「そうそう。おれも不思議だと思ってたんだ。それまで持ちこたえてた遠藤が、なんで、よりにもよって自分の地元に着いてから、吐いたかってこと。あれはなんでだったんだ?」

「ああそれ。そのことか。単に気の緩みで、そうなったんじゃないのか? オレは遠藤じゃないから、実際のところはわからんけどさ」

 そう言いつつも両岡は、私に向け、波形の目の隙間から、鋭い視線を飛ばしてきていた。それだけで、何を伝えたいのかはわかる。頷くのに代え、私は、相手の目を見詰めながら、水割りのグラスを口へと運んだ。両岡の目が筋にまで細められたので、こちらの気持は通じたのを思った。ところが、なのであった。

「ほらさ。なんせあいつ、まだ十八の坊やだろ。ママの近くまで来られたっていう、甘えみたいなもんで、ついついゲロっちゃったんじゃないか? ハハ。現場に居合わせたオレは、そう観てるんだけどな。おいっ。どうなんだよっ? 遠藤大先生よっ?」

 方々から哄笑が沸いていた。想いもよらないことを想いもよらない口から聞かされたわけで、私は呆然となっていた。それが聞き捨てならない内容でもあったことに気づくと、瞬時のうちにも腹が煮えたぎった。いくら酒の席とはいえ、である。笑声に負けないほどの、抗議の声をあげた。すると両岡は、まるでそうなるのを見透かしてでもいたかのように、私に向けて人差指を突き出してきた。

「そらそら。そうやってすぐにおっ立つ。身体が若いとはいえ、おまえの悪いクセだぞ遠藤」

 一思いに秘密を暴露してやれ。いや、堪えてやるべきだ。ほこたてとが、私のなかでせめぎ合いを続けていた。なかなか勝負がつきそうになかった。

「まあいいじゃないか、そんなこと。誰だって、あすはわが身のことなんだし。それよりも、もっと不思議なことがあるだろ?」

「刑法の吉川のことか?」

「そうだ。ありゃあ間違いなくヅラだぞ。動くたびに頭おさえてやがる」

 私が両岡を睨みつけているうちにも、二つとは別の口が、話題を変えてしまった。

 それからしばらくは、教授や助教授の悪口に花が咲いていた。女子のほかは、誰もが両岡のことを呼捨てにしている。解消されていない怒りもあり、私もそれにならってやろうと決めた。両岡は、話すことに夢中になっている。彼に投げかけるのこそが至当な質問を、私は探しはじめた。

「高原と大村っ。ちょっといいかっ? 割り込んで悪いんだけどさっ。この店は何時までなんだ両岡っ?」

 地上に出た瞬間の地下鉄の車内のように、耳を取り巻いていた音が一遍に薄められた。両岡の顔は、証明写真のそれになっていた。

「なんかよく聞えなかったっ。わりいけどもう一回言ってくれんかっ?」

 無表情のままで、両岡はそう返してきた。

「ここは何時まで使えるんだ両岡っ」

 能面が渋面に変えられた。

「わりいっ。もう一回言ってくれっ」

「だから両岡っ。何時がお開きなのかって訊いてるんだよ両岡っ」

 それに呼応する第一声は、速すぎて聞き取れなかった。金属音に近いものでもあった。

「やい遠藤っ。おまえいつからオレと対等になったんだよおっ」

「初めからに決まってるじゃないかっ。なに言ってんだよおまえっ」

「おまえだとっ。センパイに向かってなんだそりゃあっ。そっこく土下座だっ」

「かわいそうだからそう呼んでやってただけだろっ。あんまりいい気になるんじゃねえよっ。デブ介のオッサンよおっ」

 そこまで私に言われると、両岡は、睨めっこの敗者がそうするように、途端に噴き出してみせた。少女のそれに限りなく近い笑声を、あたり構わずにまき散らした。ややあってから、そのときまで左右に振っていた首をまっすぐに反らし、後頭部に片手を宛がった。

「いやあ。いやいや。参ったなこりゃ。迫真の演技に、なっちまったみたいだな。みんなそんなに驚かんでくれよ。ほらほら。遠藤大先生も。冗談だよ。ただの座興だよ」

 焚き付けられた火をそうやすやすと消してやる気にはなれず、私は両岡から眼を外した。代りに付近を眺めた。陰影の濃淡こそ違うものの、一様に思案顔をしている。そのうちのいくつかの口許には、言いたいことがあるのを堪えている気配も窺われる。

