「こげなこっちゃいかん。同じクラスだっちゅうンに、待ち合せて授業に出よるなんち」

「そうじゃなくなるさ、半年もすれば」

「ああんっ。現役ンくせに、暢気のんきンこつ言うちょる。交友関係ば広げたいとは思いもはんか? よかオナゴも、おるっちゅうンに」

「ははあ、読めたぞ。きみはクラスの女と、話したいんだな?」

 上野公園の西郷隆盛像にも似た九州男児は、正直に、角刈りの後頭部を掻いて見せた。

「気軽に話しかけたらいいじゃないか。つきあってほしいってわけじゃあ、ないんだろ?」

「じゃっどん。浪人してより先、おふくろのほか、オナゴとは話しとらんし。軟派だ思われるンも、好かんきにな」

「じゃあしょうがないな。時期が来るのを待てよ。それとも、俺が橋渡ししようか?」

 どんぐりまなこきらめいた。

「オイに名案があるんよ」

 それが、居酒屋でのクラス会なのだった。

「オイは授業中に回覧板ばまわし、みんなン都合よか日、参加者を調べるき。一番ニャクインチ、幹事はオマンがやっちくり」

「きみの言うことは、時々わからなくなる。何なんだい? その、ニャクインチってのは」

「お……すまん。若いんだから」

 現役の私とて、年上の女、とりわけ美人には興味がある。乗ることにしたのだった。

 

 相変らず、私は一気みを続けさせられていた。ただならぬ心地の到来が予感され、宴たけなわに会費を集め、店には手渡してあった。もはやその段で、私は御役御免となっていた。

 やがて、私の意思とは無関係に、私の視界は回りだした。人の顔は識別できる。歩けもする。会話も可能だ。ただ、自分の頭や身体がどういう具合にあるのかは、わからない。それまでの人生、十八年半のうちには、経験したことのない状態なのであった。

「遠藤君っ。今度はこっちだっ」

 耳にするや、声のした方向へと、私は進んでいく。片手に重みが起きる。掛け声と手拍子が聞える。くさいニオイがする。歓声と拍手のあと、誰かが私のことを呼ぶ――それが延々と繰り返されていた。形こそ穏やかだが、浪人経験者たちから袋叩きにされている。そんな感じも、私にはしていた。

 居酒屋は二階にあった。どうやって下に降りたのかは、わからない。

 尻の肉が薄くなっているのが知覚され、私は背すじを伸ばしつつ目を広げてみた。視界は激しく円転していたが、自分がハンバーガー屋の前のベンチに座っていることは、認められた。

 このまま死ぬのではなかろうか。そう想ったところで、目を閉じた。もうどうとでもなれと思い、全身から力を抜こうとした。まさにそのとき、である。

「おいっ。きみは遠藤君じゃないかっ。どうしたんだっ?」

 子供のころに観ていた妖怪もののアニメ。その主人公の父親の声。目玉が頭部になった小人の声が、降ってきた。泥酔による幻覚症状に違いないと想い、私は応じなかった。

「おいしっかりするんだっ」

 横から抱きかかえられたので、目を開けてみた。記憶にない福々しい顔が、すぐ近くに見えた。私はそれが、神さまの顔だと思った。

「く。苦しいです。僕は酒。ほ。ほんとはダメなんです」

「そうだったのか。それをあんなに呑んで。クラスのためにそうしたんだな? ……偉いっ。実に偉いっ。きみは男のなかの男だっ。オレがきみをきみのウチまで送っていこうっ」

 その言葉とは裏腹に、私の身体はベンチに投げ捨てられた。やはり幻覚だったのだ。そう思ったのを最後、私の意識は薄れていった。

「さあ遠藤っ。タクシーを捕まえてきたぞっ。オレの肩に掴まるんだっ。さあ早くっ」

 そう聞えたかと思うと、心臓の前にぬくみが起った。腰と膝が伸びた。足裏に熱が感じられた。眼の表面を流れていく風景が、何かに牽かれているということを、私に伝えてきた。

「僕。ちゃんと天国に、行けるでしょうか?」

「天国? なあに。死にゃあしないさ」

「あなたは。神さまですか?」

「神さま? ハッハッハッハッ。オレはモロオカだ。モロオカユウスケだ。きみのクラスメートの一人だよ。ただきみよりは、三つも年上だけどな。きみはオレの弟と、ことし一浪になった弟と、同い年だ」

 ほどなくして固いものが、私の右の側頭を打った。閃光に続き、お寺の鐘の鳴らされた映像が、脳裏には観えた。不思議と痛みは軽かった。まぶたの内が潤みだすのと、柔らかなものに尻を包まれるのとが、ほぼ同時だった。押し込まれる力を、身体の左側に感じた。

