「ちょっとあんた。海外旅行にいってるって言ってたけど、あんたほんとは、中谷さんにフラレたんじゃないの? それで今度は、その須賀って女と」

「なんべん言ったらわかるんだよ。須賀さんは専務秘書で、俺が大伴に入るときに、世話になった人なんだって。いきなり会社を辞めちゃったんで、心配してるだけだよ」

「そうなの? そんなら、あんたから架けたらいいじゃないの」

「なんか事情があるらしくってさ。架かってきた電話には、出ないらしいんだ」

「じゃあそんなの、放っとけばいいじゃないさ。……中谷さんがいまどこにいるのかも、あんた知らないわけ?」

「たしか南米のどっかだよ、いまごろは」

「絵はがきの一枚も、出してこないわけ?」

「そういう女なんだろ。国内にいたって、そうなんだから」

「あんた心配じゃないの? せっかくモノにした、大金持のアゲマン美人が、何ヵ月も連絡してこないでいるってのに」

「うるせえな。日本にいないっていうのに、どうできるって言うんだよ」

 にたりと、母親は笑った。左の耳を引っぱった。女がそれをやるときは、だいたいが性欲を訴えるときだ。近親相姦を望む気持は、母親にはないはずである。さすればと、私は頭を巡らせた。寛子とのことをすっかり見透かされているとしか、考えられなかった。

「フ。バカだねえまったく。あんたにゃあつよおい味方がいるじゃないのさ。お母さんだよ、中谷さんの。あんなに気に入られてたんじゃないの。お母さんに頼めば、うまいこと仲をとりつくろってくれるよ。ちょうど日曜なんだし、実家のほうへかけてみなよ」

「しつこいな、この強欲ババア。別れたわけじゃないって言ってるだろ」

 そうは返したものの、一理あると、私は思っていた。夜になれば、母親の関心も他のことに移っているだろう。頃合を見計らって中谷夫人に架電してみようと、柔らかく決めた。 

 とはいえ、なのであった。寛子と関りがあった期間と同じほどの空白が、できてしまっているわけだ。虫がよすぎる気がした。どう理由を付けたところで、夫人に弱みを握られてしまうようにも思われた。まだ結婚したくもなかった。

 寛子本人、あるいはその妹と話したほうが、事が大きくならずに済むのではないか。電話してくるなと言われたわけでもない。相手側の出方によっては、酔っぱらっているのを言って切ってしまえばいいのだ。そんな考えから、私はまず川崎のほうを呼び出してみることにした。

 電話会社のアナウンスが聞えた。記憶に頼ったためでなのを思い、手帳を見ながら架け直してみた。結果は同じであった。

 賃貸マンションではない。姉妹が引っ越したとは思えなかった。私からの電話が架かることを嫌い、番号のみを変えたのではないか。それしか考えられなくなった。

 この世での自分の存在を全否定されているような気がしてきた。私は意地になった。変えられないはずの数字のつらなりのほうを指になぞらせることを、そこで固く決めた。だが、娘たちの為したことからすれば、もっともらしい口実は、用意しておくべきであろう。それのみを、私は考えはじめた。

 女中が出てくるのは、架けたときの常である。しかしこの回には、すんなりとは、取り次いでもらえなかった。非はこちらにある。多少は意地悪されても仕方がない。私は堪え、関門となっている女から口説きにかかった。

「お会いしたこともあるじゃないですか、お手伝いさん。なんとかお願いしますよ」

「んまあ……。ではもう一度だけ、うかがってまいりますけど。お取込み中なのをおっしゃってますんで。それで最後に、していただけますでしょうね?」

 一分ほどが過ぎたのちの、女中からの次の呼掛けには、期待できる響きが感じられた。ねぎらいの言葉を、私はまず返してやった。

「今回はあたくしも食い下がりました。お嬢んん、奥さまは、おたくさまのご用件をおうかがいしたいとのことです」

「あの。僕から社長さんに、お返ししなければならないものがあるんです」

 冬のボーナスで何かを。最後の電話で自分が夫人にそう言ったことを、咄嗟に私は思い出したのである。

「具体的におっしゃっていただけませんか? 奥さまもお困りのようでございますから」

「ご本人でないと、おわかりにならないと思いますんで。出ていただけるように、お願いしていただけませんか?」

 またしても保留のメロディーが流れだした。前に比べると、やけに長かった。夫人が出てくることに期待がもてた。やがて、音楽がやんだ。聞えてきたのは、女中の声であった。

「どのようなものであろうと、すべてお捨てくださいとのことでした。それから遠藤さま。もうお電話はご遠慮ねがいたいと……」

 

