「無理だな、そういう年頃なんだから。特に女のことは、やりたい盛りなんだからな」

「したらあの子、一所懸命勉強しますって。ちゃんと貯金もしてんで、一流の夜間大学い入りますって。法律の勉強して、弁護士めざしますって。だあら先生って」

 何か褒美がほしいのを言われたにちがいないと、私は直感した。多津子に続きを求めた。

「今度の全国模試で英語が十番以内い入ったら、先生のオッパイ見せてくださいって。ぼくは孤児院そだちで、お母さんのオッパイも知らないんです。エッチな雑誌で見るしかなかったんですって。かあいいこと言うのさ」

 七つも年長の女にそんなことをぬけぬけと言えるほどなら、すでに女を知っている確率のほうが高い。なかなか悪知恵の働くガキだと、私は鼻から息を噴いた。あやうく感心してしまうところであった。

「それでどうしたんだ。まさかおまえ」

「うん。こいもまた教師の使命だと思ってさ。ちょいと釣り上げて、五番以内だったらって。そういう条件にしてやったんだ」

 見るだけで治まるわけがない。また、そういう状況下で女を押し倒しても、罪に問われることはないように想われる。まして相手は未成年者だ。罪になったとしても軽かろう。女教師と生徒が合体するという筋は、ポルノ映画の定番でもある。一対一で、恋愛の果てに関係するというものは極めて少ない。年長者のほうが誘惑するというものもあるが、これも少ない。それらの多くは、女教師が男子生徒たちに、無残に輪姦されるというものだ。服を引き裂かれ、下着を剥ぎ取られ、嬲り放題にされる。挙句に放置される。かつてお世話になったその種の映像が、私の頭のなかで動きはじめた。女優が多津子になっていた。

「もしもし? ねえ聞いてる? へっきだよ。あの子どんだけ勉強したって、三十番台がやっとなんだあら。まんまじゃ引っ込みが付かなあったんで、そう吹いただけよきっと」

「きっと?」

 私のなかで刻々と膨らんでいた怒りの袋が、そこで爆ぜた。

「バカ野郎っ。てめえは淫売かっ。てめえは誰とでもヤルのかっ。何が教師の使命だっ。このけがらわしいバイタ先公めっ」

「いんばいっ? ばいたっ? ワリユトーキナバウッ。なんであんたにそこまで言わんなきゃなんないのさあっ。あっしはなんにもしてないじゃんよおっ」

「盗人たけだけしいとはよく言ったもんだっ。サテンに連れ込んだのはてめえじゃねえかっ。ガキに言い寄られてあそこ濡らしてりゃあ世話ねえぜっ。てめえみたえな汚らしい女とは金輪際かかわりたくねえっ。きたねえきたねえああきたねえっ。そんなだからっ」 

 背中に変な出来物ができるんだ。皮膚病じゃない代りに性病なんじゃないかと、言い足しそうになったが、さすがにそれはよした。

「んな怒んないでよっ。あっしが悪かったあらっ。あの子には冗談だって言うからさっ」

「バカ野郎っ。そうしたところでてめえの淫乱なのが治るわけねえじゃねえかっ。このバイタッ。二度と架けてくるんじゃねえっ」

 電話の子機を、私は充電器へ突っ込んだ。しばらくは架かってくるのを待っていた。しかし、呼出し音が鳴らされることはなかった。前の会社の課長とのそれに同じく、多津子との関係も終ってしまったのだと、私は決めつけた。頭のなかではまだ、ポルノ映画の輪姦場面がチラついていた。前日に実感した多津子の手触り、匂い、味が、そこに組み込まれていった。女を凌辱したいという欲望が心の奥深くにはあるようで、私はじっとしていられなくなった。本棚の一所から想像を膨らますことができそうな雑誌を選び出すと、さっそくで下半身を剥いた。

 月曜の朝である。たださえ気も身体も重い。義務感だけにより、私は家を出た。駅への道を歩きながら若い女を眺める習慣も、さすがにこの朝には眠ったままでいた。定刻の電車に乗ることしか、考えていないのだった。そんな機械的な自分に、大伴商事での生活に慣れきっている自分を見た気がした。張合いのなさが、多津子と別れた淋しさを目覚めさせた。転職の報告も兼ね、寛子、あるいは中谷夫人に電話してみようかと、私は思った。

