起きぬけに催すのが常なのに、その日には、食後に来た。

 第2便が下りてくる気配はない。しかし、習慣により、5分は待機していることにした。

(米が異なったもの、か。たしかにきのうはお米、ごはんは食わなかったな。……次の保護費支給日までは……1週間ちょっとか。出費を抑えたから、今月はまだ2万円ちかく残ってる。楽勝だろう……)

 長考せずに済むネタはあっという間に尽きた。

 落し紙に手を伸ばそうと思ったところで、チャイムが鳴らされた。午後7時半である。

 訪問者には、まったく心当りがなかった。1畳もない個室のベニヤ合板のドアは、これまた習慣で、開け放たれている。閉所恐怖症の気もあわせもっているためだ。戸建ての家のそれに近い厚板あついたの、しかし古びた玄関ドアは、眼前の廊下を右折して、2メートルほど行ったところにある。そちらには無論、鍵もかけられている。横隔膜を広げた。

「どちらさんですかあっ?」

旭日きょくじつ新聞の竹森たけもりですうっ」

 既知の男、ではあった。いたずら心が生まれた。

「しゃがみなんですよいまあっ」

「わかりましたあっ。ここで待たせていただきますうっ」

 やはりな、と思った。即座に了解してきたからである。その言回しを知っているということは、留置場なのか拘置所なのかはいざ知らず、刑務所の手前の監獄には、収容された経験があるということだからだ。

 それはともかくとして、そういうときに限って、キレが悪いのであった。便器に肛門洗浄装置は備わっていない。2度目にこしらえた紙の層は、廊下を挟んで斜向いにある流し台の蛇口へと、まず運んだ。

 タンクからの奔流の音が響いているうちには、いまだ身体にくさみが付着していそうで、とても誰かと顔を合わせる気にはなれない。相手が同性であろうとも、どうでもいいような人物であろうとも、である。水に関わる音の一切がやんだのち、なお数分をおいてからでないと、なんだか気まずい。そのこだわりもまた、強迫性障害という精神疾患に由来するものに違いない。ともあれ、足音を忍ばせ、上がり口までは、行っておくことにした。

 玄関ドアのすぐ向こうで待機しているはずの男に関する情報を、頭のなかの整理箪笥だんすに当たりはじめた。

 それは、かなり小さな引出しに収められていた。

 旭日新聞の竹森=東京都下府内ふない市からその北側に隣接するこの国別こくべつ市に移り住んでより先、すなわち、生活保護費で購読するようになってから4人目の担当者だった=3つ下だから、48歳である=気の利く男で、集金のときには必ず、1ヶ月分だと言って4箱の洗濯用洗剤を持参してくれるとともに、1ヶ月分の古新聞を引き取っていってもくれた=前職は不明だが、上は左胸に下は右大腿に「KIYOKキヨック」のロゴが入った旭日新聞専売所従業員の制服にはおよそ不似合いなもの、なめし革製品で定評のあるアメリカの高級ブランド『カーチ』の「取っ手つきショルダーバッグ」を集金に用いていたことから、スーツ姿で行う仕事であったことはほぼまちがいない=岩手県出身で、平成23年3月11日の、いまから約2年3か月前の『東日本大震災』に伴う津波で、実家は喪失したものの、家族全員、母親と兄一家は無事だったという=1年前に専売所の国別寺喜多きた支店の店長から愛ヶ窪あいがくぼ本店の店長に昇格し、担当から外れることになった=その際にちゃっかりと、「昇進祝」兼「せんべつ」として、まだ3ヶ月分の契約が残っていたというのに、半年分の更新を要求してきた=後任者、5人目の担当者にも洗剤のことや古新聞のことは必ず継続させると約束したが、実際にはそうはならなかった=本店のほうへ月ごと、2回も電話して、ようやくのことで履行させた……

 すなわち、「負の記憶」で終っている人物なのだった。

 水音が途絶えてから3分は、確実に過ぎていた。玄関ドアの錠を解き、ノブを回しきってから押した。人影がなかったので、呼びかけた。さまざまな事情から、築後32年の、2階のある長屋に住んでいる。公道から最も奥まった部屋、6号室だ。西側にある5号室とは、植栽で隔てられている。そこに住人はいないので、遠慮することはなかった。緑の向こうにいるのかと思い、もう一度、今度は腹の底からの声で、呼んでみた。一呼吸おいて、といった感じで、見慣れた風貌の男が現れた。ただ、その顔色は、最後に見たときのものとはてんで違うものであった。冴えない、としか形容のしようがない。

「あのあの。お久しぶりです。いきなりお訪ねして、すいません」

 近づきながらでそう言ってきた。すでに6月で、日中の気温は30度以上にもなっている。夜間とて暑い。にもかかわらず、竹森は、「KIYOK」のロゴが入ったナイロンの上下を着用している。まるで減量着に身を包んでいるボクサーのようだ。そのことにも、不審感をかきたてられた。

 6号室の南側と東側には、戸建ての家がある。どちらの主婦もひどい無精者であるらしく、2人が放置している10数個にも及ぶ空のプランターが貯水槽、ボウフラ養育場と化している。薄闇にも捉えられるほどに吸血虫が跋扈ばっこする結果となっているのだ。

「早くウチんなかへ入ってください、虫が入ってきちゃいますから」

 片手を背後に回して玄関ドアを閉めると、竹森は深々と頭を下げてきた。例の高級ショルダーバッグは持っておらず、手ぶらであった。

「びっくりしましたよ。何かあったんですか?」

 ないわけがないとわかっていながらで、そう言ってやった。洗剤配布の約束に関しての、軽い復讐を試みていた。竹森は、おカッパのような髪型の頭こそ起したが、視線は上げなかった。泣きだそうとしている人のように、鼻を鳴らしながら大きく息を吸い込んだ。

