笑うのをやめると、寛子はその大きな両目から白い光線を、私に向けて放ってきた。

「結局そういうことなのね。だったらハッキリ言えばいいじゃない。おまえのはあそこは気持よくないんだって。具合が悪いんだって。だからしたくないんだって」

 誤解されているということが、その言葉でわかった。それに同調してしまうほうがいいようにも、私には思われた。だが、あえて予定していたとおりを進めることにした。

「そうじゃない。締まりもいいし気持もいいんだ。ちゃんと射精してるのが、その証拠じゃないか。俺はおまえのあそこのニオイが、スソガが治ってないって、そう言ってるんだ」

「もうたくさんっ。そんなはずないじゃないのっ。ちゃんと手術したんだからっ」

「じゃあ言おう。ワキガの手術をしたからって、あそこのニオイ、スソガのほうは治らないんだよ。おまえを手術した奥山はウソを言ったんだ、おまえのため、いや女のためを思って。いまだから言うけど、俺はそれで、こないだの吉祥寺のホテルんとき、コンドームを使ったんだ。おまえがシャワー浴びにいってるとき、こっそりそれをティッシュに包んで、ズボンのポケットに入れといた。それを持って月曜の仕事中、俺はおまえの執刀医である奥山に会いにいったんだ。最後の病院いきんとき、俺おまえにつきあったろ? だから行けたんだよ。それで奥山本人が、おまえにウソをついたってことを、告白したんだ。その理由も、俺には話してくれたよ」 

 またもやで、寛子は呆然となっていた。しかしこのあとには、なよなよした両手で、私の右手を包んできた。

「どうしてなの? 教えてちょうだい」

「いいとも。でもそれを明かしてやるからには絶対、早まった考えは起すなよ。絶対にだ。いいな寛子。それから……。それから、しばらくはお互い、連絡を取り合わないでおこう。そうしてじっくり考えるんだ。……だけど俺はおまえのことが、心の底から好きだ。別れる気なんて全然ない。そのことも絶対に、忘れずにいてくれ。おい寛子、約束できるか? できないんなら俺は……」

 その先を続けても無意味なのに気づき、私は言いさした。すでに伝えないわけにはいかない情勢となっているのだ。私はただ、寛子に間の手を入れて欲しかったのであろう。そしてそれは、ややあってから叶えられた。

 病院での一部始終を、私は話した。しかし、ここでもまた、ピーナッツの袋のことに関しては手を加えた。というより、一切を隠蔽した。あたかも使用済みのゴム製品のみをティッシュに包んで持ち帰ったかのように、そのことには触れずにおいた。先で寛子が何をしでかそうと、奥山医師がそれを言うとも想われなかった。

 事実を聞き終えてからも、寛子はただただ泣いていた。そういうときの女になにを言っても無駄なのは、男を三十年もやっていればわかる。嵐にはならなかったが、しつこい雨になっている。小降りになるまで呑んでいたい気分だったが、すでに午前二時に近い。遅くとも八時半には起きねばならない。早く休みたかったが、成行き上、話に一定の決着がつくまでは我慢したほうがいいように思われた。そういうときの常で、私は紫煙を白煙に変換する作業を、続けているよりほかなかった。天気の変わるのをただじっと待っているよりは、喫いすぎによる吐き気でも堪えているほうが、よほど退屈を凌げる気もしていた。

「ありがとうございました」

 ぽつりと、小声でそう言ってきた。その言葉づかいは、ある時点から聞かれなくなっていたものだった。それがいつのことであったのかは、私には曖昧である。寛子が、自分はもはや「病人」ではないと、意識しだした頃からだったろうか。すなわち、私にはどうでもいいことなのであった。しかしここでは、その物言いが、いまだ対等な人間ではないということを彼女が自虐的に表明しているように、私には受け取れた。

「そういう口の利きかたはよせ。俺とおまえは恋人同士、対等なんだぞ」

「わかりました。じゃあよします」

「よしてないだろ」

 やはりそういう意思でいたのかと、私が合点したところで、である。突如として、寛子は立ちあがった。足早にベッドの脇まで行くと受話器を取りあげた。その意図を察することすらせず、私は止めに向かった。握っているものをなかなか放そうとはしない。

