五十

 

 夕食が済んでからも、母親は私に付きまとっていた。中谷夫人との電話の内容を明かせというのである。いい加減には答えてやっていたのだが、一向に納得しようとはしない。

「やっぱり、どう考えてみてもウソだよそれ。んなことなんかで、わざわざ電話してくるわきゃあないよ。……ちょっと真一。あんたのことが心配で、あたしゃ聞いてあげてんだよ。いい加減にしときなさいよ」

 二階にまで上がってきそうな勢いがある。疎ましさから、私は本格的に頭を稼働させた。

「じゃあ、母さんだけに教えるよ。ここだけの話にしといてくれよ。いいね」

 打明け話というものに仕立てあげ、母親の自尊心をくすぐってやることにした。

「美人薄命っていうだろ? 彼女、寛子さん、心臓に欠陥があるかもしれないんだよ。デート中に倒れてね。救急車よんで、大騒動だったんだよ実は。片親で、それも東京にはいないわけだろ? 俺が病院で付き添ってたんだ、あの徹夜マージャンだったって夜には」

「ええ? ……またまたあ」

 上目を遣っている。もう一押しだと思った。

「ウソじゃないって。マージャンがウソだったってことを、白状してるじゃないか。……それで彼女のお母さんが、俺への礼と、今後のことをどうするかで、電話してきたってわけさ。母さんも言ってたけど、中小企業でも社長は社長だろ? きょうまでテンテコ舞いだったらしいんだよ。あそうだ。それからこのことは、寛子さん本人にも内緒のことだからね。もし彼女が、病院から電話してくるようなことがあっても、万が一にも漏らさないでくれよ。いいね母さん」

 秘めごとを明かしたのを言われると、人間は、相手と親密になれたと思うばかりでなく、容易に騙されてしまうものでもあるらしい。さらにも、引くところでは引いて押すところでは押す。そういう話の進めかたが、皮膚科医との通話のときに等しい効果を、生み出したのかもわからない。即席の話であるというのに、母親は丸ごとを信じたようで、了解の言葉だけを返してきた。続いて、とぼとぼと廊下を歩きはじめた。丸められているそのうしろ姿を見て、自分に詐欺の才能があることをも、私は見た気がした。

 さて、暇になった。食後の一服を味わいながら、私はこの夜の過ごしかたについて考えはじめた。就職情報誌を二冊も買ってあることに、間もなく気づいた。

 本屋を冷かす際の首の角度で、色つきのページのみをパラパラと繰った。応募可能年齢を「三十歳まで」としているところの多いことに、まず気づいた。自分の「賞味期限」が一年しか残っていないということを、図らずも私は知らされた。

 社名を見ただけで疑念が膨らみだすような会社。たとえば『パラダイスカンパニー』の類。いかにもあくどい商売をしていそうな会社。たとえば『スマイル商会』の類。この時点での知名度こそそこそこ高くなっているものの、私が大学生のときには聞いたこともなかった名前の会社。たとえば……。そんなところの募集が、大半なのであった。

 名の通った、または歴史ある会社のものも、あるにはあった。しかし、それらには、こちらに応募資格がなかった。金融、経理、不動産。そういった分野での業務経験が求められている。私が応募できるものは、「未経験可」か、貿易関連業務に限られるのだった。

 業種で見てみることにした。私の元々の志望は、マスコミ業界であった。それが果せなかったため、滑りどめで受けた現在の電気機器製造会社へ転がり込んだのである。夢を叶えようと意気ごみ、その区分を割ってみた。大手の子会社か孫会社のものばかりだった。低賃金での重労働のみが、求められている。

 製造業を営む会社の待遇がどこも似たり寄ったりであることも、業種で見るようになってからわかった。現職と同じ職種の募集も、掲載されていた。だが私は、それらの詳細を確認しようとまではしなかった。少しばかりの待遇改善にそそのかされて会社を変わったところで、在職年数が消えてしまう分、何かと損をさせられるだけなのが察せられたためである。ことあるごとに「中途入社、中途入社」と蔑まれるようにも想われた。

 二冊目の雑誌は、使われている紙の質が、一冊目のそれよりもよほど悪かった。その編集の仕方も、アルバイト情報誌さながらであった。縦横十センチとない升目が、団地の集合ポストのように並んでいる。そんな雑誌を求人媒体に選ばねばならない程度の会社であれば、高が知れているわけである。眺めてみる気さえ、私は喪失させられた。

