大田区蒲田に入ったあたりで、いきなり進みが悪くなった。私は退屈を覚えた。機嫌をとることになるように思われ、隣に声をかける気にはなれなかった。頭のなかで道路地図を広げた。先に環八通りがあるためで渋滞しているのであろう。そう察しがつくと、すぐにもまた暇をもて余すようになった。視界だけを左へと流し、須賀の様子を探ってみた。ピンク色に塗られているその指先に、目を引かれた。もぞもぞと、白色の短めのスカートの裾を、膝のほうへと引っぱっている。ハンドバッグが載せられているので、それが風で捲れ上がるような心配はない。だいいち、そう思う根拠さえもが、すでに吹き込んでこなくなっている。目を前方へと戻し、私は頭を巡らせてみた。

 私を男であると意識しているからこそ、窓を開けたりスカートを気にしたりしているのではないか。警戒しているのであれば、そんな男の車になど同乗しないのではないか。あるいは、常になく多弁になるはずではないか。ひょっとしてこれは、誘われているのではないか。であれば、摂食するときの生々しさなど、見せたくも見たくもないのではないか。

「あのさあ須賀さん」

 私は賭けに出てみることにした。

「またあ。タッちゃんでしょ。なあに?」

「横浜いくの、きょうはやめない? なんだかそんな気分じゃなくなっちゃったよ」

「ふうん。じゃあこれからどうすんの?」

 左手で、彼女の右手を包んでみた。思いのほか冷たかった。

「何すんのさっ。見損なわないでよっ。あっしそんな尻軽じゃないよっ」

 そうは叫んだが、彼女の手は、私の手のなかで小さく蠢くだけであった。全身を前に向けたままで、私は強く握ってやった。

「軽い女だなんて、ぜんぜん思ってないよ」

「じゃあ何っ? この手は何なのさっ? あんたあたしのことどう思ってんのよっ?」

 放せとは言っていない。腹に力を入れた。

「好きだ。きみは俺が嫌いか?」

 それへの返事はなかった。代りに、何やら熱い光線を、横顔に注がれた。しばらくは車を動かす要もなさそうだったので、私は首から上すべてを左へ向けてみた。厚い睫毛の反り返った目が、青白く輝いていた。恐れる気持が起ったが、怯まずに見返してやった。

「何とか言ってくれよ。俺は言ったんだぞ」

「どんぐらい好きなの?」

「それは……。答えようがない」

「飢えてんの? やりたいの?」

「それも否定できない。でもそれだけなら、男に都合のいい施設もある。ちょうどきみの地元に、そのメッカがあるじゃないか」

 須賀が目をアーチ形にした。ようやくの感が、私にはあった。

「遠ちゃんて正直ね。バカが付くぐらい」

 賭けに敗れたのを思い、私は左手をハンドルに、顔を前に戻した。何か言葉を発さないことには収拾をつけられなくなる。そんな気もしていた。

「おんなじこと、訊くことになっちゃうけどさ。月水金は、彼氏とデートってわけ?」

「ううん。それは別な話。男はいないわ」

 ふられたことを自覚できる根拠さえ、奪われてしまった。生殺しにする気でいるのかと、私はあらためて須賀の顔を直視した。

「んなおっかない顔しないでよ。……あたしだって好きよ遠ちゃんのこと。はじめて会ったとき、ずっと昔っから知ってるひとみたいに思えたもん。前世で関係があったんかも」

 女というものは、単なる好意の表明にまで、何かしら装飾を施したいとみえる。夢に何度も現れたのを言われたあとにはそれかと、私は自分という男の存在に笑いを催した。くつろぐことは、それで叶った。

「じゃあさ。……これからどうする?」

「できちまお。会社には秘密で」

 望んだものとは違っていたが、好ましい回答ではあった。心がにやけたところで、後方から音の集中砲火を受けた。慌てて両目の機能を回復させると、前方がガラ空きになっていた。そののちしばらく、私は運転に集中せざるをえなくなった。一方、男の炎は、とろ火ながら燃え続けていた。環八通りを右折し、第二京浜を北上し、五反田へと向かった。そこでなら、土曜でも「供給」のほうが上回っているということを、それまでの性的な経験によって知っていたためである。