 駅ビルに踏み入ると、いよいよ人影が濃くなった。いやでも満員電車を想わされた。だが、それに乗らねばならないのは、隣の駅までである。そこを始発駅とする電車に、乗り換えるからだ。連結部の戸の前に立てれば、もう一人と背中合せになってその空間を占拠できれば、前に座っている人間の頭上が丸ごと自分のものになる。新聞でも読める。次から次へと乗り込んではくるが、そんな奥まった場所にまでは割り込んでこない。何はともあれ、一区間だけの辛抱なのだ。そう自分を励まし、私は改札口への流れに身を任せた。

 横一列に四つの関門が並んでいる。その三メートルほど手前には、人間の力ではびくともしないような角柱がある。一辺に大人の男二人が隠れられそうな、ごっつい代物である。三本ある。そこで人の流れの幅を整えさせるためでなのか、二本は、入口専用の二つより、いくらか外側に建てられている。柱と柱の間を進んでいけば、自然に改札を終えられる仕組みになっているかのようだ。もちろん、柱から入口まで紐が張られているわけではない。横合いから割り入ろうとする輩もいる。しかし、ラッシュ時の我勝ちな行列は、アウトローたちの闖入を容易には許さない。柱よりもうしろ、いまだ整えられていない流れに飛び込んだほうが無難なことは、小学校低学年生にでもわかることであろう。私は、元よりその流れの内にある。考えるようなことは、何ひとつないのだった。

 柱の真後ろまで行き着くと、誰に命じられたわけでもないのに、ひどく自然に、三人が横並びになる。私も倣った。次の瞬間には、右側に中年男が、左側に柱が立っていた。のっそりと、だが着実に、人々は流されていく。真ん中の一人だけは、どちらかの改札口を選ぶ自由を与えられている。それもまた、誰かに容認されたものではない。しかし、誰一人として、そのことに異議を唱える者はいない。秩序の内での無秩序。それが公然と罷り通っているわけである。私は疑問に思った。ほかの例を記憶に探ってみようとした。

 ぼんやりとしたまま、私は柱より前に歩み出た。そこでいきなり、鋭い力が突き出てきた。左腕を食われた。驚いてそちらに顔を向けたことで、さらに驚かされることとなった。

 衆目がある。平日の私は、毎日ほぼ同じ時刻に、そこを通っている。したがって、それらの目は、固定的なものともいえる。みっともない振舞は避けたい。私は冷静になろうと努めた。色着きの唇が動きを孕んだところで、怒りの表情を造った。ぶっきらぼうな言葉を用意した。

「話はあと。さっさと入れてもらえよ」

 左腕に食い付いていたものを、自分の前を経由させ、中年男とのあいだに引き込んでしまった。私のほうが上背はある。少しでも多くの目をごまかすためで、そうしたのだった。豊満な若い女体に密着されて喜ばない男はいない。右にいた中年男も、嬉々としていた。まんまと収められた。私自身は前だけを見ていたので、付近の白眼に悩まされることもなかった。また、その程度で済んだのであれば、難を避けられたも同然なのであった。

 改札を抜けて何メートルか歩いたところで、今度は右腕を掴まれた。私の頭は正常ではなかった。というより、感情に支配されていた。本気で冷静になってみる必要があった。

「隣の駅からの始発に乗り換える。何もかもそれからにしてくれ」

 共働きの新婚夫婦さながらに、多津子と腕を組んだ状態で満員電車に乗り込んだ。

 自宅から駅までのあいだにおいてではなく、改札口手前で張っていたということが、瞭らかに私を感激させているのだった。

 いつやってくるのかが知れないうえにも、人でごったがえしている。私は百八十三センチある。けれども、頭ひとつ飛び出している、というほどの高さではない。おそらくは、乾いた目をしくしく痛ませながら、なおもギロギロと、この女は群衆を睨めつづけていたに相違ない。頭の悪い女ではない。探す労力を思い、人のまばらなところ、駅への道中で、待っているという案も閃いたことであろう。しかし、この女は何ごとかを慮った。傍目にさりげなく見える場所のほうを、わざわざ選んだ。そうであるとしか想われない。その愚策が、この女みずからを責め苛むものになるということも、わかりきっていたであろうに。

