先方までの所要時間は、一次面接の折に調べてあった。それよりも十五分さかのぼった時刻に、上着とビジネスバッグの入った紙袋、さらに心の余裕をも持ち、私は会社を出た。ところが、新宿駅に着いてみると、大伴商事の最寄り駅への電車が、事故で動かなくなっていたのである。

 地下鉄を利用するしかなくなり、慌てさせられた。地上に出てからどれほど掛かるのかが、まるで読めないためであった。弱り目に祟り目というか、そういう際の私の身体の常で、小用まで催した。真夏の夜の暑さによる汗、走ったことによる汗、焦る気持による汗が、引きもきらない。それでも、尿意は膨らんでいく一方である。三種類に加え、我慢による汗までもが吹き出してくることとなり、全身が水浸しとなってしまった。

 大伴商事のビルには、約束の七分前に、どうにか辿り着けた。上着に袖を通し、身形を整える用もある。待合室のある六階までエレベーターで上がると、私は脇目も振らずにトイレへと駆け込んだ。誰もいないようだった。

 洗面台に紙袋を放り出し、まずは放出に掛かった。間に合ったこともあり、気が、口が弛んだ。膀胱からの悦びの声を、溜息に混ぜてしまった。

「ケケ。気持よかったか?」

 そんな声が聞え、ギョッとさせられた。私のほかにはいないはずなのである。目に見えない存在に付け込まれてはなるまいと思った。しゃにむに雫をふり落した。

「あれ? おい」

 男の芯を格納したところで、その声が起った。念のためで、私は背後に目を向けてみた。三つある個室の一つのドアが、閉まっているのだった。入ってきたときには、そこもたしかに、闇の色をしていたのである。

「おいっ。ションベンッ。いるんだろっ」

 いまだ「よその会社のトイレ」なのである。それをわきまえ、私は返すことにした。

「おりますけど。どうかなさったんですか?」

「紙がないんだ。上からロールを渡してくれ」

 こちらにもこちらの事情がある。

「ちょっとお待ちください。僕もまだ、完全に終ってるわけじゃないんです」

「ええ? あそう。それにしても……」

 やるべきを済ませたうえで、どこにトイレットペーパーがあるのかを訊き、指示どおりに差し入れてやった。

「すまんな。誰もいないみたいだったんで、ふりチンのまま取りにいこうとしたんだけど、あんたが入ってきちまったもんで」

 ドアが閉まっていなかった理由は、それでわかった。だが、どうでもいいことである。返事をせず、私は足早にトイレから出た。

 待合室へ進み入ると、上背が並の男ほどもある若い女が、ぽつねんと佇んでいた。

「遠藤真一さま、でいらっしゃいますよね?」

 ボブカットをなびかせながら、にこやかに近づいてきた。身体の線があらわな、真っ赤なツーピース姿である。私の目は、相手の顔よりもそちらを選んだ。揺れる胸、振られる腰、伸びてくる脚と、落下していった。俯いて答えた。寛子の身体を、思い出していた。

「本日の会場は、一つ上の階の、応接室となっております。これからわたくしがお連れしますけれど……。んんっ。おいきみ元気ないぞっ。ファイトファイトッ」

 いきなり大声を出され、私はおののいた。ひんむいた目で、女の顔を見つめた。直後に、美しいと思った。敬礼こそしなかったが、胸を反らせ、腹を凹ませ、足腰の関節という関節を伸ばさないではいられなくなった。

「あらごめんなさい。ついわたくし。……面接のときにはいまのこと、内緒にしておいていただけますか? お恥ずかしい」

 案内役に萎れられてしまっていては、先行きが危ぶまれる。私はまず大笑いを偽造した。

「いいかたなんですね。すごくおきれいだし。もしもご縁があって、僕も御社の一員にしていただけたら、ぜひお礼させてください」

「まあ、ホントですか? ……いやあの。とにかく、がんばってくださいね」

「ありがとうございます」

 女は生気を取り戻した。出入口の脇にあるインターホンを使い、私を連れていくという旨だけを告げた。

 階段で、私は上へと導かれることになった。女のうしろ姿にも、寛子のそれを思い出させられた。しかし、と考えもした。そのあけっぴろげな無邪気さは、寛子にはないものである。むしろ妹のほう、百合子に近い。その声音と語感は、二人の母親、平生の中谷夫人のそれと似ている。その顔だちは、三者いずれとも明確に異なるものなのだが、なぜか私は、前を行く女に三者の統合を見た気がした。すなわち、とても好ましい女に思われたのである。