「眠るといい。でもそのまえに、きみがどこに住んでるのかを言うんだ。さあ」

 居住所を粗削りに告げると、私は身体を寛げた。細かな振動にそそのかされ、意識を失った。

 どれほどの時間が過ぎていたのかは、わからない。私は鼻から覚醒した。それまでは知覚の対象外だったものが、やにわに気に障りだしたのだ。ビニールのにおいである。吸気に濃厚に感じられるようになったそれが、呼気にもともと含まれていた酒のにおいを、さらにも堪えがたいものにしだした。そのせいでかどうか、座席の揺れの一つずつが貯められていき、ある程度にまとまるや、みぞおちに乗り掛かってくるようにもなっている。耐えきれなくなり、私は目を開けた。右手を窓ガラスに這わせた。

「おや? どうしたんだ遠藤?」

 その甲高い声が、非常ベルの音ほどにも頭に響いた。それによる驚きで、喉まで膨らんでいた言葉がしぼんでしまった。腹に空気を詰め直していると、その内容とはなんら関係のない事柄が、頭に浮かんできた。

(この脂肪のかたまりみたいな奴のこと、なんて呼んだらいいんだ? 三つも年上だって言ってたよな。それにこうやって、タクシーで送ってくれてもいるんだ。同級生とはいえ、呼捨てにするのは気が引ける。……モロオカさん、では付け上がらせることになるかもしれない。モロオカくん、だと俺のほうが上みたいじゃないか。モロちゃんと呼べる間柄でも、まだないし。……)

 なだめるのを目的とするかのような柔らかさで、その男の手が、私の左肩に載せられた。

「具合はどうだ? オレのことなら気にしなくっていいぞ。高校んときの野球部の後輩、何十回おくってったか知れないんだからな」

 頭のなかのルーレット盤を飛び跳ねていた銀玉が、一つの枠にはまり、動かなくなった。

「あのさあ」

「道が混んでるみたいだぞ。もう一眠りしたらどうだ? 近くなったら起してやるからさ」

「センパイ、俺なんか、ムカムカする。ビニールくさくて。窓あけたいんだけど、思うように身体が、動かないんだ」

「そうかわかった。オレが開けてやる」

 風が来るようになったのは額のあたりまでだったが、いくらかは不快さが減退した。

「それ以上は無理だぞ、車んなかがやかましくなるんでな。気持わるいのか?」

「ずいぶん楽に、なったけどね。まだ世界が、ぐるんぐるん回ってるし」

 一言も返されなかった。訝しさから、私は顔をモロオカに振り向けてみた。アゴを突き出し、Vネックに手を突っ込んでいるのが見えた。彼が薄手のセーター姿であることに、そこで私は初めて気づいた。

 一目みただけで「サマーセーター」ではなさそうに想われた。ベージュというかラクダ色というかの、地味な色のものだからである。初老の男がゴルフ場などで着ているセーターと、同じたぐいのものに違いなかった。左胸にある、もぞもぞと動いている何かの縫取りも、その見解を支えていた。綿や麻で編まれたもの、サマーセーターではないということが、いよいよ決定的になった気がした。すでに六月、春とはいえない時節になっている。モロオカが、服装には無頓着な男であることも、わかった。

 セーターの内側から何かがほじくり出されたかと思うと、それが私の眼前に突き出されてきた。外装が汚らしくよじれた、ベストセラーの国産タバコであった。

「たしかってたよな? 呑み会んとき。喫えよ、このマイルドヘヴンMild Heavenでも。気持わるいのが、少しは治まるはずだぞ」

 せっかくの好意である。酸っぱい唾液の広がりを舌の根に感じてはいたが、私はパッケージに手を伸ばした。眼には頼らずに一本を抜き出し、口に咥えた。

 長いシケモクなのではないか。そうも思われたほどの、フィルター部分さえもがやけにぐねぐねしたものであった。嗅覚も、そのタバコの異常を捉えていた。しかし、そんなことはどうでもいいではないかとでも言うように、ライターの火が近づけられてきた。自分を殺し、私は顔を突き出した。鼻先で煙が上がった。遅れじとばかりに、左でも喫いだした。

 どこかで嗅いだ憶えのあるニオイがする。もちろん、タバコの煙に含まれているそれではない。悪しきものには違いない。だが、一向に定かにはならない。もともとあったビニールくささに二人がかりでのタバコくささが混ぜ合せられており、車内のニオイはパチンコ屋くささにまで高められている。

「なあセンパイ。なんか変なニオイ、しない?」

「べろべろに酔っぱらってるくせに。鼻が敏感なんだなおまえ。……んまあ。フハフハフハ。……ちょっとは。フハフハ。するかな。フィルターにでも、染み込んでたのかな?」

「タバコの?」

「ああ。きょう買った新しいやつは、さっきの呑み会で、一本のこらず喫っちまったんでな。これはきのうのだ。……まあ気にするな。気になることってのは、気にすると、余計に気になるもんだぞ」

 たしかに、モロオカの言うことにも一理あると思った。ニオイの分析で頭が一杯だったためでなのか、吐き気のほうはやや治まってきている。私は話題を転じた。

 一旦はそうしたものの、やはりどうにも鼻につく。紫煙の出元が鼻に近くなればなるほど嗅ぎわけられなくなりそうなものだが、そのくさみは、確然と漂い続けている。メタンガスのくささのように単純なものでないことは、掴めていた。太りじしのモロオカの、胸の脂肪のニオイも、混じっていておかしくはない。汗くささ、男くささというものも、含まれているのだろう。ただ、くさみの「芯」は、別物に違いない。話の途中にも、私は鼻を鳴らさないではいられなかった。

