ところが、9時になっても、竹森は戻ってこなかった。携帯電話へかけてみることにした。その2度とも、「留守番電話センターでメッセージをお預かりします」というアナウンスが返されてくるばかりであった。

(あのカッパ野郎。やっぱり、寸借詐欺の前科もちなのかもしれんぞ)

 諦めはしなかった。専売所本店の電話番号も、控えてある。そちらへ当たってみることにした。誰かと話し終えられるまで、受話器を戻さないでおくつもりであった。それというのに、3回の呼出し音を聞くだけで済まされた。

「毎度お世話になっております。KIYOKキヨック愛ヶ窪本店、店長の竹森がお受けいたします」

 明朗快活な声で、張本人が出てきた。

「どういうことですかこりゃあっ」

「は」

「はじゃないでしょうがっ。なんであんたぼくんとこに戻ってこないんですかっ。約束まもれないんならこっちも動きだしますからねっ。行くとこへ行きますよっ」

「ああっ。あのあのあのっ。いや申し訳ありませんっ。店のほうで大問題が起きちゃっててっ。所長から電話で呼びつけられてっ。こっちへ来ちゃったんですっ。いま所長のとなりにいますっ。あのあのあのっ。誠に申し訳ございませんっ」

 口だけだなと思った。脅しをかけておくことに決めた。

「おいっ。そんな言い訳が通るとでも思ってんのかよっ。おおっ? つけあがりやがってこの野郎っ。オレに電話することぐらいできただろうがっ。ぬけぬけとふざけたマネこいてんじゃねえぞっ。おおっ?」

「あのあのっ。本当に申し訳ございませんでしたっ。必ずうかがいますからもうしばらく時間をくださいっ。よろしくお願いいたしますっ」

「オラアなっ。おめえのせいで不愉快な時間すごしてんだよっ。それをなんだあっ? もうちょっと待ってくれだあっ? 冗談はツラだけにしとけってんだっ」

 鼻をすする音だけが返されてくるようになった。自殺されても困る。語調を緩めてやることにした。

「竹森さんよお」

「は、はい」

「いまはっきり、何時何分に来のるか約束して、そのとおり実行してみせろ。その約束が守られなかったら、オレはおまえのことを詐欺師だと断定する。今夜のうちにも、小銭こぜに警察署へ被害届を出しに行くから、そう思っとけ」

「わかりました。……じゃあ、10時きっかりに、必ずお訪ねします。お約束します」

「日本時間で、午後10時ちょうどだろうな」

「もちろんです」

「それからだな。ただ来られても困るんだよ。オレがこれから言うものを、全部ちゃあんと用意したうえで、時間きっかりに来い。いいな」

 大島巡査部長からアドヴァイスを受けたとおりのものら、証書の写し3種と、専売所へ提出した履歴書に用いた印鑑を、持参するように命じた。竹森はただ、応じる旨を返してくるだけであった。極道じみた口調で怒鳴った手前もあり、さっさと切り上げた。

 本を読もうとしても、視線が活字の上を滑っていくばかりで、文意はさっぱり理解できない。赤の他人にまとまったカネを貸すという初体験によってもたらされた全身的な興奮は、やはり、その出来事とは無関係な内容を頭に取り込ませようとすることすら、かたくなに拒否しているようであった。

 そこで、カネにまつわる経験だけを、鋭角的に思い起してみることにした。

 見栄っぱりなほうである。いずれの例においても、ボロ布と化したトランクスを履いていたということが前提なのだが。5月の頭から9月の仕舞まではパナマ、それ以外はソフトであったが、『ボクサリーノ』のハットを常用していた。カッターシャツとスーツは、オーダーメイドのものしか身に着けなかった。国産車ではあったものの、最高グレードのセダンをわざわざ購入したことが2回ある。惚れた女を引き連れて海外旅行に出かけ、土産物代まで負担してやったことも4回、はある。銀座のバーを泳ぎ回っていた時期も長い……

 惚れられた女には、物質的にだけでなく、全般にわたって面倒をみさせた。借りたカネを返したことは1度もなかった。その額は、最低でも15万円。最高だと800万円にもなる。総額で1,500万円は下らないだろう……

 同性の知己を泣かせた額が、50万円ぐらいか……

 これまでに踏み倒したもっとも大きな借金は、国別寺市役所・生活福祉課には「すでに死んだ」と申告している人物、父親からのものである。

 平令5年9月に「会社都合」で辞職してからというもの、まともに就業したことはなかった。退職金や失業保険金もが加えられた貯えで、とりたてての不自由もせずに暮らせていた。親元に居候していたからだ。  

