三日目の夕刻になり、私に宛がわれる仕事がようやく言い渡された。製鉄に溶鉱炉が必要なのは、私も知っていた。その施設は「耐火煉瓦」というものでできているそうで、それは消耗品らしかった。参考書を手渡された。

「なあに。概略だけわかってればいいんだ。取引先は決まってるんだし。どんなパーツがよく出てくのかは、そのうちわかるんだし。人間関係にだけ、気をつけてればいいんだよ」  

 黒目が左右に垂れた、鼻孔にまで睫毛のある五十男、伊藤部長が、いまにも涎を垂らさんばかりの締まりのない口で、そう述べた。取引先への挨拶は翌週になってからでいいということも、付言した。

 収益に関わるようなことを何もしないでいるうちにも、金曜となってしまった。あまりの退屈さで、私は自分がおかしくなりそうに思われた。入社後の挨拶をしていなかったこともあり、トイレに起ったついでで山縣専務の部屋を訪ねてみることにした。彼は不在だったが、その秘書、須賀多津子の姿はあった。

「いまのうちだけなんでしょうかね? こんなに暇なのは。なんか僕、心配になってきちゃって」

「ほかの部をご覧になってみたらいかがですか? だいたいそんなもんですよ、きっとどこも。焦らない焦らない」

「はあ。……でも新規開拓とか、売上げを伸ばそうとか。そういうことしなくても大丈夫なんですかね?」

「さあ。でも三ヵ月ぐらいは、上から言われたことだけおやりになっていれば、それでおよろしいんじゃないでしょうかね? ……そうそう。そんなふうにおっしゃるんなら早いうちに、ご入社のお祝いをいたしましょうよ」

 夜の予定だけはずっと埋められてしまっているのだと、私は先回りして言った。呼気で笑ってから、須賀は見詰めてきた。

「ではあしたはいかがです? 会社はお休みですけど、お店は開いてますから」

 つまり、デートに誘われているわけである。驚きもあり、私は即答をためらった。代りに、専務の戻ってくる時間を尋ねた。その折まで返事を待ってもらいたいのを言い、逃げるようにして自分の部へと戻っていった。

 女への欲望は、抑えがたくなっていた。ミニスカートたちから若い太ももをチラチラと見せつけられ、夜毎バーやクラブへと連れていかれで、暴発寸前にあった。無論、女体との交渉を、身体が欲してはいた。だがそのこと以上に、女の心に自分のそれを擦りつけたくてならないのだった。私の事情を知っている女とあっては、なおさらそうしたい。逃してはなるまいという気持が、充血しだした。自分から回答を留保したにもかかわらず、専務と会える一時間後まで待てず、私は須賀に内線電話を架けた。機嫌を損ねていないかを探るためで、詫びることからはじめた。

「いいんですよ別に、お気になさらなくっても。ただ、役員面接のときのスマートさからすると、ちょっと意外でした。まじめなかたなんですね。……お車はお持ちですか?」

 苛立ちは、伝わってきた。質問との関係は、掴めなかった。この女にもまた、中谷家の女たちに同じく、唐突なところがあるのだった。そんな女たちとの出会いを、自分は運命づけられているのだろうか。そう考えながらも、私は短く答え、短い問いを発した。

「いえその。お休みですから、会社の駐車場が五台ぶん空くんです。もしもお車で来られるのなら、わたくしが一台ぶん押さえておきますけど。いかがなさいます?」

「ってことは、会社で待ち合せるわけですか?」

 自分の口で言ってみたところで、策略のにおいを感じた。わざわざ噂になるように持っていかれ、身動きが取れないようにされてしまうのではないか。私はそう疑った。

「おイヤなら、別のお店でも構わないんですけど。ただわたくしの言うそのレストランは、会社の近くにあるものですから。それとも遠藤さんのほうで、どちらかによろしいお店、ご存知ですか? お礼してくださるということからすれば、そちらのほうが理にはかなっていますけど」

 この街は首都の一等地にある。出費を考えても、嘘を言っておいたほうがよさそうだった。私は須賀がどこに住んでいるのかを訊いた。有名な下町の名を返された。あまりにもズレのある取合せだったので、その答をなぞった。