 何とかわいいやつなのかと、私は感激した。混雑に乗じ、抱きしめたくなった。須賀多津子という女に、すっかり心を奪われた。

 乗車希望者は、始発電車が仕立てられるまで、プラットフォームに整列していなければならない。目と動作で、それを隣に伝えた。

「あの……。あのさ、小声でならもう話してもいいでしょ? きのうはごめんなさい、あたしが悪かった。ナガサワくんには今朝四時、ちゃんと電話しといた。だから勘弁して。ね。あたし真ちゃんのこと」

 衆人のいる前でその先をつづけられては堪らないと思い、私は右肘で多津子の腹を軽く突いた。そちらの腕は、依然として彼女の管理下にあった。

「もういいよ。俺も口が過ぎた。……でもおまえ、よく待ってたな。坊やも、よく起きたもんだな」

「あのかあ早起きが身上だあら。おべんと屋さんなんだもん。……ねえ真ちゃん」

 生あたたかい空気の襲来を、右耳に感じた。

「このまんまでいてもいいの? 見つかっちまってもへっき?」

 言下に、そんな女はおらず問題がないことを、私は小声で返した。だが、自分の心までは欺けなかった。寛子との関係を完全に断つべきときが来たことを、そこで悟らされた。

 その月曜の夜は、約束を繰り下げてもらい、まっすぐに帰宅した。午後九時には、電話できる態勢が整った。百合子は、アルバイトで不在のはずである。ちょうどいいと思いながら、私は川崎へ架けた。

 懐かしい声が、返されてきた。その口調も、シティホテルでの出来事がなかったかのように、軽やかなものであった。ぬくもりもある。私は挫けそうになった。安否を問い合ったあとには、会社を移ったことから、始めた。

「いかにも真一さんらしいですね。でもほんとよかったです。ご両親もお喜びでしょ?」

「どうかな? ヤシオ電機より会社の規模は小さいけど、東証一部上場だし、歴史もあるし。給料にも雲泥の差があるっていうのに、仕事はメチャクチャ楽なんだよ」

「真一さんが優秀だからですよ、そう思えるのは。きっとどこでだって、そう思いますよ」

 ますます切り出しにくくなった。照れたのもあり、私は黙っていた。

「真一さんはもう、すっかり新しい生活を始められてるっていうのに……。わたしやっぱり、手術うけることにします。わたしも新しくならなきゃ、つりあいが取れませんもんね」

 良心を追い詰められた。早まったことをさせてはならないという焦りが、ためらう気持の横面を張り飛ばした。

「もうその必要はないんだ、寛子くん。手術なんかしちゃダメだ。あの。あのさ……。あの俺、好きな女ができたんだ」

 寛子は返してこなかった。呼吸する音さえ送ってこないことが、私を不安に陥れた。

「それにさ。前のとこ辞める直前に外人を接待したんだけど、あのニオイが気になるのは、俺みたいに神経質な奴だけらしいぞ。ほとんどのひとは平気みたいだぞ。だから。だからきみは。俺のことなんか忘れて、きみにふさわしい男を探すべきなんだよ」

 何の前触れもなく、急流のような音が起った。それによる驚きで、私の思考は停止した。

「ヤだヤだヤだヤだあっ。ウソだそんなのおっ。聞きたくないよおっ。真一さんに好きなひとがいるなんてえっ」

 私に聞き取ることができたのは、それだけであった。気づいたときには、電話も切られてしまっていた。

 言うべきことは、言えたわけである。後味がすっきりしたものにならないということは、前もってわかっていた。その反面、事後にはいくらか気楽になれることも、期待していた。ところが、そうはなれなかった。前夜の、多津子との通話を強暴に切り上げたあとの心持と、ほとんど変りないのだった。猥褻な雑誌に逃げ場を求める気にもなれないことだけが、異なっていた。

 タバコを喫いつないでいるのにも限界がある。よほど苦境に追い込まれるかもしれなかったが、寛子の身を案じ、銚子にも電話しておこうと決めた。「力水」という言葉が、頭に浮かんできた。気分を入れ替えてからにしようと思い、私はまず階下へと向かった。