 自然な成行きで、策を講じる必要に迫られた。平令7年3月、当時の女からまとまったカネをせしめるためで、婚姻届を提出した。家族へのうしろめたさもあり、それを契機に戸籍を独立させた。他方、年増は、夢が叶うと燃え尽きてしまった。3カ月後には、弁護士を通じて除籍を申し立ててきた。金満家の娘のことで、離縁するだけでいいという。家財道具はもちろんのこと、共用口座の預金残額もまったく返さずに済まされた。

 したがって、カネのことに父親が絡んでくるのは、平令9年4月以降ということになる。

 相手は当時、なおも現役で、東証1部上場会社の役員であった。そうであるのをいいことに、「日陰ぐらし」していることを条件に、月額で30万円を支給させた。そののちには、女ができてカネが入ってくるようになろうとも、「お手当」を辞退などせず、それはそれとしてせっせと貯め込んだ。 

 父親からのカネだけでも、年額360万円はあったわけである。平令17年9月に両親が失踪、いわゆる「夜逃げ」をするまでとなると、8年5か月分=3,030万円にもなる。行方をくらますに際し、実家を処分して得たカネのうちから、「今生における手切れ金」として300万円を、銀行口座へ振り込んでくれもした。語呂がいいでは済まされないが、3,330万円を与えられた計算になる。国別寺市よりもずっと他県寄りの都内――そんな土地に存する中古の一戸建て住宅であれば、購入できそうな金額といえよう。そんな大金のほとんどを、よそおいや遊興のために費やしてしまったのだ……

 そればかりではない。会社員時代に接待などでの必要性から「作らされた」クレジットカードが、6枚あった。すべてが退社後にも有効なままであるということを知ると、各々から限度額まで借り入れた。その合計が約500万円。「月給」や女たちからのカネの一部を用いて、分割で凌げていたうちは、まだよかった。

 やがては、それら信販会社らへの返済のために、サラ金らからカネを借りることになる。個人からのものではない借金が600万円強にまで膨れ上がっていた。両親が消え去る半年ほどまえ、数冊の関係書籍を読んで腹を括り、弁護士に頼んで自己破産してしまうのを決めた。裁判所が「免責」を認めてくれれば、600万円強ものカネを棒引きにしてもらえるのだ。ただ、そののち最低でも5年は、信用調査会社のブラックリストに名前が残されることとなり、金融機関から相手にしてもらえなくなるという不利益もある。しかし、先のことなどどうでもよかったので、敢行した。

 望みどおり、借金は消えてくれた。同時に、女たちも去っていった。さらにも……

 裁判所のおかげで600万円強がチャラになったあと、父親からの「今生における手切れ金」の300万円が入ってきた。みみっちく生活すれば1年ぐらいは何とかなるだろう、その間にスポンサーとなってくれる女を見つけなければならない――そんなことを考えながらも、府内市から、それの北に隣接する国別寺市へと、引っ越すことにした。引越し代は、10年も住んでやったのだからと古巣の大家に泣きを入れ、叶えられた。3LDKの賃貸アパートと、2DKの賃貸マンション――新旧の家賃の差額は2万円強でしかなかったが、気分を一新させたかった。しかし、そのこともまた、自己破産の決行と同様、裏目に出てしまったようである……

 就労努力も、するにはした。しかし、睡眠障害という立派な精神疾患、神経症の親玉みたいなやまいを抱えている身では、どうともなりそうになかった。加えて、齢44にもなっていた。若くても仕事にありつけない人間が世間にごまんといる狂った御時世である。雇う側に立ってみれば、結果はわかりきっていた。

「女体そのものではなく、それから放たれる色香いろかをこそ売りものとしている法人」でなら、雇ってもらえることとなった。客としてさんざん世話になってきた業種へ、逆の立場となって入り込もうと画策したのだ。下僕のような境遇に陥ろうとも、女との接触さえ保っていれば、道はいずれ開けていくように思われた。ところが、いざ職務内容を明かされると、驚愕した。その仕事のうわつらな部分しか知らなかったのである。もう10歳ほど若ければいざしらず、精神的にもとても勤まりそうになく、辞退するよりほかなかった……

 倹約して生活すると決めたはずなのに、面倒をみてくれそうな女を探し求めて、夜の街を歩き回るようになっていた。投資させられるばかりで、元手をすら回収できない。そのこともまた、まともな就労が叶わなかったのに同じく、年を食いすぎていることに主因があるようだった。国別寺市に移転した端には300数万円はあったカネが、それからわずか半年ほどで50万円弱にまで減ってしまっていた。生きていくのに行き詰まるのも、もはや時間の問題であった……

 それの管轄下の者ではなくなって久しいという事実を隠し、府内市の役所、その生活保護担当部門へと、相談に赴いてみることにした。何か問題が起きたときには姿をくらましてしまいさえすれば済むと、思われたからであった。3度目で、僥倖ぎょうこうに恵まれた。