 

          五十五

 

 須賀多津子の女体は、中谷姉妹のそれらに優るとも劣らないものであった。汗まみれになるでもなく、くさみを漂わせるでもない。男の味をよく識っているらしく、その反応も、よかった。虜になってしまいそうなのを思いながら、私は二回、男を放った。車で送っていく必要がある。そのあとには自制した。

「ねえ真ちゃん」

 五反田のラブホテルに入ってからは、多津子は私のことを、そう呼ぶようになっていた。

「もうこうなっちまったからにゃあ、おたがい隠しごたあなしよ。ねえ。ほんたあ女がいんでしょう?」

 気取られてはならない。といって、そのことを意識すると、かえってどこかにぎこちなさを漂わせてしまうものである。そこまでと変わらないペースで紫煙を白煙に変換することのみ、私は心がけた。

「それは水族館で、答えたと思うけどな」

「そおお? なんかちがう気がすんな」

 つまらなそうに、その理由を尋ねてみた。

「だって。女に飢えてたにしちゃあ、なんだかおとなしすぎっ気がするもん」

「飢えてるのとそれとは、話が別だよ。そうだ。話が別で思い出したけど、タッちゃんこそもう言えよ、月水金の夜のこと」

 多津子は上目遣いになった。

「でも。誰にも言っちゃヤアよ。まだ会社クビんなるわけには、いかないんだあら」

 男の線は、言うところによれば、すでにない。水商売をしているのかを、私は訊いた。

「そういう女に見えるってえの? 失礼しちゃうわね。考えてもみてよ。あんな会社なのよ。んなことしてたらすぐにバレちゃうじゃんか。……実ああたし、夜間高校で英語おせえてんの。女子大で教員免許は取ったんだけど、卒業すんときには、どこにも空きがなくってさ。語学力おちんのがヤで、大伴へ入ったってわけ。したら、今年んなって夜学のナシが来ちゃってね。会社が定時で上がれっこともあって、かけもちでやっことにしたわけ」

 喜びが込み上げてきた。だが私は、素直に表す気にはなれなかった。

「へえー。そんなに稼いで、どうするんだ?」

「別におカネが欲しいわけじゃないのさ。小さいころっからの憧れを、実現したいだけ。来年にでも普通高校のナシが来たら、そんときは大伴を辞めるつもり」

 教師になることが何よりも大事だ。そんなふうな口ぶりであった。結婚してくれと付きまとわれる心配も、しばらくはないように思われた。顔の正面を、私は多津子から外した。灰皿に目を定め、タバコを消しはじめた。彼女のほうを向いたままでいると、感情が、顔面のどこかから溢れ出てしまう気がしていた。

「まあさ。あんまり無理、しないようにね。身体こわしたら、人間おしまいだからさ。まして、こんなすてきなものなんだし」

「ヘヘ。ほんと調子いいわねえ。こいからもずっと、そう言ってくれんのかしらね?」

 私は答えず、目のまえで行儀よく並んでいた女のふくらみへと、顔を埋めにいった。

 土曜ごとにデートする、肌身を合わせることとなった。二回目のホテルからは、多津子のことを「タツ」と呼ぶように命じられた。

 敬語を用いられることがなくなったので、中谷夫人を彷彿させられることもなくなっていた。二人姉妹の妹だからか、前のそれに同じくB型だからか、百合子との類似点が多い気がした。多津子もまた「愛の言葉」を求めてこない女なのであった。