 結局のところ、転職しても、何もいいことはなさそうなのである。現職に留まれば、より忙しくはなろうが、「チームリーダー」になれるかもしれない。段ちがいに好くなるとは思えないが、年俸も確実に上がる。平穏無事こそ何よりだと、私は老人のような結論を下した。頭がそうなっている一方で、若さを訴えてくる部分があった。寛子との最後からまだ一週間しか経っていないというのに、堪え性のない奴である。私は本棚の前へと向かった。地図帳など、大判のものがぎっしりと押し込まれているところに、猥褻な雑誌の数冊をさりげなく紛れ込ませてある。ズボンとパンツを膝まで下ろし終えたのち、ふと脳が強姦魔のものではなくなると、肉づきのいい女たちを、やはり選んでいる自分に気づいた。

 予定が詰まりすぎているのも困るが、まったくないというのも、また同様である。日曜には久しくしないでいたことを、私はする気になった。新聞を自室にまで持ち込んだ。この国の社会への関心が湧いたわけではなかった。政治がどうなろうと、どんな事件が発生しようと、知ったことではない。武力革命でも起きなければ、国家の体制が変わることなどない。1センチを超えるほどの長い鼻毛でも引っこ抜けたことのほうが、私にはよほど重大事なのである。テレビ番組欄とスポーツ面にのみ、用があるのだった。

 夜になるまでは、観るに値する番組がないように思われた。売れない俳優が飲み食いしたり旅行したりするのを、観たいという人々の気が知れなかった。野球中継を眺める際の参考にしておこうと、中程にある紙面へと利き手を動かした。

 日曜の新聞には常にない数の求人情報が載せられているということを、目から思い出させられた。まだ子供であった時分に亡くなった祖父の顔写真のように、私の脳髄は忘れきっていた。就職が決まってからというもの、日曜といえば女と遊ぶ日、なのであった。前夜の二誌のことから大きく期待する気持はなくなっていたが、ものは試しでと、眺めてみることにした。

 そこでは、就職情報誌のカラーページでふんぞり返っていた会社が、隅に追いやられているのだった。新聞というものへの掲載料の高さが、さっそくで見て取れた。求人面を大きく占めているものは、ほとんどが東証一部上場企業のそれなのであった。あろうことか、私の在籍する会社までもが、二十五歳以下に限ってではあるものの、募集をかけていた。

 目を引くものが一つだけあった。それは、とある総合商社の募集広告だった。

 私の父親は商社マンである。母親が言うようにこの国で三本の指に入るかどうかは定かではないが、五本の指にはまちがいなく入るであろう大手だ。彼の会社生活の断片は、生育過程での折々に見聞きさせられてきている。

 猫の手よりはマシだと、高度経済成長期には数例あったらしい。だが、原則としては、総合商社は中途での採用をしないという。よその会社は我々の道具や乗物にすぎません、それらを動かしている社員たちは全員が土人なのです、いくら有能な土人でも無能な文明人を越えることはありません、脳の構造が根本から異なるからです。そういう誤った「思想」が、職歴のない一流大学卒業者しか雇わなくなった背景には、どうもあるようだ。

 旧幕時代の「お家制度」を模倣しているふうであることも、父親の部下たちの振舞から、私は見取っていた。上長はあなたの王様です、王様に貢物を献上するのは当然のことです、王様が喜ばれるものを選べば仕事でのミスは大目に見てもらえます、王様が鉄の棒を振り回されたときには大声で「ナイスショット」と叫びましょう、実力を出してはいけません、王様との宴席時にはタイやヒラメ役に徹しましょう、求められたときにだけ舞い踊りを披露すればいいのです、いずれはあなたも王様になれます、ただし上には上があるということも頭の中央に置いておいてください。そういう掟を守らないとどうなるのか。粋狂に任せて課長の赤らんだハゲ頭にうしろから自分の一物を載せて「ちょんまげっ」と叫んだ平社員の末路も、私は聞き知っている。勤務時間中はボイラー室に軟禁され、発狂させられ、精神病院に送致されたそうである。