「あら。そんなふうには見えませんでした? フホホホホ。こう見えてもチャキチャキの江戸っ子なんですのよ。おみこし担ぐほどの」

 その街であれば、何度か行ったこともある。しかし、会社のある街と同様で、誰の目があるかはわからない。車で迎えにいくのを言い、拾うのに適当な場所がないかを問うた。どうせこの日のうちに会うことになるのだから、そこで教えてもらえればいいのだからと、私は電話を切る意思を伝えた。周りの目が気になりだしたのだった。須賀も素直に応じた。

 山縣専務の許へ挨拶にいった。想っていたとおりで、素っ気なくあしらわれた。そちらのほうは、もはやどうでも良くなっていた。専務室のドアを閉めるなり、私は須賀のまえへと歩を進めた。

「この紙にすべて書いておきました。何かご不明な点がございましたらお電話ください。わたくしか姉か母か、女しか出ませんので」

 呟くような声、早口であった。その顔も、よそに向けられている。彼女のほうでも、おおっぴらになるのを恐れているようだった。取越し苦労であったことが認められた。たたまれた紙を受け取るだけで、私はその場をあとにした。

 トイレに寄り、個室で紙を開いてみた。須賀が利用しているであろう駅は、地下鉄の終点である。それの一区手前、無名の駅を上がったところに、『ガンダーラ』という喫茶店があるとのことで、そこが待合せ場所として指定されていた。その下には、彼女の自宅の電話番号も、見つけられた。しかし、会う時刻については、どこにも書かれていなかった。電話で決めるつもりでいるらしいのを察した。番号の下に「※」があり、格段に小さな文字が並べられている。私はそれを読みだした。

『ただし、月水金の夜は、帰宅が午前零時を回ります。急用の場合は、家の者にお申しつけください。こちらからお電話いたします。』

 翌朝、土曜当日の朝に架けてくれ。そう伝えたいのだなと、一読した直後の私は思った。他に文字は見当らなかったので、紙片を元どおりに小さくしようとした。そこで、疑問が生まれた。なぜに月曜や水曜のことまで書いているのか、ということであった。先々のつきあいを望む気持が無意識のうちにも出てしまったのだな、やはり惚れられているのだなと、私はそのケアレスミスを鼻で笑った。だが、いよいよメモを折り重ねようとしたとき、何かしら引っかかりを覚えた。米粒ほどの文字をわざわざ並べる必要が、私には理解できないのだった。再読してみることにした。

 習いごとをしているのだとすれば、帰るのが午前様になるということは、まずあるまい。ちまちまと書かれているということにも、秘密性が感じられる。男がいるのかと、私は溜息をついた。退社後に水商売でもしているのかと、次には顔をしかめた。外見や話しかたにより、ずっと以前から知っているような錯覚があるのだが、よくよく考えてみると、須賀についてほとんど何も知らないのだった。気を許せる女かどうかすら、瞭らかではない。どういう根拠で胸を弾ませていたのかと、私は自分の愚かさに腹が立ってきた。しばらくは性別を意識せずにおこうと思いながら、そそくさと紙を畳んだ。

 手近にあるポケットへ押し込んでしまおうとした。それが、上着の左胸に付けられているものであるということを、私は認めた。重役へ挨拶にいくに当たって仕方なしに袖を通したのであったが、その衣類による暑さを、まるで感じていないのだった。空調が効いていない狭い空間にいるこのときにも、同様なのである。心身を働かせていたわけで、体温は確実に上がっていよう。さすれば、気温のほうが下がっているということになる。私は個室から出てみた。トイレの窓が空いていたので、そちらへと向かっていった。

 橙色の光に、街は包まれていた。ワイシャツ姿が不似合いな街、ではある。とはいえ、そこにいる男のほとんどが、身体の裏側を一色の棒にしている。その動きにも、せかせかしたりだらだらしたりといった差異は、観られない。

 私は視線を上げてみた。オフィスビルの集落の向こうに、デパート群の屋上が見えた。そのいずれでも、派手やかな横断幕のようなものが波打っていた。それらには、共通する漢字が三つあった。衣替えの時期が近いということに、私は気づかされた。夏物の上着をきていても、暑くないわけなのであった。