          五十七

 

 男にも「旬」というものがあるらしい。

 須賀に捨てられてからの私は、女に見向きもされなくなった。バーやクラブの、満たされない性欲のせいでふくれあがっているかのような、肥満気味の大年増たちにまで、なぜか避けられていた。男の用さえ足させてくれればいいと思ってすり寄っていった、明るい所では決して見たくない顔の女たちにですら、食い逃げや呑み逃げをされてしまう始末である。これはいったいどうしたことだと、私は、心のなかでは、頭を抱えて過ごしていた。

 ついには、最後の切札を、束ねることに決めた。

「でもさあ。なんだか気が進まなくなっちゃった。こう言っちゃ悪いけど、なんか遠藤さんて、病気のニオイがするんだもん」

「ニオイ? 失礼な奴だな。俺はワキガじゃないぜ。それに体臭だってないはずだ」

「ううん、そういうニオイのことじゃないのよ。なんていうか。シャワー浴びるとかお風呂つかるとかだけじゃあ、落ちなさそうな」

「んやあ。とにかく俺はくさくなんかない。何の病気にもかかってない。保証できるぞ。何なら次にこの店に来るとき、会社の健康診断のコピー、持ってきてやるよ」

「でも。ほんとにどっか悪くないの?」

「くどいなあ。証明できるって言ってるじゃないか。男と手を切るのにカネが要るんだろ。な。……ちゃんとゴムも着けるんだし。な」

「んまあ……。でもやっぱやめとく。あたしの勘てよく当たるんだもん。健康診断なんかじゃわかんない病気だって、この世にはいっぱいあるんだし」

 男のための施設に出向こうかと、思うこともあった。しかし、私にはその体験がなかった。それまでは世話になる必要がなかったわけであり、プライドも許さなかった。

 須賀多津子と、女と最後に合体してから、半年が過ぎた。薄着の、若くて豊満な女体を見るにつけ、私は犯罪への誘惑に悩まされることとなった。襲うとなれば、相手が不潔であろうとくさかろうと病気だろうと、甘受せねばならない。その考えに、そのつど劣情を抑制された。トイレの個室へと駆け込まねば済まなくされていた。仕事が忙しくなったわけでもないというのに、私は痩せた。

 暑さで蒸れただけなのか、はたまた衛生を考えずに自分をかわいがりすぎたせいでなのか、いつしか私は股に痒みを覚えるようになった。入浴のたび、念入りに洗うことを心がけた。しかし、無意識のうちにも手が伸びていき、ついつい掻きむしってしまう。そうすることには、男の芯を撫でさするのと似た快感も、含まれているのだった。

 やがて私は、痛みを感じるまでひっかき続けるようになった。そこから体液がにじみ出てきたのを認めるまでは、爪を立てるのをやめられなくなった。

 その八月の一週間も、酒びたりのうちに終ろうとしていた。金曜の朝、私は猛烈な痒みに揺り起された。それまでに同じく、ひっかいてやり過ごそうと思った。だが、手を下着に突っ込んだ途端、手首を動かせなくなった。指先に違和感を覚えたのだ。ベッドから跳ね起き、朝日のなかで下半身を剥いてみた。驚愕した。男の芯そのものを除いた股間全域に、蕁麻疹のようなブツブツ、一つが米粒大もあろう吹出物が、できていたのである。