 そんな組織には、私は死んでも入りたくなかった。三流私立大学の卒業年に上がるや、跡取り息子なのだからと、両親を含めた多くの関係者からかき口説かれたが、頑として突っぱねた。「やくざなマスコミ会社」に入れた際には、勘当されることも覚悟していた。

 ところで、求人広告を出しているその総合商社は、従業員規模からすると、中堅どころであった。ただ歴史は古く、創立は文明開化のころ、明治初年にまで遡るらしい。その証拠のように、かつての財閥名が、その社名には冠されている。根を同じくする会社に、大手ゼネコンと大手都市銀行がある。それらから栄養を分けてもらっていたこともあったのだろうが、二つの世界大戦をくぐり抜けてきている。未知の総合商社ではあったが、おいそれとは潰れない会社だと、私は読んだ。 

 待遇面を見てみた。二十五歳から四十歳までのモデル賃金が、五年きざみで記されている。いずれもが年俸であった。年末に三十歳となる私の目は、その年齢の部分だけを、穴が空くほどに見つめていた。現在の家電メーカーで最高の扱いを受けられた際の額とでも、二百万円を超える開きがあるのだ。総合商社のサラリーは銀行や不動産会社と肩を並べるほどに好いとは聞いていたが、そこまでとは思っていなかった。歴史ある会社だけに、社宅も保有しているという。住宅融資制度あり、ともある。俄然、私は乗り気になった。その広告を切り抜いた。

 蛙の子は蛙だという屁理屈で、大手の部長の息子であるということが、私の「売り」にもなろう。転職歴はないので、腰が軽い男なのではないかと、疑われる心配もなさそうだ。業務査定書と健康診断書の評価は、いずれもが「S」、スーパー、「優」の上を行くものである。それらの写しを履歴書に添付しておけば、書類審査の段階で撥ねられるなどということは、十中八九まで、ないことであろう。考えれば考えるほど有望に思われた。

 日曜で、父親は、下請会社が主催するゴルフコンペに出かけている。上質な女の付く店は開いていない日である。浅い夜には帰ってくることだろう。一方、スコアの善し悪しにかかわらず、微醺は帯びていよう。夕食の折にでもそれとなく情報収集を計ってみようと、私は上唇を舐めた。

 誰かが手を回したに相違ないが、トロフィーをもらえたとかで、父親は上機嫌だった。手柄話の音量が低下しはじめるのを見計らい、私はおもむろに切り出してみた。

「どうって。大伴商事っていやあおまえ。戦後まもないころには、あの有名女優のオカ・トミコだって、そこの男と結婚したいって言ってたくらいだぞ。名家の大金持のお坊っちゃんたちを、昼ひなかからブラブラさせてるのも世間体が悪いからって、親たちがこしらえた会社らしいぞ」

「ふうん。そんな会社が、よく保ってるねえ」

「まあな。三枡商事と同じで、幕末のころに官軍のスポンサーだったから、戦争中にも軍部と繋がりがあって、ボロ儲けしてたらしいんだ。どうせ戦地で死んじまうんだからって、兵隊のリュックに入れる缶詰に、石ころ詰めて納めてた、とかいう噂だぞ。……そういうことやって儲けた余禄があるからか、パッとしたことは何にもやってないってのに、銀座を呑み歩けるぐらいの給料はもらってるようだけどな。……でもおまえ、なんだってそんな会社のこと、俺に訊くんだ?」

「いやあ。その大伴からスカウトされた友だちが、入ろうかどうか迷ってるって言うんだ。おまえの親父さんも総合商社だから、どんな具合か訊いてみてくれって、頼まれたんだよ」 

 用意しておいた台詞を、私は唄った。

「で、どうだろうね? 大手のエリート部長さんのご意見は」

 持ちあげることで、眼力も鈍らせてやった。

「んまあ。うちら大手よりも、かえって幸せに過ごせるんじゃないか? いい加減に仕事して、大いに遊んで。土地つきの家も含めて、ほとんどのものが、グループ企業内で揃えられるんだしな。そのなかには銀行もあるんだから、カネだって借りられるし。社会に貢献しようなんて、滅多な考えさえ起さなければ、まず安泰だろうな」

