ここから先には、夢に観た出来事と重なる部分が多々ある。そういう記憶はできるだけ掃き除こうと、私は思った。それとは違う記憶をのみ抉り出すよう努め、拾い上げてみることにした。

 

 

 山上が、むせび泣きをはじめた。正座させられている面々のなかにも鼻を鳴らしだす者がいた。

「オレはおふくろに抱きつきながら叫んだっ。おかあさんごめんなさいっ。必ずや立派な男になりますからっ。……オレはおふくろの背中に顔をくっつけて泣いた。しこたま泣いた。目玉が溶けるほどに泣いた。ただただ申し訳なくって、死にたい心境だった。……そんなオレにだ。おふくろはやさしさに満ちた声で、優ちゃんは苦労人ねって。そう言ったんだ。……オレはおふくろの顔を見ようとした。涙ながらによじのぼっていった。ありがとうおかあさあんっ」

「わかるっ。……ううっ。……手に取るようにわかるぞモロッ。……ウオーッ。……おふくろおーっ」

 そう吠えつつ、山上は、激痛でも堪えているかのように、腹の前で両拳を握りしめている。いわゆる「ガッツポーズ」というやつである。良子は、ハンカチで目を覆っている。打算的な柔道部でさえも、親指の付け根を頻繁に目尻へとやっていた。そうした動きを見せているのは、誰も彼もが二浪の連中ばかりなのであった。

 突然、両岡は身を反らした。うしろから何かに牽かれているかのように、両手を宙に放っている。

「ギッギャーッ。そのときだっ。そのときだったんだあっ」

 柔道部が丸っこい上体を左右に揺すった。

「どげんしたとなっ? そンときんナンが起きたとなっ?」

 両岡は応えず、交霊の成った直後の霊媒師のように、揺らめきながら前のめりに畳へと落ちた。聴衆が口々に、彼の名か愛称かを叫んだ。またしても山上が、彼を抱き起しにかかった。

 私の眼中に戻ってきた両岡の顔には、表情がなくなっていた。元来が筋でしかないその目では、その精神状態までを察せられようはずがない。赤かった顔面の皮膚の白んでいるのが、ただわかるのみだ。両岡は、憑依された人というより、瀕死の人であった。そうであることを見取った聴衆の誰かが何ごとかを叫んでいても、なんら不思議はなかった。しかし、あたりには、すでに死んでいる人を取り囲んでいるような空気、通夜の席にも似た静けさが、淀んでいるだけなのだった。

「水でも持ってこようか?」

 静寂を破ったのは、隣の間、本来の宴席に最も近いところで正座していた、野球部の加藤であった。唖者なのではないかと想われるほどに、日頃の彼は無口である。だから、鮮やかすぎた。正座の首が一斉にそちらへと流れた。もう一度その声を聞いてみたいという念が、目にも見えるようだった。

「いらんこと言うな加藤っ。モロの話はまだ終っとらんのだぞっ」

 山上のその怒声が合図ででもあったかのように、両岡は蘇生した。その反応の唐突さは、使い手に話しかけられたときの腹話術の人形のそれと、実によく似ていた。衆目を引き寄せるためでなのか、驚きの動作から、彼は再開した。その声もまた、腹話術の人形のそれとそっくりの、突拍子もないものに聞えた。

「だからセンパイッ。そのときに何が起きたっていうのっ?」

 この回に間の手を入れたのは、良子だった。

「その瞬間だっ。オレの全身の血という血がだっ。一瞬にして一滴のこらず凍ったんだっ」

「なんでっ? どうしてなのっ?」

「聞いて驚くなよ良子っ。驚くなよみんなっ。……いいかっ? ……いいんだな。……オレの。……オレのだ」

 次なる噴火のためのエネルギーを、蓄えているのであろうか。上体は前屈みに、言葉はブツ切りに、声はかぼそくなっていく。隣にいる柔道部の唾を呑んだ音が、私の耳にまで届いた。そちらへと、目を誘われた。真剣そのものの顔つき、目つきをしているのが見えた。子供時分の、紙芝居屋のおじさんの話に聞き入っているガキ大将の横顔が思い出され、私は笑いを催した。仮に超一流企業への入社が叶ったとしても、そんな純真さでは定年まで下積みで終ることになるぞ。そう思ったところで、いきなり地鳴りが起きた。

