辞書がないので、私は彼に類義語を求めた。

〝自分で自分を悦ばせることさ〟

〝マスターベーションのことか?〟

〝そうとも言うけど.しないのか?〟

 そこまでにさんざん退屈させられていたこともあって、私は嬉しくなった。運動部員同士のそれのような、あけっぴろげな話ができるようになるのかと、期待した。

〝ハハ! そんなわけないだろ! 俺も二十五の,健康な男なんだぜ.最低でも,週に七回は噴射してるよ〟

 話が途切れてしまうことを恐れ、かなり誇張して答えた。

〝おれは二十七だ.でもほとんどしない,ていうか,しないようにしてるんだよ〟

〝眠ってるあいだに漏れてこないか? 男だったら当り前のことじゃないか.それに,女とヤルのとは別の味わいがあるぞ〟

 大男は下唇にグラスを押し付け、黙っている。なぜなのか、私は焦りを覚えた。

〝どうしてなんだ? 信仰上の理由でもあるのか?〟

〝もちろん違うさ.おれの商売道具,筋肉のためにだ〟

〝おいおい.しっかりしてくれよ,童貞の坊やじゃあるまいし.マスをコクと身体に悪いとでも思ってるのか? 実は,おれも中学に上がるまでは,そう信じてた.体育の先生から,そう吹き込まれてな.でもそれは嘘なんだぜ.まさかきみはいまだに〟

 黙ってはいられないようにしてやろうと思い、私は大声で笑う演技をした。

〝そうじゃない! コンテストの前日にだけ,集中的にやるようにしてるんだ,意識的に〟

〝何だって? ハハ.そのほうがよっぽど身体には悪そうじゃないか〟

 なおも笑顔のままでいる私を、大男は横目で睨みつけてきた。

〝きみはまったく無知なんだな,男の肉体ってもんについて〟

〝それなりには知ってるつもりだけどな,女の肉体についても〟

 大男は顔を天井に向けた。かと思うと、今度は正面から、私を睨みつけてきた。

〝偉そうなこと言うんじゃない!〟

 右手をピストルに変形させ、その白い銃口をこちらに向けてもいる。

〝じゃあ訊くけどさ!〟

 問答無用と発砲してくる恐れはないことが、その一言でわかった。私は心を和らげた。

〝射精すると男性ホルモン,ていうか,テストステロンが増大するってことを,きみは知ってるか?〟

〝もちろんさ.そのせいで好き者は禿げるんだ〟

〝それを利用する方法も,あるってことさ〟

〝利用する? 男性ホルモンをかよ?〟

〝そうだ.きついトレーニングをすることで,普段はその力を萎えさせておく.それで,コンテスト前夜に,大量に射精するんだ.長い睡眠をとった翌朝には,筋肉も皮膚も,見ちがえるようになる.男として最高の状態になってるんだよ.どうだすごい話だろう.ていうか,プロのボディビルダーのあいだでは,常識なんだけどな〟

 話につきあうのがイヤになった。私は顔を、テレビ画面のほうへと向けることにした。

(やっぱり、こいつの脳味噌は筋肉でできてたんだ。安易に信じた俺がバカだった)

 言葉のやりとりを重ねているうちにも、画面で人間が動きだしているということは、私にも知れていた。しかし、それがどんな動きであるのかということまでは、とらえられようはずもなかった。大男に話しかけるまでの映像と、ときたま会話に割り込んでくる息づかいとで、想像するよりほかなかっただろう。もっとも私には、展開を予想してみる気もなかった。設定されていた条件に基づき、どんなに非日常的な光景を考えてみたところで、行き着く先は「弱いものいじめ」なのが関の山だったからである。

 目に飛び込んできた場景自体は、私の考えに反したものではなかった。ただ、それの主体となっているものが、ちがっていた。

 一方的に殴打されているのが、髭面男のほうだったのである。私の見立てが間違っていた、日焼け男がたくみに武術を操っている、というわけではない。むしろ、その外見にふさわしく、彼の攻撃ぶりは弱々しい。手の早い女房が浮気した亭主を乱打しているさまを想わせ、女々しくさえある。そして当然のごとく、彼のパンチの一切は、髭面男の隆々たる筋肉に、虚しく吸収されている。

 ボクシングの試合に同じく、クリンチの状態が、何度か生じていた。劣勢なほうが、相手の攻撃を封じるために、あるいは相手の疲労を倍加させるために抱きつくという、あれである。

