福沢諭吉8枚と樋口一葉1枚と野口英世2枚――それらをむき身のまま手渡す気にはなれなかった。定形郵便用の小ぶりな方、お札の大きさに近い方の、新品の黄土色の封筒に収めた。その口は、竹森に中身を改めさせる要もあり、閉ざさずにおいた。持って下りる文具が1品ふえた。

 筆記のためのものらを手渡すと、竹森はさっさとテーブルに顔を落した。

 やがて、答案を書き終えた自信過剰な小学生さながらに、どんなもんだとでも言わんばかりに、竹森は紙を突き出してきた。鼻息の音も届けられた。

『私は新開さんから8万7千円を借りました その金は7月のボーナスが出たときに返します  平成25年6月3日  竹森弘史』

 やはり、頭の足りない子供が書いたような文章なのであった。

「ちょっと竹森さん。これじゃダメですよ。ぼくの住所、ぼくの下の名前、それと竹森さんの住所も、抜けてるじゃないですか。だいたい、ハンコも押されてない。必要なことをちゃんと、矢印つけて書き加えて。そのあと、矢印の一ヶ所ずつに、それ使ってハンコ押してくださいよ」

 テーブルに置いてある小ぶりな黒い円盤を指差してやった。すると、竹森は眉根を寄せた。芝居じみた動作で溜息をついた。

「あのおれ、ハンコなんか持ってきてません。指の先っちょ、拇印ぼいんで充分でしょ? ね。そのほうがいいはずですよ、借用書には」

 なんだとこのカッパ野郎っ。てめえの新聞の契約や更新の手続きのときにも拇印で済んだっていうのかよこのバカタレッ――そう叫びたくなったが、こらえた。

「充分かどうかはこっち、ぼくが判断することです。ねえ竹森さん。あなたハンコも持ってこないで、9万円ちかいおカネを、借りられると思ったんですか? 非常識すぎますよ。考え直そうかな」

 竹森は、それがマンガのコマのなかでの出来事であったならば彼の頭のうしろで『ガーンッ』という枠文字が爆ぜることとなるに違いない面相、驚愕の表情を見せた。しかし、長くは続けなかった。次のコマでは早々と、便箋を引っ込め、顔面をテーブル上へ戻していた。

「申し訳ありませんでした。時間がないんでついその。すぐに書き改めますから」

 住所とフルネームをまとめて尋ねてきたので、数回に分けて答えてやった。

「あのあの。それで利子のことなんですけど。いくらって書けば、いいでしょうね。10日ぐらいのことで、まさか、1割にはならない……」

 そう言ってきた竹森の目には、何かを企んでいる輝きがあった。貸金業者でもない人間が利息を取るのは違法行為である。そういう約束をしたうえでカネを貸せば、そのことをネタにされ、満額の返還を拒まれる恐れが小さくない。なんせ相手は、前科者かどうかは不明ながら、「前歴者」ではありそうなのだ。

「利子は要りませんよ。お貸しした金額だけ、耳を揃えて返してください」

「そうですか。じゃあできました。あとはハンコ代りの……」

 竹森は、なぜか利き手ではないほうの親指を、朱肉につけた。押捺すると、その左手を中空で遊ばせるようになった。借金をするのに印鑑も持ってこないようなマヌケのことである。指を拭うものなど持っているはずもなかった。部屋のどこかを汚されてはかなわないので、トイレットペーパーを取りにいってやるのを言い置き、その場から離れた。どうして子供の世話のようなことまでさせられねばならないのか――そうは思ったが、乗り掛かった船、後の祭、なのであった。

 ちり紙で指の始末をさせた。それが終ると、竹森の目は封筒にしか向けられなくなった。勘定させる必要があるので、さっさと手渡してやった。不思議だったのは、彼が、札束を数える際にも、右手の中指と薬指にずっとボールペンを挟んだままでいたことである。