「まあまあ、お久しぶりです。お元気でいらっしゃいましたか?」

 前の電話と同じ過程が、繰り返されることになった。とはいえ、この回は本人が相手ではない。躊躇なく、私は切り出す気になれた。

「ですから。寛子さんとのことは、もう終りにさせてください。先ほども申しましたけど、僕はにおいに敏感なタチで。そうでないひとたちも、世の中にはゴロゴロいるわけで。恐ろしい手術なんか受けるより、受け入れてくれる男性を、探したほうがいい気がします」

「あの遠藤さん、このことはもう寛子に」

「ええ、さっき伝えました」

「そうですか」

 沈黙が続いていた。異様に長く感じられた。長引けば長引くほど苦しくなる気がしてきた。別れの言葉を言おうと、私は腹を据えた。

「あの。いろいろといただいちゃって、ありがとうございました。大事に使わせていただきます。次のボーナスででも、何かお返しさせていただくつもりです。ほんとお世話に」

「あっあっ。遠藤さんお切りにならないでっ。ダメッダメッ。どうしましょどうしましょまあどうしましょっ。どうしたらいいんでしょっ。あーっ。あのあのあのっ。百合子じゃダメですかっ? あっあっあっ。よろしいんですのよほかの女のことなんてっ。ですからわたくしどもとのご縁をお切りにならないでっ。もしもしっ? 遠藤さんっ?」

 平生なら、笑ってしまったところだろう。

「いい加減にしてくださいっ。黙って聞いてればなんですかっ。百合ちゃんじゃダメかとかっ。ほかに女がいてもいいだとかっ。僕は種馬じゃないんですよっ」

 最後の言葉が効いたらしい。中谷夫人は静かになった。嗚咽を聞かせた。気の毒にも思われたが、私は畳みかけてやることにした。

「お世話になりました。みなさんどうかお元気でいてください」

「まっ。待ってください遠藤さんっ。わたくしどもっ。いつまでもお待ちいたしておりますんでっ。どうかお気持が変わられたらっ」

「それはありえません。……さようなら」

 こちらで切ってしまった。

 やはり私は、苦しくて仕方がなくなった。酒を呑めば、その量に応じた涙を流すことが確実である。何をする気も起りそうにないなか、多津子には会いたいのだった。日が変わるまでに二時間弱は残っていた。

 彼女の住まいのありかも、区画としては掴めている。月曜の夜である。しかも深夜になろうとしている。上りの高速道路は空いていよう。そんなふうに自分の考えを肯定しだしたときには、私はすでに車を走らせていた。図らずも、その朝の待ち伏せのお返しを、その日のうちに持参することとなった。

 

          五十六

 

 寛子との最後の通話から、二ヵ月ほどが流れた。コート姿が当り前になりだしていた。街には、クリスマスの飾りつけも見られた。そんななか、私の二十代は残り数日となった。

 多津子との関係は、滞りなく深まっていた。

 女の身体には月例がある。多津子のそれは、重いものらしかった。そのことがきっかけとなり、彼女の家にも招かれるようになった。下町の、地下鉄の終点を上がってすぐの、十階建てのビル。それを多津子の父親が所有しており、天に近い二つの平面が、彼女たちの居住部分とされていた。

 私の誕生パーティーも、その場所から、始められることとなった。日曜だったので、多津子の姉の彼氏もやってきた。鳴物つきの歌つきで、盛大に祝ってくれた。大きなテーブル二つを継ぎ合せ、純白の布を掛けた上には、所狭しと大皿の料理が並べられていた。大人六人ではとても食べきれない量なのが、一見してわかるほどである。多津子の父系の曾祖父が中国からの渡来人であり、家としてそういう流儀になっている。そのことを、柔らかなまなざしの父君から、小声で明かされた。

「ほらお父さん。お話ならあとでだってできますよ。さあさ遠藤さん。今度はどれをお召し上がりになりますか?」

 これまた善良そうな母君が、次から次へと小皿に採ってくれる。そうすることに命でも懸けているほどの熱心さで、勧めてくる。箸を握っている右手、その甲の一点に、赤い何かが付着していることには、まるで気づいていないようだった。唐辛子かと、私は思った。見るともなく見ていた私の目に、それとは別のものがとらえられた。見覚えのあるものと酷似しており、ついつい凝視してしまった。その視線には、母君はすぐに気づいた。