「あのさあモロ」

 口火を切ったのは二浪の野球部員、山上やまがみ克美かつみであった。名簿でも隣合せにされているよしみで、なのであろう。彼だけは、早い時期から両岡と言葉を交わしていた。このごろは、一緒にいないことのほうが珍しいぐらいである。

「一つ下のおれが言うのも、何だけどさ。遠藤の弱味を握ってるからってなあモロ。高飛車に出るのは、ちょっと情けないんじゃないか?」

「いやだからあのその。あれ。あれは芝居だったんだって」

「そうは思えんかったけどな、このおれにも」

 答に窮したときのお定まりで、両岡はタバコを喫いだした。それを合図とするかのように、ライターを機能させる音や、グラスと氷による涼しげな音が、あちこちから生まれた。だが、人の話し声は、座の外からのものしか聞えなかった。手品を見抜こうとするかのような目が、両岡か山上、どちらかに注がれている。

「なあモロ。どうなんだよ?」

「どうってガミ。何がだよ?」

「ホントのところは、先輩って、呼ばれたいんじゃないのか?」

「いやそんな。オレは遠藤にだって、そう呼ばんでくれって頼んでたぐらいなんだぞ。それをあのクソ馬鹿が、しつこいくらいに言ってきやがって。なっ。そうだよなっ。遠藤大先生よおっ」

 衆目もそれと一緒に飛んできたが、私は応えなかった。にわかに赤く染まりだしている両岡の顔を見詰め、口だけを歪めてやった。

「あのクソガキッ。オレがいつ無理じいしたって言うんだよおっ? ええっ? ちゃんと答えろよクソ遠藤マメッ」

「その口の利きかたからしたってからがよ。のう。おのれでどっか威圧的だと思わんのか、なあモロよ」

 またしても山上が両岡を制した。

「もしモロがそう呼ばれたいんなら、おれもこれからは、モロって呼ぶのやめて、センパイって呼ぶわ。人間歴からすれば、たしかにそうなんだもんな。でもそれをひとに、年下の人間に強要するのは、金輪際やめてくれんか? 民主主義に反するし、友だちとしても、見苦しすぎるからよ」

「待ってくれよ。それじゃオレもおまえを、ガミなんて気安く呼べなくなるじゃないか」

「モロはそのまんまでええんよ。なんたって長老なんだでな」

「そんなあっ。……クッソーッ。全部あのクソッタレが悪いんだっ。やいゲロ吐き遠藤っ。なんとか言ったらどうなんだっ。なんとかっ」

「ほらね。これだけ山上に言われてても、痴呆症のじいさんみたいに、まだ同じようなこと言うんだぜ。両岡大先輩、まだまだ呑みが足りてないんじゃ、あ~りませんくわぁ?」

 それまで口を挟まないでいた私がそう言ったので、みんなが笑った。その言葉を山上が拾い、両岡が一気呑みをさせられた。座が穏やかさを取り戻した。

 トイレに起ったらしい両岡を、私は追ってみた。

「ちょっと待ってくれよ。いったいどういうつもりなんだよ?」

「もういいんだ。わかったから」

「何がだよ? 俺に敵意でもあるのか?」

「まったく逆だ。ずいぶん見直した。たとえオレからどんなに侮辱されても、おまえほどの男なら、絶対に口を割らんだろうな」

 その目尻に水の煌めきのあることを、私は認めた。短い声を出すのがやっとになってしまった。突き進んでいく両岡を、数歩おくれで追っていった。ノブのないドアを押したとき、トイレの奥で鍵のかかる音が起きた。

 私は自席へと戻りだした。両岡がひどく屈折した考えかたをするということ。それはわかった。しかし、なぜ彼がそんなふうに頭を働かせるのかということまでは、私には考えようもなかった。ものごとをわざわざ複雑にしているようにも、想われた。野に長く捨て置かれていた犬の心情が、生まれながらの飼い犬に理解できようはずもない。不即不離の関係こそが、両岡と自分との最善の間柄なのであろう。その夜そのとき、私はそう悟った。

 

 三浪の目立たぬ人でしかなかった両岡は、その猥談一つしない生真面目さによってなのか、褒め者となった。さらには、その別け隔てなくの面倒見の良さによってなのか、人気者へと昇格した。彼のニオイが薄まった秋の半ばには、クラスメートの大半が、彼のことを「センパイ」と呼ぶようになっていた。