 その言葉を聞き、私は腹が決まった。忙しさから逃れられるうえにも高収入を得られるとあっては、しめたものだ。自分の足跡を世に残したいなどとも考えていない。可能なかぎり楽しくこの回の生を終えられれば、それで充分なのである。駄目で元々だと思い、私は大伴商事の募集に応じてみることにした。夕食後、さっそくで履歴書づくりにとりかかった。証明写真を撮りにいったりする要も出てきたが、遅くとも週の半ばには、発送できる見込みが立てられた。

 週が改まった。始業時刻になると、田村課長は、大山部長とともに姿を消した。出張の報告に次いで辞意の表明が行われるものと、私は想った。だが、二人の密室でのやりとりを考えられたのも束の間で、やらねばならない諸事の渦に呑み込まれてしまった。海外からの電文に、まず手を着けた。

 いつになく女性アシスタントがダレている。茶を啜る、返事をするばかりで、なかなかに腰を上げようとはしない。それは常のことだが、その重さにはどこか確たるものが感じられる。何かの訪れを待っているふうにも、見受けられる。

「深川さん、どうかしたの? もしかして、誰かが来るの待ってるの? 残業しても終らなくなると、いけないから。ね」

 深川は鋭い視線を向けてきた。管理職でもないくせに命令してくるな、とでも言いたげな目つきをしている。それもまた、この日この回に限らないことであった。

 いまに見ていろ。俺の後釜が来ることになるのか俺がチームリーダーになるのかは、まだわからない。けれども、どちらにせよ、おまえが辛い目に遇うことは確実なんだ。俺がここからいなくなれば、おまえはこれまでみたいに指示を待っているだけでは済まされなくなるんだぞ。俺が実権を握ったあかつきには、まっさきにおまえをこの課から叩き出し、もっと素直で頭のいい美人を入れてもらうつもりだ。へへ、馬鹿はかわいそうだな。そう思いながら、私は微笑みを返してやった。

 すると、何を考えているのか、深川は不敵な笑みを見せた。そんなことは、それまでに一度たりともなかったことである。ネズミなど、知能の低い動物ほど、危機を察知する力は優れているという。あるいはこいつまでもが会社を辞める気でいるのではないか。辞表を出そうと決めており、課長が戻ってくるのを待っているのではないか。私は戸惑った。

「おやおや。なんかうれしそうだね。そんな深川さん見るの、初めてじゃないかな。なに、きのういいことでもあったの?」

「別にい。きょうが特別な日なだけですよ」

「え? たしか誕生日は、五月だったよね?」

「フ。誕生日じゃなくったって。ひとそれぞれにフ、特別な日はあるもんでしょ?」

 そこまで以上に顔を綻ばせている。見覚えのある、女特有の表情であることに、私は気づいた。ある種の「したり顔」といっていい。アーチ形にした目のなかを、白一色にしている。黒目を脳のほうに向け、実際とはかけ離れた、好ましい自分を観ているのであろう。左右に引き伸ばした唇を、てらてらと煌めかせてもいる。想いを発展させていくうちに溢れ出した唾液が、枯れ地に水分を供給したのであろう。女がそういう表情を見せるときは、だいたいが、男を「手込め」にしたときである。考えすぎだったことをこそ、私は見せられた気がした。同時に、こんな醜い女でも相手にせねば済まなかった情けない男のことを思い、その際の汚らしい場景を想い、顔を背けたくなった。こういうときの女には何を言っても無駄なので、放っておくことにした。仕事の分担はほぼ決まっている。この日には課長もいる。彼女の酔い痴れるのが続くようであれば彼から警告してもらおうと、私は決めた。のちのため、深川に指示を出した時刻、注意を促した時刻を反故にメモしておいた。

 一時間ほどすれば午前も終ろうかというところで、大山部長と田村課長が戻ってきた。部長が仏頂面をしているのは、私には当然のことのように思われた。しかし、課長もが似たような表情をしていることには、どうにも合点が行かなかった。筋からすれば、申し訳なさそうな、もしくは悲しげな面持ちでいるのが、妥当である。その私の疑問は、数分後には解消されることとなった。

「遠藤君、ちょっと話がある」

 応接室へと、課長に導かれた。向き合って座ってからも、彼の表情は硬いままだった。

「どうかなさいましたか? 部長から、退職を延期するようにでも、言われたんですか?」

「俺のことじゃない。きみのことなんだ。大変なことになってるらしいぞ」