 朝食は摂らず、会社への連絡も後回しにし、私は駅前にある皮膚科へと急いだ。その手の医療機関はどこも人目につかない場所にあるものだが、そこは目抜き通り沿いにデンとあり、毎朝のごとく看板を見ていたためである。治療への自信のほどがうかがわれた。晴天の日には、陽光からの紫外線をたっぷりと浴びている。衛生的であるような気もした。開院してからまだ一年ぐらいしか経っていない。最新の技術を導入していそうだという期待もあった。出入口のガラス扉が動くのを待ち、私は一番で受付を済ませた。

 待合室に座ってから、医者が女であることを知った。しまったとは思ったが、観念した。

 診察時間となり、名前を呼ばれた。四十年配の、なかなかに麗しい女医である。そのうしろには、それらもまた甲乙を付けがたい、容姿の整った、二十代にあるらしい看護婦たちが並んでいた。三人ともが、白衣ではなく、若草色のツーピース姿であることにも、私は好感をもった。整体師のようないでたちであり、心がなごんだ。

 当然のことだが、患部を見せるようにと、まず言われた。私はたじろいだ。医者が察してくれ、一旦は場を外すようにと、背後の二人に命じてくれた。

 だが、私はなおもためらっていた。

「お恥ずかしいでしょうけど、仕方ありませんことよ。わたくしたちを異性だと思ってはなりません。さあ、お急ぎになってください」

 いざとなったら襲いかかってやればいいんだから。そう思い切り、私は指示に従った。

 女医は、いたって事務的な手つきで、私の男の芯の頭部を摘んだ。ゆっくりと左右に動かした。食い入るような目つきで、患部を見つめた。同じことを上下についても行った。つまらなそうに指を放すと、その手を、消毒液らしきものに浸した。拭いたかと思うと、カルテへの記載をはじめた。終始、私の顔は見ようともしないでいた。

「もう結構ですのよ、おしまいになっても」

 ペンを走らせながらで、そう言ってきた。大したモノでもないくせにと腹中で笑われているような気がし、私はひどい屈辱を味わわされた。何人の美女たちが見たがったと思ってるんだ。そう心のなかで叫びながら、下着とズボンをいっぺんにずり上げた。

「悪いお遊びを、なさいませんでしたか?」

 意味がわからず、私は顔を疑問符にした。

「ほら。いまは多いでしょ? そういう所。ピンク何やらとか、何やらヘルスとか」

「悪所に行ったことはありません」

「それは失礼。えーっと……。お住まいは独身寮……ではないですね」

 カルテの住所欄を見たようだった。相変らずで、女医は顔を上げないでいる。親の家に住んでいるのを答えつつ、どうにかして顔をこちらに向けさせてやろう、どんな顔をしているのか見てやろうと、私は考えていた。

「先生、このブツブツはいったい何なんですか? いわゆる陰金田虫ですか?」

「いいえ。デンセンセイナンゾクシュ、いわゆる水イボです」

 病名の半らまでを、私は鸚鵡返しに言った。

「伝染性、ナンゾクシュ。柔らかいの軟、付属の属、腫物の腫で、軟属腫です。ウィルス性ですから、ひっかいたところから液が出ると、どんどん範囲が広がっていきます」

「ええっ? うつるもんなんですかっ?」

 女医は、そこで私を見た。無表情であった。

「もちろんです。完治するまでに一ヵ月ほどかかるものと思いますが、その間には、他のかたと接触することがないように。衣服も、ご自分のものだけをご家族のものとは別に、洗うようになさってください。参考までにおうかがいしたいんですが……」

 にわかに瞬きの回数が増やされた。

「この二ヵ月ほどのあいだに、新たな女性との出会いは?」

 このときにはすんなりと、女医の言葉の意味するところが掴めた。

「半年ほどありません。先ほども申しましたが、風俗の施設にも行ってません」

「さようですか。……半年。立ち入ったことを、おうかがいしてもよろしいでしょうか?」

「ええ、どうぞ」

「半年前までは、お相手がいらっしゃったわけですか? 定期的にお会いになるような」

 その瞬間、ようやくで私は合点が行った。須賀多津子の背中にあった出来物が、私の陰部にもできた。そう解した。とはいえ、皮膚病の元となる細菌の潜伏期間としては、いさいさか長すぎる気がしないでもない。伝染しないとも聞かされている。関係があるのか否かを、私は女医に尋ねてみた。