 この夏が、終ろうとしている。そのことは、身体を通じても理解できた。しかし、なぜか私には、納得しかねるところがあった。着ている必要もなくなったのだからと、とりあえずで、上着を脱いでみた。少しだけ楽になれたように思われた。だが、心の喉には相変らずで、小骨が引っかかっているようだった。煩わしさから逃れたい一心で、私はトイレから飛び出した。

 土曜当日の朝の電話により、須賀とは昼下りに落ち合うこととなった。お祝いなのだからと、それに見合った服装で出向くことも、求められた。

 高速道路で下町へと向かいながら、私はぼんやりと、この日一日のプランを練りだした。  

 須賀が夜に別の予定を入れているとは思えない。翌日も休みである。食事をしにいくだけではつまらない気がした。いろいろと探ってやりたくもあった。遠出することを持ちかけてみようと、私は決めた。

 三十分前に着いてしまった。知らない町である。路上に留めておくことがためらわれ、私は有料駐車場を探した。喫茶店まで、百メートルほど歩かされる破目になった。

 約束の時刻には、それでもなお早かった。未だやってきてはいないものと断じて店に足を踏み入れたが、案にたがい、ツーピース姿の須賀がとらえられた。しかも、カウンター席に、なのである。自分と似た考えかたをする女なのではないかと、私は嬉しくなった。しかし、そうとばかりは言えないことが、近づいていくうちに判明した。カウンター内の女と話しているのが、認められたためである。

「あら。すぐにわかったでしょ? ねえアキちゃん。悪いけどさっきのもん出してきて」

 私を認めるなり、須賀は女にそう言った。この日の彼女は、パンプスに至るまで白一色で固めていた。それらとは対照的な色の、一抱えもありそうな花束が、店の女から彼女、そして私へと手渡された。

「入社おめでとう、てなわけで、あたしの服とで紅白にしたの。どおお? ご感想は」

 言葉づかいが違っていることに面食らってはいたものの、私は遅滞なく礼を言えた。嬉しさのほうが勝っていた。女から花束をもらうのは、生まれて初めてのことであった。

「やってることたあ矛盾するようだけど、会社じゃないんだあら、きょうは敬語なしよ。遠ちゃんもそうしてね、かたっ苦しくなっから。いいでしょ?」

 拒む理由はない。頷いておいた。気を利かせたのか、カウンターの向こうに立っていた女は、奥へと引っ込んでいった。須賀に勧められてから、私はその左隣の席に就いた。私の注文を訊き、店の女を呼びつけてそれを頼んだのも、主催者であった。

「横浜まで行こうと思ってるんだけど、どうだろう? あなたは中華、きらいかな?」

 その顔は、前日にも観ている。その声は、この午前にも聞いている。のっけから本題に入ったほうがいいと、私は判断したのである。それでかどうか、須賀は喜んだ。すぐに賛同を得られた。

「あなたなんて言うのよしてよ、白けっから。きょうは、遠ちゃんタッちゃんでいこ。そうそう。そうだわ。方角的にもちょうどいいし。ねえ。あっし横浜に行く途中で寄ってもらいたいとこがあんの」

「え? 何か買物でもするの?」

「ううん。遠ちゃん行ったことある? 品川の大水族館」

 そこにまで行ってしまっては、寛子との初デートの跡を、丸々なぞることとなる。私は罪悪感のようなものを覚えた。

「あるにはあるけど。かなり広いんだぜ。見て回るとなると、帰りが遅くなっちゃうから、それはまた今度ってことにしない?」

「ああんいいわよ遅くなったって。それにこいからすぐ横浜いったら、夕飯には早すぎんでしょ? じゃ決定。そうと決まったらほれほれ。さっさとそのレーコー飲んじまって」

 須賀はすでに立ち上がっていた。勘定してもらいたいのを店の女に告げると、一人で出入口のほうへと進んでいってしまった。タバコ一本を喫う間も与えられないままに、私は後を追わされた。支払う場面が見られなかったので、途中、レジの前で立ち止まった。ツケが利く店であることを前から言われたかと思うと、花束を抱えている左腕を横から牽かれた。危うく落しそうになった。

