だがわたしは、わざわざそうする気には、どうしてもなれないのだった。

 授業中は、話相手が自分だけになる。五、六時間目のわたしは、前日のそのころに変わりなく、苦しめられることとなった。この日に自分が・証明書ごときのために・カレシにではなしにヤブ医者によって・ベッドではなしにヘンテコな台の上で・男のツノではなしになんらかの器具で・何の感動も見返りも与えられず・処女をうばわれてしまった・可能性がある――そのいずれかに関すること、あるいはそのいくつかの合体した内容に、休みなく、頭のなかをねり歩かれるのであった。なんらかの器具――それのやってきた何度目かに、カーテンの向こうで医者と看護婦の交わしていた言葉が、思い出された。苦しみからのがれるキッカケを、与えられたような気がした。二人の関係について考えようとしたとき、六時間目終了のチャイムが鳴った。

 放課後になってほどなく、オジイが教室に入ってきた。手招きしながらわたしを呼んだ。 生徒指導室に入り、向い合せに座るとすぐ、オジイはわたしの前におサイフを置いた。それの上に、手書きの文字の並んでいる紙をかぶせた。彼の顔に表情は見られなかった。

「停学三日ということに決まってたんだが、さっきのきみのあれで、始末書で済まされることになった。その紙は、かつて出された始末書のコピーだ。それをお手本にして、似たものを出しなさい。お父さんの署名ナツ印も、忘れずにもらってくること。三日以内、きょうが金曜だから、来週の月曜までには提出すること。それから、盛り場やデスコには、在学中には二度と行かないこと。学校の外でも、なるべく女の子といること。以上だ」

 そこまでを一息に言い終えると、オジイは間をあけず、手のひらで机を叩いた。

「そうだそうだそうだ。デスコのカードや、ほんらい高校生に必要のないものは、学校で没収したから。わかるね」

 彼の顔からいっときも目をそらさないでいるわたしに、恐れを感じているらしい。貧乏ゆすりの振動が、床板を通じて休みなく伝わってきている。同室中に脳イッ血か心ゾウ発作を起されても困るので、わたしのほうで切りあげにかかってやることにした。

「先生。あの証明書をもらうのに、わたしがどんなに恥ずかしい思いをしたか、おわかりになりますか? 先生さえ信じてくれてたら、あんなひどい目にあわないで済んだのに」

 捨てぜりふを吐き終えるなり、わたしは勢いよく腰を上げた。オジイはうなだれていた。処女であることが認められたばかりだというのに、産婦人科の医者に処女でなくされたかもしれないとは、さすがに言えなかった。おサイフと紙とを一緒にひっつかむと、わたしは生徒指導室を飛び出した。学校に勝った喜びは、もちろんあった。だが、もう一つ別の、悲しみとも怒りとも違う、言葉では表現できないような感情も、わいていた。しいていえば、恐れに似たものであった。教室へと通路を走るわたしは、その感情による涙に、何度となく行く手をはばまれることになった。

 

 そのときの、恐れのような感情が何であったのかは、数ヵ月後、その年の夏休みになってからわかった。

 わたしの大事なダーリン、Cくんが、電話しても出てこなくなった。彼の友だちにサグリを入れてみた。海で知り合った女子大生と毎日のように会っている、とのことであった。

 やがてわたしは、Cくんから別れ話を切り出された。二人の女とつきあうことだけは、女優のママに固く禁じられているから。そう言ってきた。さらに、セックスがしたいばかりに好きでもない女とつきあっているのだと、涙ながらに訴えてきた。わたしは根性を決めた。処女をあげるから、と彼の手をにぎってやった。Cくんはうなずき、さらに泣いた。