 上がりきる寸前で、私は首を振り、早い瞬きを繰り返した。女のことをあれこれ考えている場合ではないのだ。

「この先の、あの偉そうなドアの部屋。あちらが本日の会場となっております。敵は三人います。ファイトです。がんばってください」

 そのちぐはぐな言葉に声を潜めて笑うことで、私はもやもやしたものを噴出した。それからは女を見ずにおいた。前に目を向けたままで礼を言うと、歩を進めだした。

 二次面接では中央で踏んぞり返っていた人事部長が、向かって右側で縮こまっていた。

「ようこそ。こんばんは遠藤さん。……ご紹介しましょう。そちらにいらっしゃるのが、キド常務。中央にいらっしゃるのが、ヤマガタ専務。そして私は、先回お会いしましたよね。人事部長のユリです。さあどうぞ。こちらにお座りになってください」

 右の手の平で勧められた席は、漠としたものであった。革張りとおぼしき、ゆったりと三人が座れるほどの長椅子だったからだ。先の二回のような殺風景な小部屋ではなく、無用な置物に囲まれた豪奢な一室であることも、私には徐々に見えてきた。応接セットの下にはペルシャ渡来のものらしい、派手な絨毯まで敷かれていた。進むうち、私の両足がそれを踏んだ。改めて一礼してから、長椅子の中央に尻を沈めた。人事部長以外は反り身になっている。それまでの面接の際よりも二人との間隔は大きいはずなのに、ひどく間近で向き合っているように思われた。

「遠藤君か。フフ。いい身体、してるね」

 常務だという男のメガネが金縁だったためか、その言葉があらぬ響きを含んでいるように、私の耳には聞えた。驚きの声を放った。眉と目に力が入ってしまっていた。

「バカおまえっ。俺は何もそのおっ。……あいや失礼。きみは、だ。立派な体格をしてるね。商社マンは一にも二にも体力だ。健康には自信あるんだろうね?」

「はい。履歴書に添付させていただいた、健康診断書のコピーにもあるとおりで、内臓機能だけでなく、運動機能のほうにも自信あります。ボクシングやってましたから」

「なるほど。そうか。頼もしいね。ああ、それでなんだね。拳ダコってやつか? きみの手、指の関節が恐竜みたいに、ひどくゴツゴツして見えるのは。あいや失礼。僕は誉めてるんだよ。実に惚れぼれする。これぞ男の手っていう感じだ。なあユリ部長」

 話を振られた男は、言葉を濁した。手にしている紙に顔を向けた。それを見たことにより、私は重大な事実に初めて気づいた。私に関しての書類を持っているのは、人事部長だけなのである。

「前々回や前回と重複する質問になるかもしれませんが、そこのところはご容赦ください。えー。貴君のお父さまは、七海物産にお勤めですが、今回の貴君の弊社への応募について、どのようにおっしゃられていますか?」

「なにいっ。こいつ物産のヤツの息子なのかっ。なんでそれをまず言わないんだバカッ」

 専務だという中央の男が、いきなりで、寝ぼけたような顔を強ばらせ、そう息巻いた。人事部長になだめられると、渋々といった手つきで、応接テーブルの上の、瑪瑙でできているらしい円筒を掴んだ。蓋を取り、詰まっているうちの一本を抜き出し、口に咥えた。

「話を戻します。遠藤さん、お父さまはどうおっしゃられていますか?」

「自分の会社なんかとはちがって伝統のある、立派な総合商社だと。社員のかたがたの上品さには、見習いたいものがあると」

「ヘッ。物産のヤツの言いそうなセリフだ。おだてるだけおだてといて、いざとなりゃあ寝首をカッ斬る。そういう卑怯なことでも平気でやりやがんだよ、あいつらと来たら」

 今度は、タバコの煙とともにそんな言葉を吐き散らされた。大人げない男だと思いながら、私は視線を人事部長へと移した。

「さようですか。七海さんのような大手から一目おいていただけて、大伴の一社員として光栄に存じます。これまでお越しいただくなかでもおわかりかと思われますが、弊社の社員はどうも、活力に欠けるところがございます。荒々しさというか、猛々しさがない。そこが欠点かと考えますが、遠藤さんのご感想をひとつ、お聞かせ願えますか」