 その理由は、ほどなくして知れた。中身を封筒に戻すと、竹森は、平然と、いやそうするのが当然のことででもあるかのように、封筒の裏に自分の名前を書いたのだ。さらにも、テーブルの上に載せられていたカッター付きのセロハンテープをわがもの顔で手にし、封筒の口を封じた。唖然とさせられた。

 どういう言葉を浴びせてやろうかと考えているうちにも、竹森は席を起った。そのまま出ていく気でいるように見えた。

「ちょっと待ちなさいよ竹森さん。ヤクザにおカネを渡してから、もういっぺんウチへ来てください。いまは時間がないからしょうがないけど。いいですね」

 行く手を阻んでそう言ってやった。

「わかりました。信用してくださいよ。ちゃんとおれ、またうかがいますから。早く、早くしないと」

「そうだそう。8時半になら戻ってこられるでしょ? どうです?」

「わかりましたから行かせてください。お願いします」

 いざとなったら、専売所本店に乗り込んでやればいい。竹森の携帯電話の番号も知っている。いくつかの金融機関から借りている状態なら、番号の変更など易々やすやすとはできようはずもない。道を開けてやることにした。ランドセルを玄関口に放り出して遊びに行く小学生のように、振り向きもせず、竹森は飛び出していった。玄関ドアが閉まると、ほどなくして労働用ホンダオートバイスーパーカブの発進する音が聞えた。

 文具と証文を持って2階に上がった。隠し金庫にしている百科事典の1冊の空箱と、「たんす預金」の収納袋とが、当然のこと、デスクの上に放り出されたままになっていた。竹森に述べたことには大きな偽りもなく、貸してやる前には、大10枚、中3枚、小15枚が、袋を内堀、箱を外堀にして、保管してあった。役所の資産チェックが及ばなかったもの、18金のブレスレットやネックレスを、生活保護費支給決定の直後に質屋へ持ち込んで換金してもらい、7年のうちに必要に迫られてチョロチョロと使ってきた分の残額が、その13万円なのだった。それがこのときには、4万3千円にまで減らされてしまっている……

 とりあえず、収納袋を入れた百科事典の箱を、実物の詰め込まれている強固な仲間らのもとへ戻した。30分もすれば竹森が戻ってくることになっている。鼻糞をほじくりながらでも行えるようなことのほか、やれそうにはない。この日の新聞、旭日新聞はもう、朝夕刊ともに読んでしまっている。ラジオや音楽を聴く気にもなれなかった。身元の怪しい男に、勢いで、大事な預金の67パーセントほどを貸してしまった――その事実と関係のあることにしか、頭が反応しそうにないのだった。

 51年半の人生で、金融機関をも含め、他人から借金をしたことは数えきれないほどある。一方、他人に貸したことは、この日の竹森へのそれを含めても、5回しかない。4回目までは、月給泥棒であった18年ほど前までのことで、その額も1万円前後であった気がする。いずれの場合でも、一緒に梯子はしごした相手の呑み代の不足分を立て替えてやったものにすぎない。要するに、他人から頼られにくい人間、ということができよう。暴力団員たちからも同業者だと思われてしまう顔つきに、よるところが大きいように想われる。

 そんなことからすれば、竹森は、いい度胸をしているといえる。国別寺喜多支店の担当者であったときの気の回り具合を考え合わせると、ただの馬鹿者では、決してない。他方、自分が担当からはずれたのちには、きちんとしたことなどやらなかった。誠実な男でも、絶対にない。事実、印鑑も持たないで借金をしにきたくせに、玄関口でいきなり土下座できるほどのショーマンshowmanなのである。契約更新が決まった際には、あやまたず相手にハンコを押させる男であるというのに……

 竹森が姿を消して10分と経っていないうちから、不安で仕方がなくなった。食い逃げならぬ「借り逃げ」をされてしまうのではなかろうか――その疑念が刻々と膨らんでいく。

 平日の午後8時から9時のあいだといえば、大方にとってはなかなかに忙しい時間帯に相違ない。家路を急ぐ身であったり、舌鼓を打つ身であったり、あるいは入浴中の身であったりすることだろう。架電しても文句を言わずに取り合ってくれるのは、ただ1つの機関をおいてなさそうである。

