「なに言ってるのよっ。山上くんがヤクザみたいな男とケンカしだしたのよっ。まだ口論の段階だけどっ。松島くん空手二段なんでしょっ。遠藤くんもボクシングやってたんでしょっ。早く止めにいったらっ」
「それできみはっ。どこ行くんだっ?」
「現役のくせに遠藤くんてバカねっ。帰るに決まってるでしょっ。こんなところに来てたことが親にでもバレたら困るもんっ」
コインロッカーのありかへと驀進していく女を、私は口を半開きにして見送った。直後、低い声が、右耳だけに送り込まれてきた。
「よお遠藤。うかつに手出ししねえほうがいいぞ。面倒なことに、なっかもしんねえし。ほかならともかく、新宿ってえとこは、いろんなとこのが混じっててな。おれでもどうともできねえかもしれん」
松島の父親は、表向きは興業会社の長だが、実のところは広域暴力団の傘下にある組の長であるという。この場を有効活用し、彼はそのことを、私に思い出させたいようである。のちに女の取合いが起きないようにしておこう。そういう腹なのかもしれなかった。小賢しい奴だと、私は心のなかで彼を睨んだ。
「なんにせよ、喧嘩の原因もまだわからないんだ。とにかく現場へ急ごうぜ、マッちゃん」
ひどく馬鹿げた理由から交戦状態になっているのだということを、私たちは前山から聞いた。彼もまた、現場から離れ、その近くにある鏡張りの柱の陰に隠れていた一人だった。
クラスで最も美形だと認められている川中良子に、ヤクザふうの男が、チークダンスを申し込みにきた。彼女が応じようとしたところ、山上が、二人のあいだに割って入った。本人が承諾しているではないかと、男は目を吊り上げた。クラスで来ているのだから部外者は入ってくるなと、山上は怒鳴った。良子にも顔を向け、その尻軽すぎることをとがめた。彼女が座りなおすほうを選ぶと、男が怒りだした。うるさいとばかりに山上が、そのスーツのズボンに酒をぶっかけた――そういうことなのであった。
「ヤバイよあれ。絶対どっかの組のモンだよ」
前山は、彼本人が何かをされたわけでもなさそうなのに、すっかり怯えていた。パンチパーマをかけた、チンピラのようなヘアスタイル。背中に昇り竜の描かれた、彫りものもどきのアロハシャツ。金色で揃えたアクセサリーの数々。それらは、ただの虚仮おどしでしかないらしい。
ヤクザ者であろうがなかろうが、男の言い分のほうが正当なのだ。単なるクラスメートにすぎない山上に、良子を拘束する権利はみじんもない。かてて加え、喧嘩を売ったのは、相手のズボンを汚した彼のほうである。もともと酒乱の気があることは、私も知っている。だが、赤の他人に危害を加えるほどにまでその癖を悪化させているとは、想ってもいなかった。山上は、私より二つも年長である。騒動を起しているということ自体に、腹が立ってきた。
「一回ブン殴られとけばいいんだ。のちのちのためにも。酒乱野郎なんか放っとこうぜ」
「けど相手がトウシロじゃねえとすっと、そうも言ってらんねえだろ。ひでえことになりそうなら、どうかして止めてやんねえとよ」
そう言うのならと、私は松島に先を歩かせた。気乗りがしなかった。
現場には取巻きができていた。黒い服を着た、一見して店の従業員のそれとわかる立ち姿もあった。無関係な者が仲裁できうる雰囲気ではないことも、そのことで見えた。
「しつこいんじゃっ。クリーニング代なら出しちゃるっち言うとろおがっ」
「つべこべ言ってるのはそちらさんでしょっ。とにかく店の外へ出てもらえませんかっ。話はそれからにしましょうよっ」
まずは怒声から、届けられた。膠着状態にあるらしいことが、わかった。身を寄せ合っている女たちのうしろに、松島と並んでみた。前山が言っていたとおりで、相手の男は、なるほどその筋の者とおぼしき面がまえ、いでたちをしている。山上の隣で良子が、姿勢正しく座っているのも見えた。男の口ぶりが外見に似つかわしくなく紳士的なのは、彼女を誘うことを諦めていないからなのであろう。