「そうですねえ……。でもどうでしょう? 失礼に当たるかもしれませんが、柔よく剛を制すっていう言葉もあります。よそがどうであれ、御社には御社のスタイルがあるでしょうし。それはまた、実にそのお……。一つのいわゆる……会社としての個性、なんじゃないでしょうか?」

 白煙が、私と人事部長の間に吹き付けられた。専務が、また割り込んできた。

「ケッ。ナガシマかおまえは。まさに物産のヤツの子種が言いそうな言葉だ。信用ならん。おまえ本音を言え本音を」

 給金をもらっている会社ではない。この男とも上下関係にはない。赤の他人である。実の父親よりも上の世代であり、敬語を使ってこないことは、まあ許せよう。しかし、十把一絡げに否定するその姿勢が、私にはどうしても我慢ならなかった。看過すれば、人間としての自分まで否定されてしまう気がした。

「お言葉ですが専務さん。どうしてそう悪くおっしゃるんでしょう? 物産によって、どういう嫌な思いをされたかは存じませんが、私の父親は私の父親、私は私です」

「おお? 俺に言い返してくるたあ、なかなかいい度胸してやがんなおまえ。言い分にも筋が通っとる。親おもいでも、あるらしいな。父親を庇ってから自分を庇ってるからな。人事部長、座布団三枚もってきてやれ。ワッハッハッハッ」

 顔を溶かしている。そこまでの、小馬鹿にするような薄笑いとは、顕著なちがいが認められた。その声にも、腹からのものの深みがあった。わざと挑発的な言葉ばかりを浴びせかけて相手の本心を探ろうとするのは、自分を自分以上に祭りあげられてしまっている自信のない人間にありがちな傾向である。なんだそういうことだったのかと、私は気を緩め、微笑みを返した。そのときであった。

「と言いたいところだが、座布団はやらんでいい。個人的にも俺はおまえが嫌いだ。でも俺は悪くない。恨むんならこのキドを恨め」

 どういうことなのか。専務のほか三人の顔は、同じ疑問を浮かべていた。名指しされた常務が、メガネの金色の蔓を一摘みしてから、それを言葉に変換させた。

「ああ? おお。なあキドよ。それがおまえの美点でもあり、また欠点でもあるんだけどな。人が気づかんとこまで、よう気づく。ま、そういうこっちゃ」

 灰皿の縁で押し消されたタバコが、鼻糞を飛ばす指使いで、その凹みへと弾かれた。

「あの。思い当るふしは、ございませんが」

「よおく考えてみろ。おまえはこのアンちゃんと、きょうが初対面なんだろ? いままでの時間で、おまえどんなこと言った?」

「身体について尋ねました」

「おおよ。そこいらへんに、俺がこいつを嫌った理由がある」

 機能にも自信があると言ったことが気に障ったのか。常務に次いで私が質問した。

「そうじゃない。おまえもよおく考えんだな。それがわかったら、すぐに俺に電話してこい。こいつらがなんと言おうと、俺が責任もってウチへ入れてやる。でもわからん場合は、グ~バ~イかもしれんな。たださえおら物産がでっきれえなんだからな。じゃこれで面接終了とすっか? なあユリ」

 肘掛に両腕を突っ張り、ソファから腰を浮かせかけた専務を、人事部長が慌てて止めた。

「ご冗談は困ります。形式は形式なんです。いましばらくご辛抱ください。……えー。こちらの遠藤真一さんは、お生れが――」

 結婚式での新郎の略歴紹介のような、つまらない棒読みが始まった。専務は二本目のタバコを喫いだした。志望動機など、本来は私みずからが言わねばならないはずの事柄までも、人事部長が述べた。二度の選考結果の詳細を告げたときにだけ、専務の細い目からわずかな白目がのぞいた。問題集を解いて臨んだためでか、筆記試験の結果が一番なのであった。私はその間、耳に入ってくることを聞き流しながら、専務の顔だけを見詰め、彼にぶつけられた難問を考えつづけていた。時おり私の顔を見ているのか、専務は、笑いを堪えるかのように、その口角を痙攣させていた。ただただ憎らしかった。