 初体験の場所は、彼のベッドの上であった。

「真っちゃん。ボク、怒らないからね」

 わたしの髪を撫で、呼吸を整えながら、Cくんはそう言ってきた。腰を動かしていたときと変わらない、苦痛に満ちた表情をしている。

「でもホントのこと、教えてよ。ボク、何人目だったの?」

「なに言ってるのよ。処女なんだもん。初めてに決まってるでしょ」

「だって血、出なかったよ」

 わたしはあわてた。女性雑誌から仕入れた知識で、取りつくろっておくことにした。

「あら。知らないの? 処女でも血が出ないひとだって、いるのよ」

「でもあそこだって、ベチョベチョになってたし」

 言われてみれば、かつて産婦人科で体験したような痛みは、まったくなかった。だが、引っ込むわけにはいかない。Cくんが気の弱いことを幸い、わたしは彼をにらみつけた。

「なによその言いぐさはっ。せっかく処女をあげたっていうのにっ。わたしを疑うのっ? やるだけやっといてっ。このドロボウッ」

「そんなあ。……わかったよ。もう一回やってみよう。いやあ。もっともっとだ」

 結局、なんどCくんが入ってこようとも、血は一テキも出なかった。三回目のとちゅうからは、少しだけではあるものの、わたしにもセックスのよろこびが感じられた。

 そして、その晩からであった。あの銀ぶちメガネの産婦人科医に、処女をうばわれたのではないか。その想いが、わたしのなかでゆるぎない確信へと変ったのは……             

 

 以上のことを、もちろん親友の体験談として、省略して、わたしはお話ししました。

 チェーンスモーカーの敏子さんがタバコにさわりもしなくなっていたことを、話を進めながらも、わたしはシカと認めていました。わたしが彼女に勝ったことは、ほぼ間違いありません。でも、確認したかったんです。

「いかがでしたでしょうか? あの、杉田さんは?」

「フ。どうって。……でもやっぱり、ありきたりのお話なんじゃないこと? あたくしには、あんまり興味のないお話でしたけどね」

 ちょうどそこで、始業五分前のチャイムが鳴り渡りました。語り終えた疲れもあったのでしょう。わたしはぼんやりしていたようです。ハッとしたときには、目のなかを、同期の子や後輩たちが、セカセカと動きだしていました。コーヒーカップやら灰皿やらの片づけも、わたしたちの仕事とされているんです。背中をつっつかれ、振り返ってみると、敏子さんがいました。

「フ。なにボケッとつっ立ってるんですか。さっさとやるべきことやりなさい。午後一のお茶出しも、きょうはあなたたち二班のやる日でしょ? ほらさっさと」

 その言葉で、化粧仮面の看護婦のことを、わたしは思い出しました。それでなのか、その女と敏子さんとが外見もどこかしら似ていることに、気づきました。看護婦への借りを、いつかおまえに返してやる。そう心に決めながら、わたしは笑顔を返したのでした。

 お盆を持って給湯室に向かっていると、同じ財務部では一番の仲よしの、同期の関根ちゃんが、小声で話しかけてきました。

「杉田ってホント、ムカつくよね。ウチの課長から聞いたんだけど、あのババアまだ処女なんだって。あんなドロだらけのカボチャみたいな顔の女、誰も手なんか出すわけないか。大金もちの娘らしいけどさ。へへ。あれじゃない? さっきの斎ちゃんの親友の話で、きょうの会社がえりにもさっそく、産婦人科いくんじゃない? それで処女証明もらってさ。いざというときのあたくしの品質保証書だわ、とか考えてさ。純金の額ぶちにでも入れて、喜ぶ気でいるかもよ。ね。えへ、えへヘヘへ」

 わたしは顔をほころばすだけにとどめておきました。笑い声を出してしまえば、その話を聞いたことを、認めることになるからです。そうなれば、わたしが言ったことにされてしまう恐れも出てきます。相手が仲よしといえども、油断は禁物なんです。

 湯呑み茶わんがハチの巣のように並べられ、お湯が沸くのを待つばかりとなったとき、給湯室にいるのがわたしだけになりました。

 なにげなく鼻をほじってみたところ、いつになく大きな収穫をえられたんです。カゼ気味なのか、午前中のわたしは、なんどとなくハナをすすっていました。それが固まったものなのかもしれません。とにかく、ただ捨ててしまうには惜しいほどの立派さなんです。

 どうするべきか。そのことを考えているうちにも、わたしの目は、一つの湯呑みしか見なくなっているのでした。

             (完)