「なんでわしがおのれの指図うけにゃならんのじゃっ。ああっ? 話があるんならここでせいやっ。おおっ?」
山上のほうが極道者のような口の利きかたをしている。ますます私は放っておいてやりたくなった。眼をよそに転じたとき、いきなり四囲が明るくなり、激しいビートが轟きだした。それを受け、ダンスフロアへと急ぐ人の流れが生まれた。見物人たちにとっては、山上たちのことなど、所詮は「チークタイム」のあいだの暇つぶしだったようである。
あれよという間に、人垣が薄くなっていった。クラスの面々が鮮やかに捉えられた。猛者を気取る柔道部も空手部も、アゴを引いて腕を組んで眺めているだけなのであった。野球部の二人、桜田と加藤とて、変わりなかった。訝しさが込み上げてきた私は、思わず知らずのうちにも、前に立っているテニス部の女に大声を放っていた。
「なんでみんな止めないんだよっ?」
「あんたバカ――っ? まきぞえ食って部活が停止――っ。どう言い訳すんのさっ?」
「そういう――っ。あれはどうしたっ?」
松島が、横から口を挟んできた。
「あれって何さっ?」
「オッサン――っ。両岡のオッサンッ」
「そうだっ。あいつ逃げたのかっ?」
「ああっ。センパイ――男の相棒と――っ。とっく――わよっ。おまわり――ないっ?」
大音のなかでは、話すのにさえ一苦労させられる。それでかどうか、松島は、テニス部には頷いて返しただけであった。その代りのように、横に立つ私には、何か意味ありげに目を剥いて見せた。
山上と男は、水の代りに音が満たされた透明な容れ物のなかの、絶命寸前の魚になっていた。断末魔によってなのかの憤怒の形相で、口だけを激しく動かし合っている。たまさか角刈りが、オールバックを先に昇天させる目的でなのか、前鰭でテーブルを打つのが見えるくらいである。その光景を滑稽にさえ思いだしている私に、善後策など考えられようはずもなかった。退屈さから取巻きに眼を向けてみた。死んだ魚の目玉が鈴なりになっている風景しか、認められなかった。時の経過すら忘れさせられそうである。パントマイムを眺めていたほうが、そこに動きのある分まだマシだ。そう思い直さざるをえなくなった。
山上たちをあいだに挟んだ向こう、出入口に近い場所で、悲鳴が噴き上げられている。そのことが、そこに立ち並んでいる女たちの身ぶりでわかった。何者かが店に近づいてきている。そのことも、女たちの目玉の動きで読めた。
両岡のものと酷似した顔が、女たちに囲われた空間に生まれ出てきた。私の記憶するそれとは、細部において異なっていた。頭が七三に分けられていない。頬がよほど丸みを帯びている。何よりの相違点は、鯰髭を生やしていることである。重力に任せて伸び放題にしている。その一部は、ポロシャツふう半袖シャツの前身頃にまで、至っている。やがてはその色も判明した。髭ではなく、鼻血なのであった。
その男のよろめきながらの登場により、動きの限られていた無言劇に活気が流れ込んだ。 両岡に似た男は、山上たちの成す三角地帯に足を踏み入れた。ズボンの尻ポケットから正方形を抜き出した。きちんとアイロンがけされたままの、未使用なのが窺われるハンカチなのであった。鼻血を拭うことが、私には予想された。だが違った。肥満体の男は、右手にある布のことなど忘れてしまっているかのように、あたかも彼の信仰対象に遭遇してしまったかのように、あたふたとオールバックの男の前に跪いたのである。
鼻血男とヤクザらしいオールバック男との、無声のやりとりが、しばらく続けられた。何ごとかを叫ぶ口つきを見せると、ヤクザは横を向いた。鼻血は、相手のズボンの膝のあたりへと、躄っていった。その一所をハンカチで擦りだした。ヤクザは、股を開いてそれを遮り、再びパックリと口を広げた。
良子が、動きを起した。涙でそうなったのであろう。化粧が爛れている。ヤクザの前で正座している鼻血の肩に、うしろから手を掛けた。泣き顔で口をうねらせた。タバコを揉み消した山上が、肩を怒らせて立ち上がった。ヤクザに向き直ると、食らい付かんばかりの大口を開けた。ヤクザがゆらゆらと腰を上げていくうちにも、鼻血が山上にビンタを食らわせた。山上が椅子に頽れた。鼻血の右手人差指に命じられ、良子も席に戻った。