 髭面男は、攻撃されるのみであったが、劣勢ではなかった。それが証拠に、後退するのは、手足をばたつかせている日焼け男のほうばかりなのである。なぜに髭面は、クリンチなどしないで、さっさと日焼けを伸さないのだろうか。一発で片づけられるだろうに。そう思い、私は首をひねった。自然、細かな点にまで、観察の目を向けはじめた。

 ヒッヒッヒッヒッ。きゃあ、近寄らないでよお。ヘヘ、気が済むだけ打ちな。えい、このお、えい、このお。ほら、もっと殴りな。きゃあ、来ないでえ、きゃあ。ヒヒ、ほいじゃ、このへんで。あ、いや――映像から浮かんでくる台詞は、まさにそんな感じであった。また、そこまでの数回のクリンチが、ある事実を、私に発見させてもいた。髭面が、そのいっときだけのために、嬉々として殴られている。そうであることが、つかめたのだ。

 いつしか私は、テレビ画面から目が離せなくなっていた。クリンチのときに髭面男の行うことが、回を追うごとに変態じみていくためであった。抱きすくめる時間が長くなるのに伴い、彼は日焼け男の、耳や首筋を舐めるようになった。続いては、頬に唇を這わせるようにもなった。そしてついには、抱きついた直後から、口に吸いつくようになったのである。それ以降の日焼けは、クリンチされてしまうと、タガメに体液を吸われているメダカのように、小刻みに身体を震わせているだけとなった。

 驚くのはまだ早かったのが、そのあとになってわかった。

 あれほど激しく抵抗していたはずの日焼け男が、さっぱり暴れなくなったのだ。のみならず、抱かれるたびに恍惚とした表情を見せるようにもなったのである。それに乗じてか、髭面男がもそもそと腰を動かしだした。そのパンツが、毛むくじゃらの尻の筋肉に食い込んでいく。ややあって二人が離れたとき、行為主体のヘソの下に、何か揺らめくものが見えた。膨張しきったすずぐちであった。

 その次のクリンチの場面では、大きな変化が用意されていた。髭面が、執拗な口技に続き、マットの上での寝技に持ち込んだのだ。日焼けのパンツを引きずりおろすが早いかで、みずからのそれをもはぎ取った。つばぜり合いさながらに、二本の男根のこすれ合っているさまが、画面に大写しにされた。

 二本のあまりの立派さに引け目を感じたことで、私は自分を取り戻した。何かしゃべらないではいられなくなった。大男に顔を向けた。

〝お笑いだぜ.何なんだこりゃ?〟

 返事はなかった。

〝おいハーキュリーズ〟

 大男は石像と化していた。いや、厳密には一箇所だけ、固まっていない部分があった。トランクスの左側の裾が吊り上げられており、目も舌もない大蛇が、威嚇するように頭をもたげているのだった。その頭部は、温州ミカンを、私に連想させた。

 冷静になろうと、まず思った。私はタバコに火を着けた。何事にも気づいていないのを装い、ゆったりと三回、紫煙を吸引して白煙を排出した。そのかたわら、目玉だけは活発に動かしていた。脱いだもの、衣服と靴のありかを、把握するためであった。

 大男本体には、依然として、何か行動を起そうとする気配は感じられない。大蛇の頭だけが、張子の虎の頭にも似た動きを、くり返しているのみである。

 この部屋から脱出するまでの自分を想い描き、所要時間を計ってみることにした。ソファを起ち、身を翻し、衣服と靴とをひっ掴む。そこまでで二秒。出口へと走り、ドアロックをひねり、ノブを回して戸外に飛び出す――通しで七秒という結果が出た。

(ただでさえこいつは動きが鈍いんだ。おまけに、左の太ももの上には、あんなもんまでへばりついてる。あれが邪魔になって、走ろうにも走れないに決まってるんだ)

 自分を励ましつつ、私は大きく息を吸った。タバコを灰皿に載せた。大男に気取られぬよう、火は消さないでおいた。

 そこからは、身体のほうで勝手に動きはじめた。予想以上に速く、ノブを回すことが叶った。ドアの隙間から夜気が流れ込んできた。すぐにも脱出できるものと、私は楽観した。

 外界が、幅十センチほどのところで、広がるのをやめた。ノブを握らせている手にいっそうの力を送り、私はドアを押しのめした。奴隷や捕虜や囚人の走り回る音が、にわかにかまびすしくなった。それは、二つの音が合成されたものなのであった。高い音は前方から、低い音は後方から生まれている。