「一般的な事例ではありませんが、ありえないこととは言えません。健康状態がお悪くなったときに、いきなり発症するということも、ままあるんです。ここにきて急にお仕事が忙しくなったとか。体力を消耗することが、お続きになりませんでしたか?」

 思い当ることは当然あったが、さすがに異性を相手に言えることではなかった。私は話を、もう一方へ振り向けることにした。

「でも先生。彼女のお母さんやお姉さんにも、同じイボみたいなものが、あったんですよ。みんなうつらないって言ってましたし」

 女医は目を細めた。だが、笑みを浮かべようとしているのでは、なさそうである。観音さまの彫像のような表情だと、私は思った。

「そう言うしかなかったんでしょう、あなたに嫌われたくない一心で。……恨んではいけませんよ。鵜呑みにしたあなたも、お悪いんですからね。……さあそれでは」

 そこで女医は、姿勢を正してみせた。ようやくで股の痒みから解放されるのかと、私は喜んだ。しかし、次の動きを予感させるものは、彼女の着衣には一向に浮かんでこない。

「このあといったん、ご自宅へお帰りになってください。毛のなかにもイボが、いっぱいできております。カミソリで剃ると、イボを傷つけることにもなりかねませんから。そうですねえ。ハサミで陰毛を、五ミリぐらいにまでカットしてください。それでシャワーでお洗いになってから、もういちど当院へお越しください。すぐに処置室へお入りいただけるよう、受付には申しておきます。お近くみたいですから、午前中にはお戻りになれるかと思いますけれど。いかがでしょうか?」

 帰宅すると、母親に問い詰められることとなった。家のなかにウィルスを撒き散らすわけには行かない。皮膚病に罹っている事実を伝え、自分の物は自分で洗濯するのを言った。

「ほらごらんっ。中谷さんを手放したから幸運が逃げてっちゃったじゃないのっ。もうあたしは知らないからねっ。洗濯機も一回ごと殺菌しなきゃなんないじゃないのっ。去年の夏はワキガで今年の夏は皮膚病なわけかいっ。あんたってバカ息子はっ。どうしてそう汚らしい女とばっかヤルのよおっ。なんで中谷さんで我慢できなかったのよおっ――」

 喚くだけわめくと、消毒剤を買いにいくのを言い、母親は家から出ていってしまった。私は会社への連絡を済ませておくことにした。初回であり、加療にどれだけの時間を要することになるのか、見当もつかない。気分的なものもある。熱があると偽り、丸一日やすみたいと申し出た。それで、三連休となってしまう。嫌味を言われるものと覚悟していた。だが、いとも簡単に了承を得られた。そのことにのみ、私は救われた心地がした。

 会社に出なくともよくなった。女医から言われたとおりのことを済ませた私は、Tシャツにトレーニングパンツという、銭湯からの帰りのような服装で、二度目の病院へと出かけた。股に薬を塗られるのであれば、そのほうが具合がよかろうと思ったためである。

 診察室で見た背の高いほう、百六十五センチは確実にある看護婦が、受付まで迎えにきた。処置室、とやらへ導かれることとなった。

 白いカーテンで囲われた空間が、四つあった。その一つを取り巻いている白布が乱暴な手つきで払われると、幅のない白いベッドが、私の目に飛び込んできた。病院の診察室に決まって置かれている、ただ身体を横にさせるためだけの、あの寝台である。その短辺の一方、枕らしき物のないほうの横には、脱衣篭がある。向こう側の長辺は、白いパネル板に接している。ベッドの幅と同じほどのスペースが、手前の長辺とカーテンとのあいだにはあった。そこには、パイプ脚の粗末な丸椅子が一つ、ぽつねんと置かれている。

「さあ。入ってください」

 うしろでカーテンを閉じられた。ここの看護婦たちは、頭に白い布を付けていない。まとめたり固めたりもしていない。セミロングの髪が揺らされ、その甘い匂いが、彼女と私しかいない「密室」に満ちた。

「トレパンだから、すぐにズラせますよね。じゃあ。そこに仰向けになってください」