「おいっ。こんな夜中に何だよっ」

「電話するのよおっ。なんかののしってやらないことには腹の虫が治まらないものっ」

 医者に対してかと、愚かにも私は想った。少し酔っていたのかもしれない。彼に罪はないのを言いながら、なおも寛子の左手を開かせようとした。

「ちがうわよおっ。クソババアにかけるのよおっ。……放してっ。すぐに手術してもらえるようにもっ。言ってやるんだからあっ」

「おまえっ。さっき俺があんなに言ったのにっ。俺との約束を破る気かっ」

「だってあんなもんなんかっ。クリトリスなんかっ。感じなくなったっていいんだもんっ」

「バカヤロオッ」

 叫んだのが先だったか、寛子の頬を叩いたのが先だったか、私には憶えがない。無我夢中であった。力のこもった一撃でもあったので、次の瞬間には、寛子はベッドに伸びていた。薄緑の受話器が白色の床に転がっているのが、視界の隅に見えた。自分のやってしまったことに怯え、私は動けなくなっていた。聞くともなく、話し中のときの信号音を、耳にしていた。やがて、それをかき消してしまう大きな声が、ベッドから沸き上がった。

「じゃあどうしたらいいって言うのよおっ」

 寛子が気絶していたのではなかったことがわかり、まずは安堵した。

「約束しただろ。じっくり考えるんだ。最低でも一ヵ月だ。そのあいだに手術なんかしたら赦さないからな。そのときこそ別れるからな。いいな寛子。俺が電話するまで自分だけで考えるんだ。一生のことなんだからな。……おい寛子。ちゃんと聞いてるのかおまえ?」

 短い言葉だけが返されてきた。

「俺だって辛いんだ。悲しいんだよ。……でも考えなきゃいけない。真剣に考えなきゃいけないことなんだ。俺も我慢するんだ。……だからしばらく会えなくなるけど」

 私はこの部屋に入ったときのことを思い出した。一時的にでも悦ばせてやろうと思い、抱き起そうとした。だが、寛子の首は一方の肩に振られた。その青白い横顔に、長い黒髪が貼りついていた。言うべきことは、すべて言った。軽率な行動を起された場合にこちらがどうする用意があるのかも、身体で伝えることができた。手は尽したのを、私は自身に認めた。彼女をベッドへ静かに降ろすと、自分の物を持って部屋から出ていくことにした。

 ドアまで行った。興奮で眠れなくなる気がし、私はテーブルへと引き返した。寛子はそのままになっていた。事故に遭って動けなくなっている人のように見えた。もういちど抱き上げてやるべきだろうかと、私は自分に問うた。一方で、せっかくの鮮やかな切断面を、台無しにしてしまうようにも思われた。ブランデーの残りをもらっていくことだけを、私はつぶやくほどの音量で言ってみた。それまでに同じく、かすかな嗚咽しか聞えなかった。

 

          四十九

 

 シティホテルでの一夜のあと、ぱったりと、寛子からの連絡は途絶えた。こちらが求めたとおりになっているわけで、そこからすれば、彼女と会うことも当分はなさそうである。 

 スケジュール表によれば、田村課長は前日、金曜には帰国することになっていた。週明け早々、要らぬ土産を山と抱えてくるに相違ない。いや、彼の性質を考えれば、部下たちに少しでも負担をかけまいと思い、休日を返上しているかもしれなかった。寛子に会えなくなった淋しさを紛らしたいこともあり、その週の土曜、私は会社に出てみることにした。

 自分に利のない社員との接触を必要最低限に留めている、担当業務のみを孤独にこなしている私などは、まだ早く退社し、まだ多く休暇を取っているほうである。普通はそうは行かない。時間が無駄になるのを承知しての「つきあい」もあろう。海外営業部に属する私と似たような立場にある者たち、末端管理職と若手とのあいだに位置する者たちにとって、土曜は出勤日と変わらないのだ。Tシャツにジーパンで出ても咎められないというだけの、ちがいしかない。その一日でその週の残務を片づけ、翌週の始まりには他の課と同一のスタートラインに立とうと図るのである。調整日、といってもいい。方々からの邪魔が入らなくとも追っつかない者は、さらにもう一日、日曜にも出社する破目になる。