「グワーッ。オレのっ。オレのおふくろの頭はっ。真っ白になってたんだあっ。白髪一本なかったはずなんだあっ。近所で美人だって言われてたおふくろがなんだあっ。ぜんぶオレのっ。ダメ息子のオレのせいなんだあっ」

 地面に叩きつけられた粘土の玉のように、両岡は畳にひしゃげた。拳骨を握り締め、背骨まで震わせ、全身で泣いている。日本が太平洋戦争に敗れたことを聞いて皇居の前で玉砂利に伏している婦人――その写真が、私の頭には思い浮かんでいた。それほどの一大事とは、とても考えられない。あまりの芝居気に耐えきれず、私はとうとう噴き出した。ことさら笑声を絞り出しながらで、腰を上げた。

「気でも狂うたんか遠藤っ。何がおかしいんじゃっ」

 団栗眼を一回り大きくしている山上であった。蛮声ではあったが怒声ではなかった。心底から私の頭を疑っているかのような、呆気に取られた顔をしている。

「気が狂ってるのはそっちだろうが。ええ? なんだよ、いい年して大袈裟に。ケヘッ。とんだ茶番だぜ」

「これえっ。おまんことばが過ぎんぞ遠藤っ」

 柔道部が下から睨みつけてきていた。敵に回すつもりのなかった相手である。かわそうと眼を転じてみたところ、同種の眼がそこかしこにあることが認められた。私は怯んだ。どうにか言い繕って難を逃れたい気になった。だが、その考えを押し殺した。さらに攻撃的に出ることを決めた。年は下でも格は対等なのだという入学以来の稚拙な気負いが、心の深いところにはまだ残っていたらしい。

「なんだおまえらのその眼はっ。ええっ? 自分たちだけが苦労したなんて思ってんじゃねえやっ。生半可にダラダラやってたからっ。浪人することになったんだろうがよっ。ええっ?」

「なんだと遠藤っ。浪人したこともないおまえに、何がわかるって言うんだ。あの肩身の狭さの、どこがわかるって言うんだよ」

「そうだ。クモやヤモリやゴキブリみたいに、コソコソ生きてるしかなかったんだぞ」

「しかも社会からだけじゃないんだ。親戚一同からさえも、低能あつかいされるんだぞ」

「そうだとも。たしかにおれたちは、おまえに比べると、頭の出来が良くなかったのかもしれない。でもそのぶん、両岡ほどじゃないにせよ、親をありがたく思う気持は深まった。心から親孝行しようと決心したよ。だからおれは、いい経験をしたと割り切ってる。残念ながらおまえにはまだ、絶対にわからんと思うけどな」

 言葉で、袋叩きにされた。一回目のクラス会でのこと、日本酒でそうされたことを、私は思い出していた。あやまちのある者こそが真人間であるという妄信。異種の者はただ排除してしまえば済むという猿知恵。腕力以外ならば何を用いても構わないという破れかぶれ。そんな共通項を持つ彼らとの溝は、こちらがどれほど望んだとしても、決して埋めることなどできはしない――そのことを、事ここにきて、私はしかと悟ったのであった。

 私への攻撃が途絶えたところで、畳に伏していた両岡が、ゆらゆらと立ち上がった。光沢に満ちた顔で、私に向けてまっすぐに、お定まりの右手人差指を突き出してきた。

「おい遠藤っ。落ち零れたことのないおまえには、一生わからんだろうさ。苦労を伴にしてくれた母親に、土下座して詫びたい、その恩を倍にして返してやりたいっていう、ダメ息子の気持はな。いや違うっ。おまえごときになんぞ断じてわかってほしくなんかないっ」