 多津子の頭の巡らせかたが、その優れた女体と同等に、私を楽しませていた。それによる一つが、ある日の合体後に産み落された。

「ねえっ。ちょっと早く来てよ真ちゃんっ」

「どうしたっ? ゴキブリかっ?」

 その回のホテルの部屋に、泡風呂、ジャグジーバスの付いていたことが、彼女に閃きをもたらしたようだった。

 ベッドの延長戦を浴室で行うわけではない。ぬるま湯に浸かりながら話すだけのことである。隠し所を見せあって久しかろうとも、風呂まで共にする女は、私のそれまでにはいなかった。洗い場で口舌の技を披露してくれたほどの百合子にも、いざ彼女が浴する段になると締め出されていた。そうであっただけに、多津子と二人での入浴が、私には新鮮に感じられてならなかった。

 その何度目であったろうか。どういう話からか、お互いのうしろを洗おうということになった。洗い桶をひっくり返しただけのようなプラスチックの椅子を、浴槽の前まで持ってくる。そこに一方が腰かける。半身を湯に浸したままの他方が、スポンジにボディソープを付け、前にある背中を擦る。そう決まると、先に私が出るように言われた。

「よしと。じゃあ今度はおまえの番だ」

 なぜか多津子は渋りだした。

「なんで? さっきはあんなに燥いでたじゃないか。なんかあるのか?」

「うん。うっかり言い忘れてたことがあんの。そいで嫌われちまったら、ヤだもん」

 動物的な姿勢での合体を、この女とはしていなかった。したがって、その背中を観察する機会もなかった。東京下町の、神輿を担ぐという女である。目立たぬ大きさの彫物でも入れているのではないか。私はそう想った。しかし、仮にそうであったとしても、この女の私にとっての価値が、損なわれるわけではない。好奇心もあり、私はさらに多津子を攻めた。察したところを露骨に表明しなかったためでなのか、いよいよ相手は頑なになった。

「おい。いい加減にしないと怒るぞ。……入れ墨でもあるのか? それならそれでいい。そんなことで、おまえを嫌いになんかならないよ」

「マジ? マジで嫌いになんない?」

 やはりそうだったのかと思いながら、言った手前で、私は頷いた。はにかんだ笑顔を見せると、多津子はゆっくりと浴槽から出た。どうせ目にすることになるのだから。そう思って私は、彼女が背中を見せてくるまで湯に沈んでいることにした。

 やがて声をかけられた。ざっと眺めたところでは、極端に色の異なっている部分は認められなかった。どこにあるのかを問うてみた。

「右の、肩甲骨の上よ」

 聞くなりそこに目をやったが、初めに観たとおりであった。文字も絵も図柄も、見当らない。ばかりか、目立った色のちがいすらない。私はからかわれている気がしてきた。

「おいタツ。俺を怒らせたいのか? どこにあるって言うんだよ、入れ墨なんか」

「入れ墨? んなもんはじめっからないわよ。肩甲骨んとこに、ブツブツがあんでしょ?」

 そういうものであれば、その距離では見えないのも当然であった。彫物ではなかったのだ、危ない女ではなかったのだという喜びに急かされ、私は湯から腰を浮かせた。多津子の背中に顔を近づけていった。

 たしかにそこには、他との色のちがいこそないものの、見目の異なる部分があった。米粒大の扁平な突起が群れており、皮膚上で曖昧な楕円を描いている。透明な、しかし凸凹したシールを、貼りつけてあるようにも見える。私は風疹に罹ったときのことを思い出した。そういった原因によるものであれば、ウィルス性であり、まちがいなく伝染する。

「なんだこれっ? イボかなんかかっ?」

「へ。あわててんのね。へっきよ、うつるもんじゃないから。アザやホクロなんかと一緒だあら。だいたいもし危ないもんだなら、真ちゃんとお風呂いなんか入んないわよ。あたしんこと、んなワリい女だと思ってるわけ?」

「いや、そうじゃないけど。でも、治らないもんなのか?」

「アザやホクロが治る? いろんなお医者んとこ行ったけど、焼いて取っちまうしかないんだって。そいで取れても、こんだあその焼いた痕が残っちまんだって」

「ふーん。痛みとか痒みとかは、ないのか?」

「まだうつるもんだと思ってんのね。信じてよ、へっきなんだあら。痛みゃあないわ。痒みは、ほかのなんでもないとこでだって、ときたまあ起きんでしょ? それに背中って、よく痒くなんない? 冬の寒い日とか」