「あの。……あのあの。……あのあの」

 焦茶こげちゃ色に染められた長髪の根元が、1センチほど白くなっている。それもまた、初めて目にする光景であった。白髪頭であるということを、この日に知らされた。他方、髭は、従来どおりにきちんと剃られていた。

「いったいどうしたんですか? ……あなたももう50ちかいんだから、はっきりと言ってくださいよ。どんなご用なのか言ってもらわないと、ぼくだって対応のしようがないでしょ」

 直後、竹森は黒目を向けてきた。吐き散らしたその息からは、タバコの煙のニオイが濃厚に認められた。露骨に顔を背けてやった。

「あのっ。……でもやっぱ」

 顔を戻すと、竹森がまた下を向いているのが捉えられた。

「何があったんですか? ぼくにできることなら、力をお貸ししますから。……じれったいな。さあ、言ってくださいよ」

 このときには、竹森は顔を上げなかった。

「金を貸してくださいっ。利子もちゃんと付けてお返ししますからっ」

 早口で言い終えると、ヤニくさい髪を揺らしながら姿勢を正した。

「夏のボーナスが2週間ぐらい先に出るんですっ。そのときまでお借りしたいだけなんですっ」

 なぜだか笑いを催した。

「意地悪を言うわけじゃないですけど、ぼくだってカツカツの暮しなんです。貯金なんて、ありませんよそんなもん」

 腹部の揺れをこらえるため、また拒絶の意思を示したいためで、腕組みして仁王立ちになってやった。

「それならっ。これからサラ金に行って借りてもらえませんかっ。おれはもうあちこちから借りまくってるんでダメなんですっ。いま必要な金っていうのもまちきんっ。ヤクザから借りてる分なんですっ。今夜8時までに持っていかないとおれっ。ひどい目に遭わされることになってるんですっ。どうか助けてやってくださいっ。このとおりです新開しんかいさんっ」

 竹森は、玄関の沓脱ぎに両膝を落すや、上体を前へ倒した。生活保護受給者を相手にしているということを、もちろん彼は知らない。床屋代を節約するためで、スキンヘッドにしている。そうであるのだが、世人の多くと同様に彼もまた、人工的ハゲ頭=僧侶もしくはヤクザ、という説を妄信しているのかもしれない。そのどちらであろうとも、世帯用の長屋に単身で居住していることから、そこそこの資力は有しているものと踏んだのではなかろうか。

「そんなことされても困りますよ。サラ金におカネを借りにいくことも、申し訳ないけどお断りします」

「どうかお願いしますっ。時間がないんですっ。ご恩は一生わすれませんからっ」

 竹森は、玄関のコンクリートの上でガマガエルのようになったまま、微動だにしないでいる。そのかたくなな様子が、ある種の殺気を感じさせた。刃物を飲んでいるのではないか。断固たる態度を継続されたときには、破れかぶれになって暴れるつもりでいるのではなかろうか……

 ご恩は一生わすれませんから――その言葉から、7年前の出来事、生活保護費の支給が決定する直前のことを思い出した。かつて実家の存在した土地の隣近所のおばさんたちにまで、頭を下げて回った。3千円くれたのが1人だけいた。そんな金員では何ともならなかった。それを元手、交通費にして、神奈川県の外れに隠居している大学時代の恩師を訪ねた。当時の1ヶ月分の最低生活費であった18万円を、証文なしで、貸してもらえることになった。返さなくてもいいから、2度と借りに来ないでもらいたい――そう言われた。保護費から、18ヶ月間、1年半、月額1万円を現金書留で送付し、男の意地を示した……

 現実に目を戻してみると、竹森は相変らずであった。借金の申し出を受けてからでも10分は経っている。時計を見てみた。7時45分をちょっと過ぎていた。

「ヤクザのところへは、ここからどのぐらいの時間で、行けるんですか?」

 竹森は、遊泳中に呼吸するときのミドリガメのように、首から上だけを起した。

「5分あれば、バイクぶっとばして間に合います」

「てことは、5分の余裕はある。これから5分間なら、どうにかできるってことですね」

「できます」

「いくらいるんですか?」

「8万7千円です」

「うーん」

「持っていけるんなら、電話しておけば、30分ぐらいなら、遅れても許してもらえると思います」

 言葉を切るごと、段々に、竹森は上体を起していった。その両目は、契約更新をせがんでくるときにはいつも見せていた輝きを、いつしかたたえていた。

「じゃあ立ってください。あそこのテーブルの前の……」

 左肩から先を持ち上げ、室内の一所ひとところを指し示してやった。竹森の顔面がそちらへと向けられたことを、認めた。

「肘のせの付いてるほうのイスに、座っててください。そっちが来客用ですから」

「んじゃあ。貸していただけるんですか?」

「実はね。万が一に備えて、2階の金庫に10万円、収めてあるんです。そこからお貸ししましょう。ただし、一札いっさつ入れてもらいますよ。いいですね」

「わかりましたあっ」

 竹森は、立ち上がった。飛び上がった、といったほうが正確な身のこなしを見せた。両手を拳に固め、腹の前あたりに突き出しもしていた。いわゆる「ガッツポーズ」という姿勢であった。礼の言葉も他家に入る際の断りの言葉も口にすることなく、合成皮革製らしい安っぽいスニーカーから、6月の暑さに蒸れていたはずの足、それも素足を、交互に引き抜いて上がってきた。

 一様ではない腹立ちを覚えた。しかし、困窮の極みにある人間とはそういうものなのかもしれないと、思い直した。便箋とボールペンと朱肉、そして現金を取りにいくべく、階段を上がりはじめた。