 車に乗り込んだ。後部座席に花束を寝かせたところで、私はもう一度、須賀の翻意を促そうとした。

「実は僕、魚介類が苦手なんだよ」

「フフ。そんなのウソよ。なんか思い出があんでしょ? たとえば誰か女の子と行ったとか。ど? 図星でしょ。別にいいじゃんか、あたしたちゃあただのお友だちなんだあら。ほれほれ、さっさとエンジンかける」

 言いだすと引かない性質のようである。

 美しい女に、私は弱い。大柄なそれには、さらに弱い。そのうえにも押しの強い相手とあっては、なおさらである。慣れないうちには、言い返すことすら、ままならなくなってしまう。すなわち、須賀の運転手に成り下がるよりほかないのだった。

 信号のない道を走りだしてから、ようやく私は正気をとりもどせた。助手席のほうから吹き込んでくる疾風、その騒々しさのせいでだった。乗物酔いをするような女が、高速道路を選ばせるはずはない。

「クーラーかけるからっ。窓しめてよっ」

「暑いんじゃないわよっ」

「じゃあっ。……これじゃ話ができないよっ」

「しなくたっていいわよっ」

 問いただしたい気もしたが、私は噤んだ。怒りを買うようなことを言った憶えはない。さほど長い距離でもないので、放っておくことにした。月例かな、とも思った。

 寛子の場合とは異なり、私のことを好いていると、明言されたわけではない。会社の女でもある。滅多なことを言ったりやったりしないほうがいいと、私は心した。

 須賀は、車を降りたあとにも、車にいたときと同じほどの間隔を維持しながら、私の隣を歩いていた。

 水族館に入った。その佇まいのみによっても、寛子のことが意識にのぼってくる。魚どもについても、私は努めて見ないようにしていた。魚から蒲鉾、蒲鉾から寛子。そういう具合に連想が進んでしまいそうなのを、恐れているのだった。

 それでも、前後以外は、魚と水に取り囲まれている。いや、前後さえもが、魚を観ているうちに魚になってしまった人々に挟まれている。一様に目を丸くし、一様に口をだらしなく開けている。最も近くにいる須賀とて、同様である。乙姫さまには、この場ではなってくれそうもない。浦島太郎が竜宮城での生活に飽きている自分に気づいたのは、あるいはこんな、周りに魚しかいないときだったのではないか。そんなことを考えながら、私は目に、自分の靴の先だけを追わせていた。

 生簀の水のなかに通された透明なチューブ。そういうものを想わせる通路を、歩いているときであった。驚きを帯びた歓声に続き、須賀が袖を引いてきた。直線的に一度だけ引くもので、単に気を引こうとするものとは違っていた。自分に手綱が付けられているとすればきっとこんな感じなのであろう。そう思いながらも、私は顔は上げずにおいた。

「ねえ。まえに誰と来たの?」

 隠してもよかったが、より煩わしい思いをさせられる気がした。

「彼女とさ。別れちゃったんだけどね」

 足した言葉は、私のなかの男が言わせた。相手は女である。若くもある。そう言っておかないと礼を失するように思われたのだった。

「フフ。あんがい調子いいひとなんだね」

 配慮を無にされた気がし、私は軽く腹が立った。反撃に出てやることにした。

「調子いいのはタッちゃんのほうなんじゃないの? なんで月水金は午前様なの?」

「それは……。いまはまだダメ」

 水族館のなかで交した人間らしい会話は、それだけであった。

 横浜へと第一京浜を走りだしてからも、須賀は助手席の窓を全開にしていた。高速道路ではない。だが、それの制限時速に近いスピードは、出せる。加え、九月下旬の夕暮方である。私は顔面の皮膚に強ばりを感じた。とはいえ、猛風の直撃を受けているわけではない。さぞや参っているのではないかと、何度か左隣を瞥見してみた。須賀は、眉根を寄せ、目を細めている。鼻水の垂れるのをハンカチで防ぐ動きも、時として見られる。ハンドバッグを太ももに載せ、両手を擦り合わせたりもしている。私は声を放って笑った。いい加減に窓を閉めたらどうかと訊いてやったが、このときにも拒否された。勝手にしろと思い、こちらでも突き放してやることにした。