 両岡は、大方の男たちからは、幼なじみのように頼りにされていた。彼を男と思わない女たちからは、兄のように慕われていた。しかし、彼が女と認めたい女たちには、さっぱり相手にしてもらえずにいた。むしろ避けられていた。好人物であるはずなのに、そうであることを彼自身も信じていたに違いないのに、だ。拗ね者の私のほうが、一対一になりさえすれば、そんな女たちの慈しみを受けられるのであった。はたからそのことを聞かされる彼が、おもしろく思うわけがない。私が戦闘機乗りの革ジャンパーを、両岡が毛布柄の半コートを着だしたころには、どちらからともなく顔を背けあうようになってしまっていた。その革ジャンパーは、私の父親が両岡の定期代やらのために出したカネ、「タクシー事件」に出されたカネで、購ったものなのであった。当然の報酬だと、私は思っていた。

 

 その後に私が遭遇することとなった、両岡による「事件」の第一は、山上の部屋、風呂なしトイレ共同アパートの六畳間で、引き起された。

 すっかり寒くなってきていたこともあり、少人数で鍋を囲む話がもちあがった。帰りの心配をしなくとも済むから、とことんまで呑めるから。そういう理由により、大学から歩いて五分とかからない山上の部屋が、その会場に決められた。主導権は当然、部屋の借り主に握られている。野球部員二人、両岡と私、全部で五人なのを思っていた。ところが山上は、同郷なのを理由に、その場にはいなかった中田なかだまもるをも、誘ってやりたいと言いだした。参加を希望する面々は、意に染まずとも承諾せざるをえなくなった。

 ロックバンドをやっている中田は、詩を書いている私と同程度の、女たらしであった。自分の世界を手堅く守りつつも、女たちとの関係は楽しむ。そういうレベルをうろついている点では同類とも言えたが、決定的な違いもあった。財力である。地方都市の資産家の一人息子であるという彼は、どんなことでもカネで片をつけられるようだった。妊娠させた女にまとまったカネを握らせたあとには、女がどう泣き縋ろうとも知らん顔を決め込んだ――そんな噂が、流れたこともあった。タバコ代とて自分で稼がなくてはならない私は、彼を快くは思っていなかった。というより、どこかで妬んでいた。

 酒盛りの当日になった。全員で買物に行くことが午前に決まり、放課後の正門で待ち合せた。だが、中田だけは姿を見せなかった。

 バンドの練習が長引いた。会場に直接やってきた中田が口にしたのは、それだけだった。悪びれた様子すら見せず、万札を突き出してきた。会費が一人二千円であることを、知らぬはずもない。寄せ鍋が食べられるようになったちょうどそのときのことであっただけに、鍋のまわりからも湯気が噴き上がった。

「なんだきさまその態度はっ。一言いったらどうなんだよっ?」

 最も身体の小さい、野球部員の一人である桜田さくらだあきひろが、飛び上がるなり怒鳴りつけた。

「わりい。だけど仕方なかったんだよ。あっちのほうが先約だったんだから」

「お座なりに謝るんじゃねえよっ」

「まあ勘弁してやろうぜ。な。中田のおかげで予算も増えたんだし。な」

 予想にたがわず、調停役を買って出たのは、両岡であった。

「そうそう。せやけど中田。ここまではわしらでやったよってに、酒がのうなったら、われが買いにいけや。自転車かしたるき。のう」

 これまた案の定で、両岡の言葉にまっさきに同調したのも、山上であった。

 時代や民族が異ろうともそうであるとおり、酒が進めば、その余興は歌と、やはり決まっていた。さらにもこの場には、ギターがあり、それの弾き手もいる。夜もまだ浅い。時計まわりで順々に、声を張りあげることと決まった。両岡が一曲目に選んだのは、大学の校歌であった。

 驚いたことに中田は、私たちの無茶苦茶なリクエストなど、ものともしないのだった。それが童謡であろうと流行歌であろうと、平然と伴奏をつけてくる。歌い手それぞれの声の音域に合わせて移調することも、していた。

「さすがだな。クイズ番組の、アコーディオンのオッサンみたいじゃないか」

「チェッ。やめてくれよ、あんなのと一緒にすんの。こういうこともできまっせって、それだけの話で。おれが志してるのは、もっと上等な音楽なんだから」