 案の定、田村課長は出てきていた。私の姿を喜んでくれた。その週に自分以下のやるべきことは、前夜のうちに片づけてある。それを伝えると、さらに相好を崩して見せた。さっそく二人で、土産物を捌きにかかった。

 午前の三時間が終ったのを、二回目の時報で知った。その音は、休日にでも、一日四回、社屋ビル内に鳴り響くこととなっている。少なからぬ社員が出てきているのを前提とされているわけで、憎らしいことこのうえない。午後一時と五時にも聞かされるのかと思うと、怒るよりも先、私はうんざりした。溜息が出た。それで落ちた両肩へ、うしろからさらなる重みを掛けられた。

「遠藤君メシだ。きょうは俺が奢るよ。ま、あと二時間もやれば片づくだろうから、メシのあと、喫茶店で息抜きしようや。なんたって、本来なら休みなんだからな」

 フランスではコッテリしたものばかりを食べざるをえなかったとのことで、手打ちそば屋につきあわされた。立食いの店でなくとも話は弾まなかった。そのせいでなのか、喫茶店に入ってからの田村課長は、いつになく盛んに話しかけてきた。私の虚言をもとに、まずは父親の容態を尋ねることから、それは始められていた。

「それは何よりだな。じゃあきみも、仕事のことだけ考えればよくなったってわけか。そうだよな。だからきょうだって出てきてくれてるんだもんな。そうか。いや安心だ」

 そのことを知ったからといって仕事を押しつけてくるような人ではない。最後の一言が、やけに私の耳に残った。何かある気がした。

「いやあ、ハハ。ちょっと待ってくださいよ課長。これから次の嫁さん候補も、探さなきゃなんないんですし」

 そう返しつつも、目に心を曝け出してみた。

「そうか。そうだよな。……じゃあやっぱり、きみにだけは早いうちに知らせとくか。俺さ、月曜にも辞表を出そうと思ってるんだ」

 そんな気配は露ほどもなかったのである。驚きの声をあげてから、私は前屈みになった。

「でもいきなり、どうしてなんですか?」

「訊くまでもないことじゃないか。待遇が悪すぎるからだよ。きみは仕事を進めるのが速いから、百時間は超えてないだろ? 一月の残業。俺がきみのポジションだったときなんか、百八十時間ぐらい、必ずあったよ。だけど、申請できる上限は百じゃないか。ずいぶんと会社に、貴重な人生をくれてやってきたってわけだ。それで、やっと課長になれたかと思やあ、管理職には残業代がつかない。といって、定時に帰れることはまずない。相変らず八十時間ちかくは、会社にタダでくれてやってることになる。……俺ももう四十なんだぜ。人生の半分ぐらいは、もう終っちまってる。頭と身体が思うようになるのも、せいぜいあと三十年だ。それにもし、こんな生活のままなら、もっと早くダメになりそうだ」

「まあ。……何かでも、僕には別の理由がおありになるような気が……」

 課長は、目を細めながらで紫煙を吸引した。

「うん。今回のフランス行きで、つくづくそう思ったんだ。人生を楽しまなきゃいかん、とね。女房には前からずっと、言われてたんだけど。踏ん切りがつかなかったんだ」

「でも。次に行かれる会社を、決められてからのほうがいいんじゃないですか? 会社を辞めたあとブランクがあると、再就職に不利だってこと、友人から聞いてますし」

「ありがとう。実はもう決めてあるんだ。いつかきみに話したっけかな? うちの女房の実家、京都で四百年も続いてる、お数珠の老舗なんだ。ずっと断ってきたんだけど、入れてもらおうと思ってね。地球上から仏教がなくならない限り、食いっぱぐれることもないわけだし。俺自身、熱心じゃあないけど、仏教徒ではあるわけだしな」

「そういうことだったんですね」

 私は微笑んだ。ただ、心が安らいだためにそうしたのではなかった。目の前にいる相手からだけでなく、部長や常務からも、私は高く評価されている。年齢では、課長には早すぎる。しかし、能力面では、それに劣らないものがあると見なしてもらえるであろう。ちょうど前年から、そういったケースの対処法として「チームリーダー制度」というのができている。これは、表向きは部長が課長を兼務し、年齢が満たないだけの課長候補者に、その肩書と、実質的な課長としての権限を与えるというものである。一般的な会社で考えれば、課長代理か係長といったところか。相応の手当も付与される。また、労働協約上は管理職ではないので、残業代も変わらずに支給される。そんな好ましいポストが転がり込んでくるのを想い、私は喜んだのであった。