「なんだよ? やっぱりダメか? 体臭ってのは、自分じゃ気づかんものらしいけど。そんなにくさいか?」

 クラスメートであるということだけで、車まで運んでくれ、同乗してくれ、送ってくれている。くさいタバコはオマケみたいなものである。私は答に窮した。沈黙が流れ入り、二人のあいだに気まずい雰囲気を淀ませた。双方がタバコを喫い終えたあとにも、くさみだけは残った。

 座席の不規則な揺れと、無言でいることとが、本腰を入れて私のおうを刺激しはじめた。車窓の景色が見覚えのあるものになっていることが、酔眼すいがんにも認められた。線路を跨ぐ太鼓橋を、車が下った。そこで、下降したことの代償のように、私は込み上げてくるものを感じた。黄色い味のする奥歯を、噛みしめた。最寄り駅より一つ都心寄りの駅を、涙ごしに見た。

 地元の警察署が、目のおもてを流れていった。自宅まで三キロとない辺りを走っていることが、認められた。身体の震えは治まらないままであったが、私の心は大きく安らいだ。

 最寄り駅の前に差しかかった。渋滞しているのを眼にしてから、私はハッと気づいた。

 そこは、ラジオの交通情報でもよく取り上げられる、信号機だらけの場所なのだった。ドライバーへの嫌がらせのように、短い間隔で横断歩道が渡されているためである。手前が青になれば先が赤になる。必ず足止めを食らわせる仕組みに、なっているらしい。

 信号機の密林の先は、都道と交差している。そこを右折するためには、それ専用の車線に入らなくてはならない。だが、すんなりとそうできることは、まずない。そのレーンに入ろうとする車で、その手前の追越車線までが封鎖されてしまっている――そうであることのほうが多いからだ。その場合には、右折車線に入るためのみで、何度か信号の変わるのを待たねばならなくなる。嫌がらせ地帯を突破できたばかりだというのに、またしても待たされるわけである。

「お客さんさあ。ここ曲るんだよねえ? でもこんななら、ここは素通りしたほうが、よさそうだけどねえ。この先の別の交差点で、右に曲がって、逆戻りするほうが、かえって早いと思うんだけどさ」

 それは私にもわかる。しかし、いまだ車の免許を持っておらず、その先の信号で右折する以外、家への道筋はわからない。三車線の左端にいたのを無視し、割り込んでいくようにと言った。三十代とおぼしき運転手のむっと顔が、その返事にも表れていた。

 右折車線には、どうにか入れた。だが、なぜなのか、そのあとにも遅々として進まなかった。私は冷汗をかきはじめていた。奥歯を噛みしめながら、一刻も早くそこを抜けられることだけを、ただただ祈り続けた。

 そんななか、左肩だけが重くなった。内臓にいびつな圧迫が加えられた。

「なあ遠藤。男同士の秘密だぞ。いいな」

 無用な受け答えは避けたかったので、私は黙っていた。肩への重みが強められた。

「どうなんだよ? 何とか言えよ」

 仕方なく、相手の目を正視したうえで、きっぱりと頷いておいた。

「実はオレな。あれだあれ。あれみたいなんだわ。あのほらあれ。ワキガとかってやつ」

 グッと来た。胃が燃えた。食道が踏ん張っているのを、それとは逆側にある直腸と肛門とが励ましている。

「ううっ。もうダメだセンパイッ。吐きてえっ。吐きてえよーっ」

「おいっ。あの運転手さんっ」

「おいおまえら冗談じゃねえぞっ」

 叫び合うのが聞えた。車が急発進した。世界が斜めになった。モロオカの姿が消えた。

「がんばれ遠藤ーっ」

 ラッパは耳許で鳴った。痺れが脳に来た。奥歯が軋んだ。アゴの骨を動かせなくなった。

「運転手さん早くっ。こいつの口が開かないうちに早くっ。我慢だ遠藤っ」

 首に巻き付けられているものがモロオカの腕であることが、わかった。気道を塞がれており、息が吸えない。私は暴れた。側頭が固いものとぶつかった。短い悲鳴が聞え、首輪がゆるめられた。さっそくで鼻孔を全開にした。くさみの塊を詰め込まれることになった。喉が太くなるのを感じた。頬が膨らんだ。黄色い味が舌先にまで押し寄せてきた。

「もうダメかーっ」

 さらに強く、首を締め付けられた。口角を引き伸ばされることになった。唇から液体が漏れたのを自覚したとき、下アゴの先に何かが貼り付いてきた。冷ややかなものであった。

「そこへ吐くんだ遠藤ーっ」

 喉への圧迫が消えた代りに、堅いものが腹に食い込んできた。拳のようだった。鼻と口が爆ぜた。舌が飛んだ。目玉が熱くなった。

「もういいぞ遠藤っ。もっと腹なぐってやろうかっ? 思いっきり吐けっ。死ぬまで吐けっ」