「それでは遠藤さん、本日はお疲れさまでした。この最終選考の結果は、今週末までに、電話でご連絡いたします」

 立ち上がってまで挨拶を返してきたのは、人事部長だけであった。すんなり転職できるものと思っていた私の自信は、大きくぐらつきだしていた。

 ぼんやりしたままで、私は階段へと向かった。踵を鳴らしての上下移動をはじめた。エレベーターで一階まで降りてしまえばよかったことに気づいたのは、六階の踊り場で、先の背の高い女に声をかけられてからであった。

「ああ、申し訳ございません。迂闊でした。おトイレにご用なんですね? 上のは、故障中ですものね」

 そうではないのを答えた。さらにあれこれ問われることとなった。

「いやあ。どうもなんか。ダメみたいなんですよ。専務さんに嫌われちゃってるみたいで」

「ということは、専務が遠藤さまに、何かお話しになったわけでしょ?」

「ええ、まあ」

「それならきっと大丈夫ですよ。お気に召さないお相手とは、お口をお利きになりませんもの。お口はお悪いですけど、いいおかたなんですのよ。実はわたくしあのおかた、専務の秘書なんでございます。三年間ごいっしょさせていただいておりますけど、おしり一回おさわりになることもないぐらい、気まじめで純粋なおかたなんですのよ。……これはわたくしの女の直感なんですけど、遠藤さまとはまたお会いできる気がいたします」

「だといいんですけどね。……あっ。そうだ。あなたにお願いがあります」

 女は答えず、上目づかいに私を見ていた。

「あの僕、こう見えても気が弱いほうなんです。僕のことで何かおわかりになったら、ご連絡いただけませんか? ダメならダメでいいんで。あいや、下心なんかないんですよ。今いる会社の都合もありますんで、一刻でも早く結果を知りたいだけなんです」

 女は飲んでくれた。私は名刺を取り出し、自宅の電話番号を書き込んでから、手渡した。 

 会社へと戻っていく道すがら、残業に戻ったのちにも、足や手を休めては、私は謎解きを試みた。しかし、結果は虚しいままであった。推理小説を好まず、込み入ったことを考えるのが苦手な私は、面接終了から三時間ほどで、早くも挫けた。そのあとには、虚脱していたらしい。

「遠藤君どうした? 疲れまくってるのか?」

 顔の前で、田村課長に手を振られていた。人間の頭脳は一つ一つ異なる。得意分野もちがっていて当然である。私は彼を、会議室へ連れ込んでみることにした。

「うーん。俺が想うに、きみのその手だな」

「つまり、僕の手の形が気に入らないと」

「専務なんだったら、いくらなんでも、そこまで偏屈者じゃないだろう。その手自体じゃなくて、それと関係する何かなんだろうな。でも、常務が気づかなきゃ済んだって、そう言ってたわけだろ。そっからすると、その拳ダコから、自分の親父のゲンコツを連想させられたんでってことも、なさそうだけどな。だいたいそんなの、きみとはなんの関係もないことなんだし」

 結局のところ、当事者である私にも測れないことを、第三者が推せるわけがないのであった。自分が溺れかけていること、掴んだのが藁だったことを、知らされるのみに終った。

「しかし困ったな。想わぬ邪魔者が、入ってきちまったって感じだよな。……ほかの会社でよさそうなところ、受けといたらどうだ? まだ時間はあるんだし」

「そうですね。ちょっと調べてみます」

 とは言ったものの、その時点の私は、とてもそんな気にはなれなかった。応募可能な会社は、他にもあるにちがいない。だが、待遇の好くなるのが確定的なところは、他にはなかったはずなのである。体力の回復を待とう、改めて謎解きに取り組もうと、私は思った。魅力のない他社に費やす労力を考えれば、そちらをどうにかしたほうが、まだ易い気がしたからである。少なくともこの週のうちには、頭を悩ませ続けよう。そう決意した。