 頼れるのは、会社を辞めてから先、ずっと厄介になっている精神科医だけだ――そのことを、府内市役所・生活福祉課の係長であった40女から、教えてもらえたのだった。もちろん、彼女の提示してきた条件を飲まされた上でのことである。

 大川わたる医師が新開進一に強力な睡眠導入剤を初めて処方したのが平令7年の師走、とのことである。そこを「初診日」だと判断されたとしても、同医師と新開に18年の「つきあい」があるということは、動かされる心配がない。それほどの長きにわたって月に1度、30分以上120分以下の定期的な診察が行われてきている、とも聴いた。そこからすれば、同医師が、新開の幼少時の体験にまで踏み込んでいることはまず疑いのない事実である。ひいては同医師こそが、法的見地からも、新開という人物を把握している唯一無二の存在ともいえよう――そんなことをも、地方公務員の資格を有する不良中年女は、半裸で白煙を吐き散らしながらに説いていた。 

 40女の入れ知恵に従い、困り果てた平令18年6月の受診日に、両親が失踪してからの「経緯報告書」を携えて、大川医師を訪ねていった。書面を預けてきたところ、その数日後、まだ浅い夜に、医師から電話がかかってきた。相談に乗るのですぐにでも訪ねてこいと、言ってくれた。3人いた「女」の最後の1人との電話が切られたあと以来で、落涙した。生活保護受給者となれるよう、同医師が力を貸してくれることとなった………………

 新聞配達員として働くこともでき、ヤクザから借金することもできる中年男――そんな竹森にも劣る人間であること、「廃人」に近い存在であることが自認され、ますます不愉快になるばかりなのであった。

 一方、時間のほうは、願っていたほどには過ぎていなかった。身体を、動かしていることに決めた。水での入浴代をも節約することにしているため(ガス代にそういう制度は設けられていないが、上下水道代には、生活保護受給者に「減免措置」が施されることとなっている。これが意外と馬鹿にはならない。自分で調べ、自分で申請しない限り、適用してもらえないという意地悪な制度でもある)、汗をかきたくはなかった。ゆえに、エアコンの設定温度を最低のものに改め、パンツ1丁にもなった。ラジオ体操の第1と第2を、本来のものよりもゆったりとしたテンポで、行うことにした。腕立て伏せ50回も、そののちには加えた。

 かくして午後10時に近い刻限となった。1回目に竹森がやってきた折の一切、文具や借用書を持って、1階のテーブルで待機しはじめた。竹森が座っていたのとは反対側の椅子に、腰を下ろした。

 そわそわしながら借用書を読んでいると、果してチャイムが鳴らされた。電波時計が、午後10時きっかりなのを示していた。玄関ドアの鍵は掛けていなかったので、そうであるということを、戸外に向けて叫んだ。

 このときにも、竹森は「お邪魔します」とか「失礼します」とかという言葉を何ら口にすることなく、あたかも自分の部屋にでも入るかのような足どりで、上がってきた。

「ちょっとさあ。あんたねえ、竹森さん。さっきウチい上げてやったときにもそうだったけど、ここはオレんチなんだぞ。あたりまえみたいな顔して入ってくんなよ。ふざけてんな」

「すいません。でもおれ、もう上がっちゃってますし。次回からってことで。ね」

 竹森はうすら笑いさえ浮かべていた。

「そういう態度が気に入らねえんだよ。あんたがどうするのかは主権者側、この場の支配者、オレのほうで判断することだろうがよ」

 途端に竹森はしおれてみせた。そうしていることが演技にすぎないのだということを、身ぶり語で告げているようなものである。

「申し訳ありません。じゃあもう1回、チャイム鳴らすとこからおれ、やり直します」

 馬鹿馬鹿しくなった。テーブルの向こうに座るように命じた。

「コピーとかハンコとかは、オレから言われたとおり、ちゃんと持ってきてんの?」

「あ。ちょっと待ってください」

 竹森は、KIYOKの名が付されているナイロン製とおぼしき粗末なジャンパーの内側へ、右手をねじ込んだ。

「えーっと。これが免許証の表。これがそいつの裏側で――」

 いかにも面倒くさいと言いたげな身ぶりで、持参を求められたものらであるらしい1点ごとを、ぶつくさ言いながらでテーブルの上へと並べていった。

 運転免許証の住所と借用書のそれとが違うということに、すぐに気づいた。

「想ってたとおりだ。これじゃ詐欺じゃないか。どういうことだよ?」

 それもまた演技なのであろう。竹森は目を見開き、顎を引き、顔の前で右手を超高速ワイパーにした。

「いやっ。あのあのあのっ。免許証の住所は、まだ改めに行ってないだけで、喜多支店のときに住んでたアパートのやつなんです」

 そう言うと、竹森は免許証の住所欄を右手の人差指で示した。汚らしい一方でどこか誇らしげな、身体を張って生きている男の食指であった。何か心に響いてくるものを覚えた。