 言われてみれば、そうである。痒がりの私は、夏場には頭と尻、冬場には背中と臑を、掻きむしることが多い。身体から擦り傷のなくなったためしがないほどだ。皮膚科にもしょっちゅう赴いている。その都度、病気ではなしに体質によるものなのを言われるばかり、痒みどめの塗り薬を出されるだけであった。私は多津子の説明に納得した。

「で。いいのか? 普通に洗っちゃって」

「うん。でもあんまし強くは、擦んないでね。ブツブツのせいで、そこの皮は、ほかよか薄くなってるらしいんで。ほれ。子供んころ、転んで膝にカサブタこしらえたこと、真ちゃんだってあんでしょ? あれのできたばっかんとき、はがさないように、そおっと洗ったでしょ? あんな感じでやってやんないと、皮がむけちゃんだ」

 脆いのを聞かされたからであろうか。私には、多津子のその部分が、彼女の第三の唇であるかのようにも思えてきた。

「わかった、やさしくする、こんなふうにね」

 演技半分で、私はそこに唇を押し当てた。凸凹をなめた。多津子は身震いしだした。嬉し泣きしていることが、振り向けられた笑顔でわかった。それからは、その日の手順が、二人で入浴した際の式次第となった。

 大伴商事に移って一ヵ月半が過ぎていた。

 宛がわれた仕事をこなせるようになると、私はさらに暇をもて余すようになった。相変わらずで、夜の誘いのほうは続いていた。取引先の担当者たちとも、つきあう必要が生まれた。外出する口実を自由に偽造できるようにもなっていたので、寝不足の解消はしたい放題であった。

 前の会社の課長夫妻とも、そんな平日の一晩に、呑みに出かけた。土曜が、多津子と過ごす日になっていたからである。

 細君方の家業に就いたためであろう。田村課長の恐妻家ぶりは悪化していた。男二人で歌舞伎町へ遊びにいくという約束は、元よりなかったものとされた。この男とのつきあいはこれで終りだ。そう決めたのとは裏腹に、私は夫妻と再会を約し、握手まで交わした。

 つきあい、といえばで、多津子とのそれにも、いつしか変化が生まれていた。休日に二日連続で会うこともあった。だが通例では、火曜木曜に同じく、日曜にも、夜に電話で言葉のやりとりをするのみとしていた。

「ちょっと聞いてよ。きょうコンビニい行ったらさ、あたしが教えてる男の子んひとりが、エロほん立ち読みしてんだよ。知らん顔すんのもヤだったから、よおナガサワって、うしろから声かけてやったんだ」

「バカだなあおまえ。ほっといてやるもんだぞ、そういうときには」

「そうもいかなかったのよ。ご両親のいない子でね。いまどきめずらしく、おべんと屋さんに住込みで働いてんの。まじめで素直で勉強熱心で、成績もいっつも一番の子なの」

「それがそんなもん見てたから、思わずってわけか?」

「うん。そいでね、あたしい見つかったもんだあら、まっかっかになっちまってね。泣きそうな顔してやんの。あっしかあいそうになっちゃって。サテンに連れてってやったんだ」

「そこで説教でも垂れたのか? 偉そうに」

「そこまでじゃあなかったけど。ちゃんと高校でるまだあ、仕事もしてんこったし、余計なことに振り回されないようにねって。したら先生ごめんなさいって。とうとう泣きだしちまったの。純粋な子でしょ? そこそこイケメンだし、あらあきっと成功すんだろな」

 十七の少年とはいえ、男にはちがいない。その機能もある。私はむしゃくしゃしていた。

「どうだかな。そういうクソまじめな奴に限って、必ず女のことで身を滅ぼすもんなんだ」

「必ずってこたあないだろうけど、そういうこともありえるわけさ。で、んなことになったらたいへんだあら、あっし自分のシャーペンあげたの。エロほん見たくなったり、ワリい遊びがしたくなったりしたら、このペン見てって。先生との約束を思い出しなってね」