生安せいあんの、大島さんをお願いします。国別寺市喜多4丁目の、新開からだとお伝えください」

 近所の酒乱じいさんが大声で喚きながら木刀を振り回して暴れた――それを2人で取り押えてからのつきあいである。同じ流派の空手の、ともに黒帯を許された者同士だということが、相手側の調べで判明し、気安い間柄にもなっている。

「ええ? いやあ、聞いたことないっすね。そんな、竹森なんてひとのこたあ」

「旭日新聞の配達のひとで、50手前ぐらいなんですけどね」

 どれだけ情報を付け加えようとも、小銭こぜに警察署・生活安全課の大島巡査部長からの回答が変えられることはなかった。

「でも、新開さんもおひとよしですねえ。そんな新聞配達の、どこに住んでんのかもわかんないひとに、拇印だけで9万円ちかくも貸しちゃうなんて。ここだけの話にしといてくださいよ。実はね、ああいう仕事のひとってのはですねえ――」

 想っていたとおりで、世間に対してうしろめたいところがある者、前科や前歴のある人物がほとんどだ、とのことであった。反省会をやっても仕方がない。こののちの対応策の伝授をうた。

「ともかく、今夜のうちにもう1回、来させることっすね。来るまえに、コンビニかなんかで、運転免許証のコピー。表だけじゃなくって裏のも、撮ってこさせてください。それと、ああいう仕事のひとってえのはみんな、社員証もってるはずっすから、そのコピーも、撮ってこいって言ってください」

 さすがは警察官だと感心しつつ、一言だけを発した。

「そいから、ちゃんとしたハンコを持ってこさせて、借用書に押させることっすね。新開さんがおっしゃるように、『しゃがみ』なんて特殊用語を知ってるぐらいなら、マエがあるんかもしれません。けど、マンガかなんかで読んで、知ってた可能性もあります。マエがないんなら、拇印なんて、かえって役に立ちませんからね。あとはっすねえ。うーん……うーん――」

 大島巡査部長は、まだ何か言い足りないようであった。だが、そこで言葉に足踏みをさせたきりでいた。当然のこと、追加を求めた。

「万全を期すんなら、借用書の内容を、その竹森ってひと本人に読ませて、そいつを録音してください。借用書を胸の前に持たせて、顔と一緒に写真とっとけば完璧っす。そうやってあれば、トンズラされても、うちらで簡単にパク逮捕できます。んでもまあ。そこまでやるのは何か気まずいでしょう、うちらみたく職務でやるわけじゃないんすからね。だもんで、免許証の住所や名前と、借用書に書いてあんのとが、一致してるかどうかってことの確認だけは、きちんとやってくださいね。あと、ハンコそれ自体のチェック、色とか材質とか。まちがってもシャコハタみたいなやつは、認めちゃダメっすよ。会社に履歴書だしたときのハンコにしろって、そう言えばいいんすよ。会社がシャコハタなんか、認めるわきゃありませんからね」

 たいへん勉強になった、何か問題が起きた際には助力をお願いしたいと返した。礼を述べ、通話を終えた。時刻が8時半に近づいていたからでもあった。

 返済する相手が一般市民ではないということを、竹森に聞かされている。

 51年半を生きてきたなかで、世間から「ヤクザ」だと指弾されている男たち20人ほどと、接する機会があった。意外にも、神経が細やかな人物が多かったのである。感情的であるとともに感傷的でもあるのだった。内面的には、女に近いのかもわからない。あわてふためいて借金を返しにきた中年男のことを哀れに思い、「疲れたろ。ま、お茶でも飲んでけや」と言わないとも限らない。そうなった場合、立場の弱い竹森は、唯々諾々として従わざるをえないことであろう。15分ぐらいの遅れならば大目に見てやろう、と思った。