「でも脅すわけじゃないけど。きみもちょっとは、考えといたほうがいいぜ。お父さんのこともあるんだし。きみほどの頭とパワーがあれば、もっと待遇のいい会社なんて、ごまんとあるだろうし」

 そこで、課長が大きく息を吸い込んだのが、その鼻翼で見て取れた。その目つきも、抗議する人のそれに変わっていた。

「辞めるのを決めたから言うわけじゃないけどさ。この会社、きっと近い将来、問題が出てくるぞ。常務以上の三分の二は、中途入社してきた同族だろ? 広告宣伝費ばっかり使ってて、社宅団地一棟つくるわけじゃない。女の子が入れ替わるのは好ましいこととしても、入社して三年未満の、若い社員の定着率がひどく悪いだろ? なんか手を打たないことには、有能な若手はみんな、給料のいい会社に引っこ抜かれていくんじゃないか? この国でも、転職が悪いなんて考えはもう古いんだし。……フ。いまの俺の話を聞いててきみは、負け犬の遠吠えだと、思ってるかもしれないけどな」

 これほど温厚で人づきあいのいい人間にでさえ見離される会社、というわけである。たしかに、喜んでばかりもいられない気がしてきた。休日に時間ができたこともある。この日の帰りにでも、自社の待遇と世間の相場とを、私は比べてみようと思った。

 只働きは御免である。田村課長が帰ってからも、私は居残った。午後四時ちょうどになるまで時間をやり過ごした。そのときが来てタイムカードを押してから、仕事場を離れた。

 ビルを出たところでふと、足が止まった。眼前の明るさに目立った衰えが認められず、費やした時間が幻であったかのような錯覚を起したためだろう。そう解釈することで、私は歩みを再開した。

 しかし、内部には、なおも抵抗を続けているものがあった。それに、私は首を振らされた。ギラついている高層ビル群の高みへと、目を吸い寄せられた。そこにある光の溜り場では、淡い黄色も見て取れ、この日の老化が確認できた。私は満足を覚えた。

 それでもまだ、頭のなかには、頷かないものが残っているようだった。釈然としないまま、駅への一本道に視線を戻した。そちらでは、やはり、白日に劣らない光が煌めいている。彼方まで伸びている。私は、苛立っている自分を認めた。進路を変えようと思った。地下なのか地上なのかが定かではない平面が、眼下にとらえられた。その凹みの明るさなら、どうにか受け入れられそうであった。近くの階段を駆け降りた。

 そこを進みだしてからでもまだ、頭のなかのものは、きっぱりとは頷かなかった。高層ビル群の根元にある暗がり、アリの巣にも似た道へと、私を逃げ込ませた。

 くつろいだ気分になれたところで、私は自分を高ぶらせていたものの正体を探ってみた。

 白い光を避けないことには、この夏が永遠に終らないような気がしていたのだ。その時点では、そんなことにこだわっていた自分が、ただ滑稽に思われただけであった。

 誰の目があるか知れたものではない。就職情報誌は、地元の本屋で求めた。さらに私は、猥褻な雑誌を買うときの要領で、そそくさと、その二冊分、二種類分の代金を支払った。完璧を期そうと考えた。店員から受け取った紙袋は、ルイヴィトンのビジネスバッグに押し込んでおいた。

 玄関ドアを開けると、奥からの足音が聞えた。忙しないのに、踵の音が含まれている。相撲取は我が家にはいない。腹に子供を抱えていた経験のある女、母親の連打する音にちがいなかった。ピンと来た。不在のうちに寛子に絡む何事かが起きたのを、私は察した。ことさらゆっくりと、靴を脱ぎにかかった。

「あんたっ。こないだの水曜っ。徹夜マージャンだったってのはウソでっ。中谷さんとどっかに泊まってたんだねっ」

 詰問する口調ではあるが、顔は笑っている。女と外泊した際の常で、私はとぼけた。

「なんでって。中谷さんのお母さんが電話してきたからだよ。急用らしいし。でも安心していいよ、怒ってる感じじゃあなかったから」