ヤクザは、両手をズボンのポケットに入れた姿勢で、佇んでいた。含みのある笑みを目に浮かべながらで、口を開閉させた。それがスイッチであったかのごとく、鼻血がそちらに向き直った。丸くしていた口を一文字に結ぶと、俯いた。だが、直後には、にこやかな顔を起した。さっさとヤクザの足許へと転がっていった。ただちに土下座した。顔をなかなか上げないでいるばかりか、さらに沈んでいった。
私は首を突き出してみた。低い所で起きていることが、前にいる女たちの頭で見えなかったからである。緊迫した空気を頬に感じた。
なんと鼻血は、ヤクザの靴の裏を舐めさせられているのであった。底意地の悪いことにもヤクザは、踵までは浮かせていない。それがためにも鼻血は、犬猫でもおいそれとは見せないようなポーズをとり、顔の片側を床に密着させて舐めざるをえないわけである。悲惨としかいいようのない光景だった。
どれほどの時間が過ぎていたのかは、私にはわからない。
長身のヤクザが、渋い顔をして去っていくのが見えた。鼻血は、その場に伏したままでいた。息を荒げていることが、その甲羅の震えかたにも明らかであった。
良子が、続いて山上が、飛び付いていった。頭に毛の生えているウミガメは、前鰭だけで二人を払い除けた。フロアの下にでも潜り込もうとするかのように、もがくことをやめなかった。取巻きから、まずは野球部の二人が、次には柔道部と空手部が、続いては男のクラスメート二人ずつが、相次いで引き剥がしに向かっていった。しかし、ウミガメは頑として応じる姿勢を見せない。店の従業員も含め、クラスと関係のない人間たちは、その時分にはすっかり消えてしまっていた。
不意に、誰かが私の肩を叩いてきた。松島であった。
「よう。おれたちもやってみっか。おまえに言われりゃあ強情な両岡も、起き上がるかもしれめえ。なんたって、センパイなんだからよお」
「あれ両岡なのか?」
「なに寝言こいてんだよ。あの顔からすっと、ずいぶん殴られたみたいだけどな」
断りたい気持もないではなかったが、私は応じることにした。手を出した結果がどうなろうとも、顔さえ出しておけば、あとでうしろめたい思いをしなくて済むことだけは、保証されるわけだ。自分もまた日本人であるということが、強く意識された。
かたわらまで行くと、例の異臭に鼻を突かれた。人間に似たウミガメが両岡であることに、それで合点が行った。その右肩には、すでに松島の手が掛けられている。なので、私は左にそうした。
「おい両岡っ。遠藤も――ぞっ。起きろよっ」
「そうだセンパイっ。起きてくれよっ」
故意に身体を硬くしていることが、眼からでも知れた。とはいえ、小さくない男の二人がかりである。肥満した両岡の上体は、倒れていた石碑のごとく、徐々には起き上がってきた。だが、その猪首から先は、地中の餌を啄んでいる食い意地の張った鳥のそれのように、一向に吊り上がらない。人間の身体では最も重量のある部分だ。そのうえにも両岡は、頭でっかちというか、頭部でっかちと来ている。さらには、重力がそれに加担している。本体の先に鉄球の重しが括り付けられている石板を引き起す――そんな作業をさせられているようなものである。おのれを励ます必要もあり、私は声を張りあげた。
「いつまでもガキみたいにっ。駄々こねてるんじゃねえよっ。みっともねえぞオッサンッ」
こちらの手に一層の重みを掛けてきた。くさみが濃くなった。いっそのことそこで手放してやろうかとさえ思ったが、実行に移すことは、やはりできなかった。
「その言いぐさ――遠藤っ。みっともねえの――こうしてる――かあっ。オレが――わからんのかあっ」
「顔も見えねえのにわかるわけねえだろっ。わかってほしきゃ頭おこしてみろっ」
「この人でなしっ。おまえ――男かっ」