 ごとき――その言葉に火を着けられた。徹底的にやり込めてやろうという思いで、私は胸を燃やした。

「うるせえやっ。この酒乱のマザコン野郎がっ」

「この恩知らずがっ。誰の世話にもならずに生きてこられたと思うんじゃねえぞっ」

「ほら出たっ。聞いたかみんなっ。このオッサンは一年のとき、俺をタクシーで送ってったときのことを、いまだに恩着せがましく言ってんだぞ。去年のディスコのあの事件のときにも、それを持ち出してきやがったんだ。きょうここには来てないけど、松島に聞いてみてくれ。俺の言うことが真実なのがわかるから。このオッサンがどんな薄汚い魂胆でいるのか、知れたもんじゃねえんだからな。みんな断じてだまされんなっ」

「だってそりゃあおまえ。それはそれじゃないか」

 そう言った両岡の頬の肉に、確たる動揺が見て取れた。助け船を探すときの活発な黒目の動きが、筋の目のまわりにある筋肉にも、認められた。衆目はこちらに向けられている。芝居には芝居で応じてやろうと、私は思った。大袈裟に首を回して両岡から眼を外し、聞えよがしに舌を打ち鳴らした。

「違うね絶対。お袋のありがたみを語ることで、クラスのみんなの、あんたへの感謝の気持を呼び覚ましたいんだ。みんながあんたを、大事にしてくれるようになることを企んでる。そうに決まってるんだ」

 瞬時には返されなかった。眼を戻してみると、両岡は、てんかんの発作でも起したかのように、ぶるぶると首を震わせていた。図星だったらしい。

「こっ。……こっこ……こっこ」

「ニワトリみたいになんだそりゃっ。そのとおりだから何も言えねえんだろうがっ」

「こっこ。この小僧っ。とっとと帰れっ。帰るんだっ。いますぐオレの視界から消えろっ」

「なんだ偉そうにっ。おめえが帰りゃいいだろうがよっ」

 そう放った私に、山上が飛び掛かってこようとした。柔道部と空手部とが、取り抑えた。

「遠藤よっ。きょうは会費いらんチッ。オイが出すキッ。すまんがオマンっ。引き取っチくりっ」

 和解に持ち込まれるものと期待していた私は、苦しげな九州弁に拍子抜けした。大学に入って最初に知り合った、屈強な身体を持つこの男までが、両岡の魔法の言葉に酔わされている。そのことがわかり、いっぺんに白けた。

 それで、私にとっての、その晩の「事件」は終った。両岡に負けたとは思わなかった。

 しかし、勝った実感もなかった。アパートに帰り着くや、私は、玄関口から二メートルと離れていない台所で、女を押し倒した。エプロンを引きちぎった。ありったけの力で、突きのめした。

 後日、クラスメートの誰彼に遇っても、一人としてその晩の件に触れようとする者はなかった。私のほうで切り出そうとしても、まるで関連のない話題に切り替えられてしまう。みずからの悪事について非難されだしたのを、一刻でも早く封じ込めてしまわんとするような焦り――そんなものが見え隠れする。その出来事に関して一言でも発してしまえば宗教的な戒律を破ることになる――そう言わんばかりの畏怖の念が、そこはかとなく感じられる。両岡に助けてもらったことがあるという負い目が、彼らの口を自主的につぐませているのだろうか。はたまた、新種の魔法の言葉で、口封じされているのであろうか――その理由は様々に想われたが、結局のところ、私にはわからないのだった。

 不可思議なことは、そのことに留まらなかった。「事件」の首謀者である、私を憎んでいるはずの両岡と山上。その二人ですら、なんらのわだかまりも見せず、それ以前と同様に接してきたのだ。顔を合わせる都度、なごやかに話しかけてくる。学内で見かけたからと、私が同居している女の美しさを羨ましがったりもする。私がみずからの手で生活費を稼いでいることを、真顔で褒めてくることさえあった。のちのちに大きな災い、天災のごときものを準備されているようにも想われ、私は気味が悪くてならなかった。

 私だけが「事件」に拘泥しているのも、何やら大人げない気がしてきた。というより、そういう気分にさせられた。また、日々の生活に翻弄されているうち、私もいつしか、その出来事による憤りを捨ててしまった。両岡をなじりたくなる感情も、その存在を見ないでいる時間の長さにより、薄められていった。